22銭湯
「坂下さん、お疲れ様です。」
「お疲れ様。」
あんなに元気な坂下さんでも、お疲れになられている。
今日、大学卒業の宴がおわった。それはそれは盛大であった。坊ちゃん様は笑顔ではなかった。
「今日は夫が迎えに来てくれるんだよ。」
「あら、そうなの。」
坂下が「よもぎはどうだい。」と目配せをした。
「わたしは一人。一人で帰りますよ。」
「そうかい。じゃあ道端で倒れないようにね。」
「そんな。」
と、わたしが口を当てて坂下さんの冗談を笑っていると、向こうから男の人がやって来た。
「お、旦那だ。おーい!」
坂下さんは、疲れを吹き飛んだ笑顔で、大きく手を振りました。けれど、目はお疲れなようです。
坂下さんの旦那様がお迎えに来ました。少しだけ、わたしは後悔しました。
「もう草臥れたよ。その代わり、ちゃんと錢は貰った。あ、そうだ。この子はよもぎだよ。少しの間、仲良くしてもらった子。」
そう言いながら、坂下さんはわたしを紹介してくるだすった。
わたしは一寸がっかりしました。そうか仲良くと言っても、数年前からの友ではないことを、神様に思い知らされた気がしました。
旦那さんはぺこりとわたしに会釈しただけである。
「こら、声を出しな。挨拶くらいするもんだよ。子供かいあんたは。」
坂下さんは、ばしんと旦那さんの背中を叩いた。旦那さんは痛そうに背中をさすった後、わたしの方をご覧になった。
「どうも。わたくしの妻がお世話になっております。」
夫が挨拶を交わすと、後ろから誰かが来たようだ。
「よもぎさん。」
「わっ!……先生じゃ、ありませんか。何故ここに。」
「今日は早く切り上げさせられたのです。」
すると、旦那さんは頭をぽりぽりかきながら口を開いた。
「ありゃ、先生、もしかして貴方のおっしゃっていた女性の方ですか。」
「ええ。」
先生は優しく微笑んだ。
「あら?お二人ともお知り合い?」
「うん。英語の先生。坂下先生。」
「はっはっはっ!人生、何があるか分からないねえ!縁起がいい。」
「不思議だ。」
心が温かい。それから、金木犀の香りが漂った。
「じゃあね!よもぎ!また定期的に二人で話そう!」
「もちろん。坂下さん、ずっと友達ですよ。」
「あはは、なんだか照れくさいね。」
先生も隣で会話をしていた。
「今年も採点が多い時期に入りましたな。それに、今年は個性の強い子が多い。そちらの組はたしか……海裏がいましたよねえ。」
坂下旦那は、心を開いた人にだけ饒舌である。
「ええ。坂下先生も熊谷が……。お互い頑張りましょう。」
「ええ、頑張りましょう!」
坂下さんは大きく手を振ってくれた。わたしも大きく振った。袂が激しく揺れたのを覚えている。
「またね!」
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「あら、先生。まだお仕事をなさいに。」
「うん、終わらないんだ。幾度、丸をしてもしても、次がある。」
助けを求める上目で先生は筆の先を止める。それから、わたしは先生にお茶を差し出した。
ゴーンゴーン
時計が時刻を知らせる。
「あれま、こんな時間か。銭湯が混む前に行きましょうか。」
「ええ。今、準備を。」
――――――――――――――
二人は銭湯に着いて、湯に浸かり、よもぎは木の椅子に座って男を待っていた。
銭湯にはさまざまな人がいらっしゃる。さわぐ子供、それを叱る親、婆さんを待つ爺さん。本当にさまざまだ。
「毎度。」
わたしはなんとなく、勘定台の方を眺めた。店主は分厚い眼鏡をかけてしわの濃い、渋いお爺様である。そのお爺様は慣れた手つきで、ぺらぺらと一枚一枚、紙幣をかぞえていていた。
子供は"それ"ができないのかしら。できても遅いのかしら。お金をかぞえるのが早くなると、大人になるということかしら。
そう考えていると、いきなり男湯の方から'がしゃん'と大きな物音がした。
「あら、なんの音かしら。」
そして暖簾のさきを見ていると、先生がそれをくぐってこちらへ来た。
「やあやあ、待たせてしまって。」
「いいえ。」
もう何十回と銭湯へ来ているのだから、謝罪もだいぶ薄くなって、お互い気を遣わなくなった。
「さっき大きな音がしたけれども、大丈夫です、先生。」
「ああ、それはですね……」
と先生が言いかけた時、男湯の暖簾から人がいきなり倒れてきたではないか。その男は鼻血を垂らして、傷だらけである。
「何事でい!」
さっきの店主が騒ぎの方へ、えっさえっさと走る。
「おい!やめろ!喧嘩は外でやれ!ここが潰れるだろう!あゝ、もう、測りを壊して!」
それでも尚、若者ふたりは殴り合っている。左拳、右拳、膝蹴り、回し、顎蹴り……見ていた客は、止める者と面白がっている者でそれぞれ分かれていた。
すると先生がわたしの肩をぽんぽんと叩く。
「よもぎさん、外へ出ましょうか。」
わたしたちは喧嘩がなかったようにその場を離れた。
もう外は暗くなっていた。けれども、少し空は赤に光っているところがあった。冥途のようである。
「ああ言う人らは放っておくのが一番です。」
「ね、正義心はなくて?先生。」
わたしは以前より本音で話せるようになった。
「ありません。僕にそんなきれいな物はありません。」
「あら、わたしと一緒ね。」
すると、背後に人がいようだ。銭湯を上がって来たばかりであろうか。こんな会話が聞こえて来た。
「君、もし、世界中の人らが一箇所に集まって、一度に叫ぶとどうなる。女も男も赤ん坊も、老人も、偉い奴だって。もちろん君と僕もな。」
「そんなこと出来るか。」
「イマージネイション(仮想)の話だ。その声は地球一周廻ると思うか。君、どう思う。」
「廻る。誰がどう言おうと廻るさ。」
「何故。」
「そうしないと、集まった全人類が絶望するからな。そして、鼓膜が破れたまんま帰る。」
「はっはっは!君はHegemonieだ!僕の想像を遥かに超える。」
「嫌だよ。そんな者は。僕は君とこうしてずっと馬鹿馬鹿しい話をしていたい。」
「ああそうだな。僕らにはそれが丁度いいかもしれない。」
その二人は、角で曲がったようだ。もう声が聞こえなくなった。
「よもぎさん。」
すると、先生は空に向かって指をさした。星が弱く幽かに揺れている。
「ある小説家は訳した。月が綺麗ですね。と。」
「それはどう言う意味なんですの。」
瓦屋根から見える、薄暗い金木犀のような月光に照らされながら、先生は胸に手を添え、紳士のように微笑した。
「貴方を愛しています。」
銭湯だけに戦闘ってな




