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伽藍堂は先生  作者: あ行
友人
5/25

5酒屋

「じゃあ行くね。」

 先生は黒い外套(コート)を着て玄関のまえにて立っていた。

「いつ頃にお帰りになさいますか。」

「えぇっと、分からない。多分夜遅くなるから、先に寝ていていいよ。ここは治安がよくって、泥棒はめったに入らないから安心しなさい。」

「分かりました。気をつけて行ってらっしゃいませ。」

「ああ。」

 先生は珍しく今日の晩、古きご友人と飲みに行くそうです。先生は「あいつに一泡吹かせる。」と意気込んでいました。

「……静か。」

 ずっと虫の音が耳の側で鳴っている。しかし先生がいないだけで、こんなにも暗くなるなんて思いもしなかった。

「……ふう。」

 わたしはなんとなく畳の上に正座のまま、寝転びました。かすかに畳の香りがします。

「先生は……なんで奥さんがいないのかしら。そんな話、ちっとも聞いたことがないわ。」

 先生は今年で三十であり、もうじき、おじさんと呼ばれる歳である。そして、二十九歳までは親の同意がなければ、結婚できない。

「先生に一度、聞いてみようかしら。けど……怖いわ。先生に他の女の人がいるなんて……考えたくもないわ。」

 きれいな三日月を眺めた。

「先生、今頃どうしてるかしら。」

――――――――――

 ガヤガヤ

 僕と友人は飲み屋の、背もたれが短い椅子に座った。

「久しぶり。」

「うん、久しぶり。」

 すると友人はいきなり僕の背中を叩いた。ぎらぎらと照明が照っている。

「そんなしけた顔すんなって!今日は呑もう!呑もう!」

「うん、呑もう。」

 友人は麦酒(ビール)をぐびっと呑んで、ゴンっとわざとらしく机に置いた。

「いやぁ、しかし、俺は運がいいなぁ……!東京に仕事として呼んでもらえるなんて。俺もけっこう有名になっちまったもんだ。」

「どうだい?原稿の方は。」

「…………。」

 友人はあからさまに目を逸らす。きっとサボっているのであろう。分かりやすいやつ。

「まぁそんな事は気にすんな!東京にいる間は遊ぶんだ。お前も少しは京都()へ帰って来たらどうだ。」

「……無理だ。」

「あんな事、親にされたら……分かるけどさ、世界に一つしかない両親だぜ?大切にしないと。」

「で、お前はどうなんだ?近頃、売れているようだが。」

 すると、後ろの席からこんな会話が聞こえてきた。

――「君、あったかい湯に氷を入れたらどうなると思う?」

「なに?そんな贅沢なことをしたのか。」

「冷たい水が飲みたくてね。側にあったかいやつしかなかったんだよ。それよりどう思う。」

「君は貴族かね。うぅん。氷が溶けるとしか………」

「ははは、その通りだけれども、氷がね、火のようにぱちぱち早く溶けるんだよ。」

「へぇ。」

「君もやってみるといい。」

「嫌だよ。そんな贅沢。普通の水で充分さ。」

――――――――――――

 一方のよもぎ。

 わたしは先生に貸してもらった小説を読んでいた。小説って、作者の頭の中を覗き込んでいるようで、こしょばくなるのね。

「先生はなぜ、小説家の道をお選びにならなかったのかしら。」

 先生は自分の小説を下げていた。下に見て、下に見て。自ら生み出した世界を、花を日常のように扱っていた。

「先生はいつも分からないわ。曖昧だわ。知りたい。知りたいけど優しい過ぎて、わたしが先生を傷つけてしまうわ。」

 もし、嫌いな人が襲われていたら、見て見ぬをできずに先生はその嫌いを助けるだろう。そのくらい、優しい人。

「それに、先生、ご家族のことを嫌に思ってらっしゃる……分からないことが多すぎるわ。先生はなんでああなってしまったのかしら。」

――――――――――

 もう随分呑んだところであろうか、友人がグリム童話のような、飛んだ話をした。

「俺さ、もう時期結婚するんだ。」

「……聞いてないぞ。」

「だから、今日、お前に直接言ったんだ。」

「相手は好い人か?」

「うん。」

 友人はお酒で赤くなっている頬を、またさらに赤く染めた。

「それにもう子供も授かった。」

「ぇ、授かったって……お前……」

「はは、できちゃった。」

 橙色の照明に当てられ、酔った頬で友人は笑ってみせた。

「……そう。」

「子供がいりゃ、人生福だね。」

 僕が麦酒を呑んでいると、なんて言う顔してるんだと言う顔で、友人は僕に問いた。

「お前、あの女中はどうした。あの子は善い子だろう。」

「あの子は女中じゃない。」

「じゃあなんだ。婚約者か?」

「いや、ただの同居人さ。」

「じゃあ、二人とも共に未婚かね。」

「うん、そうだとも。」

「あんな可愛い子、ほったらかしにしていたらいつかは盗まれるぜ。」

 すると、後ろからこんな会話が聞こえて来た。

――「君、猫はなぜ"にゃあ"と鳴くのかね。」

「それは、猫は猫だからだろう。」

「じゃあ犬は何故"わん"と鳴くのかね。」

「それは犬は犬だからだろう。」

「それでは、蟹はなんと鳴く。」

「……あれは軟甲綱(なんこうこう)であって、犬や猫のように哺乳網ではないであろう。」

「もし、もし鳴くとなったら何の鳴くのかね。」

「くわわとか?」

「くわわぁ?はっはっはっ。」

「何だい。君が言ったんだろう?」

「くわわはないさ。くわわは。」

――――――――――――

「あはは、なんて言う名前にしよう。息子がいいなあ。」

 笑う友人を見つめながら、こんな事を思い出した。

友人→小説家


軟甲綱は甲殻類

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