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伽藍堂は先生  作者: あ行
日常
22/25

22銭湯

「坂下さん、お疲れ様です。」

「お疲れ様。」

 あんなに元気な坂下さんでも、お疲れになられている。

 今日、大学卒業の宴がおわった。それはそれは盛大であった。坊ちゃん様は笑顔ではなかった。

「今日は夫が迎えに来てくれるんだよ。」

「あら、そうなの。」

 坂下が「よもぎはどうだい。」と目配せをした。

「わたしは一人。一人で帰りますよ。」

「そうかい。じゃあ道端で倒れないようにね。」

「そんな。」

 と、わたしが口を当てて坂下さんの冗談を笑っていると、向こうから男の人がやって来た。

「お、旦那だ。おーい!」

 坂下さんは、疲れを吹き飛んだ笑顔で、大きく手を振りました。けれど、目はお疲れなようです。

 坂下さんの旦那様がお迎えに来ました。少しだけ、わたしは後悔しました。

「もう草臥(くたび)れたよ。その代わり、ちゃんと錢は貰った。あ、そうだ。この子はよもぎだよ。少しの間、仲良くしてもらった子。」

 そう言いながら、坂下さんはわたしを紹介してくるだすった。

 わたしは一寸(ちょっと)がっかりしました。そうか仲良くと言っても、数年前からの友ではないことを、神様に思い知らされた気がしました。

 旦那さんはぺこりとわたしに会釈しただけである。

「こら、声を出しな。挨拶くらいするもんだよ。子供かいあんたは。」

 坂下さんは、ばしんと旦那さんの背中を叩いた。旦那さんは痛そうに背中をさすった後、わたしの方をご覧になった。

「どうも。わたくしの(さい)がお世話になっております。」

 夫が挨拶を交わすと、後ろから誰かが来たようだ。

「よもぎさん。」

「わっ!……先生じゃ、ありませんか。何故ここに。」

「今日は早く切り上げさせられたのです。」

 すると、旦那さんは頭をぽりぽりかきながら口を開いた。

「ありゃ、先生、もしかして貴方のおっしゃっていた女性の方ですか。」

「ええ。」

 先生は優しく微笑んだ。

「あら?お二人ともお知り合い?」

「うん。英語の先生。坂下先生。」

「はっはっはっ!人生、何があるか分からないねえ!縁起がいい。」

「不思議だ。」

 心が温かい。それから、金木犀の香りが漂った。

「じゃあね!よもぎ!また定期的に二人で話そう!」

「もちろん。坂下さん、ずっと友達ですよ。」

「あはは、なんだか照れくさいね。」

 先生も隣で会話をしていた。

「今年も採点が多い時期に入りましたな。それに、今年は個性の強い子が多い。そちらの組はたしか……海裏がいましたよねえ。」

 坂下旦那は、心を開いた人にだけ饒舌である。

「ええ。坂下先生も熊谷が……。お互い頑張りましょう。」

「ええ、頑張りましょう!」

 坂下さんは大きく手を振ってくれた。わたしも大きく振った。(たもと)が激しく揺れたのを覚えている。

「またね!」

――――――――――――――

「あら、先生。まだお仕事をなさいに。」

「うん、終わらないんだ。幾度、丸をしてもしても、次がある。」

 助けを求める上目で先生は筆の先を止める。それから、わたしは先生にお茶を差し出した。

 ゴーンゴーン

 時計が時刻を知らせる。

「あれま、こんな時間か。銭湯が混む前に行きましょうか。」

「ええ。今、準備を。」

――――――――――――――

 二人は銭湯に着いて、湯に浸かり、よもぎは木の椅子に座って(先生)を待っていた。

 銭湯にはさまざまな人がいらっしゃる。さわぐ子供、それを叱る親、婆さんを待つ爺さん。本当にさまざまだ。

「毎度。」

 わたしはなんとなく、勘定台の方を眺めた。店主は分厚い眼鏡をかけてしわの濃い、渋いお爺様である。そのお爺様は慣れた手つきで、ぺらぺらと一枚一枚、紙幣をかぞえていていた。

 子供は"それ"ができないのかしら。できても遅いのかしら。お金をかぞえるのが早くなると、大人になるということかしら。

 そう考えていると、いきなり男湯の方から'がしゃん'と大きな物音がした。

「あら、なんの音かしら。」

 そして暖簾(のれん)のさきを見ていると、先生がそれをくぐってこちらへ来た。

「やあやあ、待たせてしまって。」

「いいえ。」

 もう何十回と銭湯へ来ているのだから、謝罪もだいぶ薄くなって、お互い気を遣わなくなった。

「さっき大きな音がしたけれども、大丈夫です、先生。」

「ああ、それはですね……」

 と先生が言いかけた時、男湯の暖簾から人がいきなり倒れてきたではないか。その男は鼻血を垂らして、傷だらけである。

「何事でい!」

 さっきの店主が騒ぎの方へ、えっさえっさと走る。

「おい!やめろ!喧嘩は外でやれ!ここが潰れるだろう!あゝ、もう、測りを壊して!」

 それでも尚、若者ふたりは殴り合っている。左拳、右拳、膝蹴り、回し、顎蹴り……見ていた客は、止める者と面白がっている者でそれぞれ分かれていた。

 すると先生がわたしの肩をぽんぽんと叩く。

「よもぎさん、外へ出ましょうか。」

 わたしたちは喧嘩がなかったようにその場を離れた。

 もう外は暗くなっていた。けれども、少し空は赤に光っているところがあった。冥途(めいど)のようである。

「ああ言う人らは放っておくのが一番です。」

「ね、正義心はなくて?先生。」

 わたしは以前より本音で話せるようになった。

「ありません。僕にそんなきれいな物はありません。」

「あら、わたしと一緒ね。」

 すると、背後に人がいようだ。銭湯を上がって来たばかりであろうか。こんな会話が聞こえて来た。

「君、もし、世界中の人らが一箇所に集まって、一度に叫ぶとどうなる。女も男も赤ん坊も、老人も、偉い奴だって。もちろん君と僕もな。」

「そんなこと出来るか。」

「イマージネイション(仮想)の話だ。その声は地球一周廻ると思うか。君、どう思う。」

「廻る。誰がどう言おうと廻るさ。」

「何故。」

「そうしないと、集まった全人類が絶望するからな。そして、鼓膜が破れたまんま帰る。」

「はっはっは!君はHegemonie(ヘゲモニー)だ!僕の想像を遥かに超える。」

「嫌だよ。そんな者は。僕は君とこうしてずっと馬鹿馬鹿しい話をしていたい。」

「ああそうだな。僕らにはそれが丁度いいかもしれない。」

 その二人は、角で曲がったようだ。もう声が聞こえなくなった。

「よもぎさん。」

 すると、先生は空に向かって指をさした。星が弱く幽かに揺れている。

「ある小説家は訳した。月が綺麗ですね。と。」

「それはどう言う意味なんですの。」

 瓦屋根から見える、薄暗い金木犀のような月光に照らされながら、先生は胸に手を添え、紳士のように微笑した。

「貴方を愛しています。」

銭湯だけに戦闘ってな

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