23散歩
今日は日曜日。休日である。空は高い高い秋晴れでした。
手元にボタンがほつれた襯衣と糸、針を持って、わたしは先生のいる縁側へと足を運ぶ。
襖を開けると、先生は大の字に寝転がり、脚の半分をそとに出していた。そして近くには原稿が散らばっていた。先生は寐ていたのだ。
「先生、おつかれですか。」
先生はわたしの声に反応し、勢いよく起き上がった。
「よもぎさん。いたのですか。」
「ついさっき来たばかりです。」
先生は襟をただし前髪を整え、落ち着いたところで空を仰いだ。
「僕は先達て、昔の小説を読み返していたのです。昔の僕は余ッ程つらかったのでしょう。文字にずっとずっと込められていました。」
カアと一羽烏がそらに鳴く。
「僕は自ら作品を、卑下したことを後悔しています。よもぎさんの言葉で気がつくことができました。」
彼の横には紙束が積み上がっていた。それは彼の軌跡である。また、他人からすればただの無駄遣いである。そして他人よって、傷つけられることもあるだろう。他人とはそう言うものだ。
「ありがとう。」
「いいえ。わたしは思ったことを言っただけですわ。先生の作品は素晴らしい。」
矢張、先生は他人なのかしら。そして、わたしは他人なのかしら。
「未だ僕の小説を読んでないでしょう?」
「あ」
真実を舌に乗せて、口を滑らしてしまった。時が止まる。
「いいえ、わたし、読んでしまったの。先生の作品、読んでしまったの。」
「そうだったのですね。僕は読まれるのが、嫌だと言っていなかったろう。どの作品ですか。」
「『もものはな』という……」
「面白かったですか。」
先生はころころと笑った。けれどその裏には恐怖も感ぜられた。
「ええ。」
「よかった。」
再び彼はころころ笑った。夕方時に遊ぶ子供のように。
「今日は好い天気ですね。散歩にでも行こうかな。」
「好いじゃありませんか。散歩。」
「よもぎさんも来ますか。」と先生は言った。「いえ、僕と来てくださいませんか。」
わたし達は、ぶらぶらと瓦屋根が連なる道を歩いた。
「あ、猫。」
先生の声の先を見ると、灰色の斑猫がいました。先ず猫は欠伸を。その次に、わたし達を愚民のように見下ろした。
「はは、一所だ。」
「何がです。先生。」
「僕の好きな小説の主人公、猫とおなじ模様をしているのです。」
「あら、ほんと。わたしも読んでみたいわ。同じ人?」
「ええ、同じ方です。帰ったら貸しましょう。」
「けれど、」と、先生がいう。
「けれど。」と、よもぎがいう。
「本当は分からないのですよ。あの猫の模様が、本当に一致しているか。それは、読者に託されているのですよ。正解は、作者の頭の中かもしれない。しかし、読者の頭の中かもしれない。」
先生はわらった。
「だから、小説はおもしろい。」
そして先生は、お天道様に向かって拳をあげた。グッと力強く。けれども、革命とか、宣言とかではなくて、弱い石を砕くように掲げた。
「小説は武器より強い。」
それから二人は、繁華街へと足を運ぶ。
「足は大丈夫ですか。」
「ええ。」
今日は白足袋を履いてきた。汚れないか心配だわ。
ふと、顔を上げると、葬儀の棺が運ばれていて、人だかりが出来ていた。棺は豪勢な箱でおおきい。そこには、泣いている方が幾人もいらっしゃった。子供から大人、老人まで。
「よもぎさん、行きましょう。」
「ええ。」
すると先生は、こんなことを論じた。
「文明が発展していくと、娯楽が増加したり、寿命がながくなったりする。しかしね、それと共に文化が廃れていくと思うのです。」
それから。
「僕の好きな瓦屋根だって、最近だとレンガ造りなどにより、いつしか、軒並みで見られなくなってしまうのではないかと懸念しているのです。だけれども、どうか、瓦屋根だけは……残して欲しいですね。」
「先生は、瓦屋根のどのような所が好きですか。」
「そうだね……。瓦屋根は一枚々々、色が違う事があるだろう。それはきっと、台風や地震などの災害によって、新しく取り替えられたのであろう。薄い青や錆びた赤、勝色……魚の鱗みたいなのです。美しい。」
「なるほど……わたし、考えたこともなかったわ。確かに、色が違うわ。わたしは……そうね、瓦屋根は波のようね。」
「波とは。」
「ほら、海って時間によって色が違うでしょう。朝は白くて、昼は光っていて、夕方には一寸橙っぽいわ。」
「いいですね。表現が絵のようだ。ぼくは頭の中で絵が完成しましたよ。」
「褒め上手ね。」
「本当ですよ。」
それから、先生は「あと、」と付け足した。
「あと、角度によってまったく表情が違うのです。ちょうど屋根の先端を見てみると、影が消え、菱形になるのですよ。八方美人だ。」
先生がそう言った後、すぐ先を歩いたのでわたしはその後を辿る。
歩いていると、弱い雨が降ってきた時分、ちょうど神社に着いた。先生は雨を予測したのか、将又、偶然か。分からないけれど、わたし達は境内へ入って行った。
道には、桜の枯葉がおちていた。まだ雨が浸透していない、ぱりぱりの葉々を踏みながら、雨に打たれる先生の後ろ姿を眺めた。わたしは愛おしい貴方の歩き姿が、無言の文章のように、美しく感ぜられた。よく見ると、先生は足袋を履いていなかった。
「雨宿りしましょう。」
先生が、ようやく口を開けた。
「ええ。あすこの階段で、休憩しませんか。」
階段に腰掛けたところ、先生は小さなため息をお吐きになった。きっと先生自身、気がついてないであろう。
先生はまぶたの力をゆるめ、雨音と共に目を反射していた。
「僕は、」と先生は話し始めた。
「僕は、結婚について余り、良いものだと考えてきませんでした。」
突拍子のない結婚のことを言われたので、文が耳の中に入っても、言葉では理解できなかった。
「僕は、あのような両親を見てきて、きっと僕もこうなるのだという心持ちで生きてきました。」
「ずっと。」声が雨音に溶ける。言葉にも溶ける。
「僕の母は、父に隠れて他の男と会っていました。時には、家に連れ込むことだってあったのですよ。そして……いえ、これは……言わないでおきます。そして、仕舞いには私に「あの人は父親ではない。」と言われました。今頃、母がこの世にいたら、私は罪を犯してまで、いえ、人間をやめてまで、母を殺めていたでしょう。私は馬鹿だったのです。阿呆だったのです。そのような母に、線香を焚いていたのですから。仕合わせと言うものは、仕合わせになった時にしか分からないものなのです。今思うと昔は散々でした。けれども、その頃は衣食住もできて、友人もいて、仕合わせだと思っていました。」
「今はどうですか。」
「仕合わせですよ。」
先生は笑った。
「もっと仕合わせになりたいなど、思われないのですか。」
「それはどういう……」
二人は見つめ合う。
すると、よもぎの額に一滴、雨水が落ちる。
「冷たい。あはは、なぜここに落ちてきたのかしら。他にまだまだあったでしょうに。」
「ふふ、そうですね。」
雨が強まって、先生の声と馴染んだ。
「ここ、ここ。覚えてますか。貴方の腕を引っ張りながら、ついた場所です。きれいなばしょ。」
「ええ。覚えていますとも。一緒に買い物に行った日ですわ。」
次の次で終わりです。以下は没会話です。
「永遠はあると思いますか」
「ありますとも。それがなかったら生きていけない。もう信仰みたいなものさ。永遠があるこそ僕らは生きて行く。しかしね、にんげんは途切れて行くことに意味があるんだよ。永遠は人をだめにする。永遠だと何もしない怠惰になってしまうから。ただ、起きて食べて、働いて食べて、働いて食べて寝て。意味が見出せない。けれど幸いなことに人間には最期がある。働いて食ってを繰り返すと、最期になって焦っちゃうよ。皆、後悔しないように生きている。しかし永遠というものは、誰しもが経験できないものであり、ただ、人間が勝手に付けた言葉だ。」
「じゃ、永遠はないんですか。この時間も永遠じゃないってことですか。」
「残念ながら。永遠じゃないことに意味がある。僕らは変わり続ける。変化しないことは、死ぬ事と一緒だ。死んだ体を操って、死んだ瞼や唇を動かして。永遠は嫌だ。嫌だけれども恍惚してしまう。それが永遠だ。」
また一緒にどうですかと言われたかった。
「けど、」
「けど、永遠に続いて欲しいね。また、また一緒に。」
「歩こう。」
「ええ、先生。また一緒に。」




