5酒屋
「じゃあ行くね。」
先生は黒い外套を着て玄関のまえにて立っていた。
「いつ頃にお帰りになさいますか。」
「えぇっと、分からない。多分夜遅くなるから、先に寝ていていいよ。ここは治安がよくって、泥棒はめったに入らないから安心しなさい。」
「分かりました。気をつけて行ってらっしゃいませ。」
「ああ。」
先生は珍しく今日の晩、古きご友人と飲みに行くそうです。先生は「あいつに一泡吹かせる。」と意気込んでいました。
「……静か。」
ずっと虫の音が耳の側で鳴っている。しかし先生がいないだけで、こんなにも暗くなるなんて思いもしなかった。
「……ふう。」
わたしはなんとなく畳の上に正座のまま、寝転びました。かすかに畳の香りがします。
「先生は……なんで奥さんがいないのかしら。そんな話、ちっとも聞いたことがないわ。」
先生は今年で三十であり、もうじき、おじさんと呼ばれる歳である。そして、二十九歳までは親の同意がなければ、結婚できない。
「先生に一度、聞いてみようかしら。けど……怖いわ。先生に他の女の人がいるなんて……考えたくもないわ。」
きれいな三日月を眺めた。
「先生、今頃どうしてるかしら。」
――――――――――
ガヤガヤ
僕と友人は飲み屋の、背もたれが短い椅子に座った。
「久しぶり。」
「うん、久しぶり。」
すると友人はいきなり僕の背中を叩いた。ぎらぎらと照明が照っている。
「そんなしけた顔すんなって!今日は呑もう!呑もう!」
「うん、呑もう。」
友人は麦酒をぐびっと呑んで、ゴンっとわざとらしく机に置いた。
「いやぁ、しかし、俺は運がいいなぁ……!東京に仕事として呼んでもらえるなんて。俺もけっこう有名になっちまったもんだ。」
「どうだい?原稿の方は。」
「…………。」
友人はあからさまに目を逸らす。きっとサボっているのであろう。分かりやすいやつ。
「まぁそんな事は気にすんな!東京にいる間は遊ぶんだ。お前も少しは京都へ帰って来たらどうだ。」
「……無理だ。」
「あんな事、親にされたら……分かるけどさ、世界に一つしかない両親だぜ?大切にしないと。」
「で、お前はどうなんだ?近頃、売れているようだが。」
すると、後ろの席からこんな会話が聞こえてきた。
――「君、あったかい湯に氷を入れたらどうなると思う?」
「なに?そんな贅沢なことをしたのか。」
「冷たい水が飲みたくてね。側にあったかいやつしかなかったんだよ。それよりどう思う。」
「君は貴族かね。うぅん。氷が溶けるとしか………」
「ははは、その通りだけれども、氷がね、火のようにぱちぱち早く溶けるんだよ。」
「へぇ。」
「君もやってみるといい。」
「嫌だよ。そんな贅沢。普通の水で充分さ。」
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一方のよもぎ。
わたしは先生に貸してもらった小説を読んでいた。小説って、作者の頭の中を覗き込んでいるようで、こしょばくなるのね。
「先生はなぜ、小説家の道をお選びにならなかったのかしら。」
先生は自分の小説を下げていた。下に見て、下に見て。自ら生み出した世界を、花を日常のように扱っていた。
「先生はいつも分からないわ。曖昧だわ。知りたい。知りたいけど優しい過ぎて、わたしが先生を傷つけてしまうわ。」
もし、嫌いな人が襲われていたら、見て見ぬをできずに先生はその嫌いを助けるだろう。そのくらい、優しい人。
「それに、先生、ご家族のことを嫌に思ってらっしゃる……分からないことが多すぎるわ。先生はなんでああなってしまったのかしら。」
――――――――――
もう随分呑んだところであろうか、友人がグリム童話のような、飛んだ話をした。
「俺さ、もう時期結婚するんだ。」
「……聞いてないぞ。」
「だから、今日、お前に直接言ったんだ。」
「相手は好い人か?」
「うん。」
友人はお酒で赤くなっている頬を、またさらに赤く染めた。
「それにもう子供も授かった。」
「ぇ、授かったって……お前……」
「はは、できちゃった。」
橙色の照明に当てられ、酔った頬で友人は笑ってみせた。
「……そう。」
「子供がいりゃ、人生福だね。」
僕が麦酒を呑んでいると、なんて言う顔してるんだと言う顔で、友人は僕に問いた。
「お前、あの女中はどうした。あの子は善い子だろう。」
「あの子は女中じゃない。」
「じゃあなんだ。婚約者か?」
「いや、ただの同居人さ。」
「じゃあ、二人とも共に未婚かね。」
「うん、そうだとも。」
「あんな可愛い子、ほったらかしにしていたらいつかは盗まれるぜ。」
すると、後ろからこんな会話が聞こえて来た。
――「君、猫はなぜ"にゃあ"と鳴くのかね。」
「それは、猫は猫だからだろう。」
「じゃあ犬は何故"わん"と鳴くのかね。」
「それは犬は犬だからだろう。」
「それでは、蟹はなんと鳴く。」
「……あれは軟甲綱であって、犬や猫のように哺乳網ではないであろう。」
「もし、もし鳴くとなったら何の鳴くのかね。」
「くわわとか?」
「くわわぁ?はっはっはっ。」
「何だい。君が言ったんだろう?」
「くわわはないさ。くわわは。」
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「あはは、なんて言う名前にしよう。息子がいいなあ。」
笑う友人を見つめながら、こんな事を思い出した。
友人→小説家
軟甲綱は甲殻類




