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伽藍堂は先生  作者: あ行
日常
21/25

21小説

 先生は線香を焚かなくなった。

 なぜかは分からない。それをわたしが知る必要がないから、先生には聞かなかった。わたしが知っても、自己が満足するだけである。

「ごめん下さあい!先生!海浦です!」

 部屋の掃除をしていると、元気な青年の声が外からきこえて来た。格子を開けてみると、以前会った小柄な海浦くんが、そこにちょこんと立っていた。ちょこんと言っても、わたしより背が一寸ほど高い。

「あら、海浦くん。いらっしゃい。以前はごめんなさい。先生は今お外に出てらっしゃるから、先に上がってお待ちなさい。数分すれば帰って来ますよ。」

 そう言って、海浦くんを客間へと案内した。

 わたしがお茶を差し出すと、海浦くんはこんな事を言った。

「先生は偉大ですがな。偉大ですがな。そう思いになるでしょう。」

「ええ、そうですね。先生は外ではどんなご様子で?」

 海浦くんは一口茶を飲んだ後、メガネをキラリと光らせた。

「物静かなお人ですがな。授業をサッと始めて、サッと終わる。無論、先生の授業は面白いですがな。しかし、つねに敬語で、個人的なことは一切お話しになりませんがな。」

「そうなのですね。面白いってどういう感じなのですの?」

「豆知識や、世界の面白い話をしてくれますがな。一切、お家のことはお話ししませんがな。ところで、家の中での先生はどのような雰囲気なのでしょうがな。」

 海浦くんはそう言いながら、座布団に手を添えて、わたしを座らせてくれた。それまで、わたしは畳の上で話していた。優しい、いい子だ。

「先生は、そうねえ……優しいわ。優しくてなんでも頼れる人よ。」

「はあ、学校とあまり相違ないという感じですがな。不思議なお人だ。」

「けれど少し、子供っぽいところもあるわ。」

「意外ですがな。そのような先生、いちどお目にかかりたいですがな。」

「やめなさい、それは。」

 よもぎは目を細めて笑う。

 海裏くんがわたしを見つめたような心持ちがする。さっきまではぼーっとしていなかった。

「……。なぜ。」

「偉大な人じゃ、なくなりますよ。」

「しかし僕はそれでもお目にかかりたいのです。先生の事をそれだけ尊敬していますから。」

 海浦くんの熱意におどろく。先生は海浦くん(生徒)にどんな事を教えているのかしら。

 すこし肌寒い部屋のなかで、海浦くんは湯気と共に茶をすすった。

「海浦くんは、小説がお好きで?」

「ええ、先生のお陰ですがな。好きになってしまいました。」

 よもぎは口に手を添えて、上品に笑った。海浦はそれをまた、凝視した。

「あら、わたしと一緒。」

「……。どのような小説をお読みになるんですがな。」

「わたしは先生に勧めてもらった"(からだ)"をちょうど読み終わったところなの。」

「ああ、あれは傑作中の傑作……」

 するといきなり障子が開く。

「ずいぶんと、盛り上がっているじゃないか。」

「先生、お邪魔しております。」

 先生は「やあ。」と微笑む。 

 海浦くんは一礼を、わたしは先生に駆け寄った。

「先生、お帰りになられたのですね。わたし、ちっとも気付かなくて。ごめんなさい。」

「いいんだよ。さて、海浦くん、本を見ますかい?」

 三人で二階に上がって、先生の部屋へと上がった。本棚は二台。前よりかはとっても少なくなってしまいました。

「好きなだけ見なさい。引っ越しをしてしまって随分と数が減りましたが……いい本もありますよ。」

「うわあ!すごいですがな、すごいですがな。図書館にない本ばかりですがな。」

 先生は、はしゃぐ海浦くんのようすを朗らかに見守っていた。

 もし子供ができたらこんな感じなのかしら。

「よもぎさんたちは先程、何をお話しになっていたのですか。」

「さっきですか?さっきなら、先生に貸してもらった小説の話をしていましたよ。」

「そうですがな。軀の本は傑作だと。」

 先生は腰に手を当て、ころころと空に光る金平糖のように笑った。

「ははは、良かった。なんだか嬉しいですね。好きなことを共有できるのは嬉しいことです。この部屋にいる三人は根から小説が好きなのですから。」

「そうですねえ。」

 三人笑い合い、部屋には幸せが響き渡った。

「興味深い本は見つかりましたか。」

「ええ!"犬も歩けば棒に当たる"!これが読みたいですがな。いいですがな?先生。」

「いいでしょう。貴方のところにずっと閉まっておきなさい。」

 海浦くんはぎゅっと本を抱きしめて、黒き足袋足、一歩、先生の元へ近づいた。

「いいんですがな!いいんですがな!ありがたき幸せ!先生、ありがとうですがな!」

 海浦くんは泣きながらぴょんぴょんと飛び跳ねた。畳からウサギが飛んだ音がする。

「あはは、そんなに喜んでもらえるとは。これなら、本も幸せでしょう。」

「ふふっ、可愛いわね。」

 本は素晴らしい。

 その後、三人でまた客間で話すことになった。

「そういや、お二人方、知ってますがな。最近、"湯呑み酒"という小説が人気だそうで。」

 それって、先生の友人さんの小説だった気がする。

「そうなのですね。」

「ええ。」

 先生は無機質に笑っていた。部屋には無情に二文字だけがひびきわたった。

「今話題の小説を読みたいけれど、僕にはこの"犬も歩けば棒に当たる"という本がありますがな。この作家さんは大好きですがな。先生、ありがとう。」

「いいえ。大切にして下さいね。」

「もちろん!」

 海浦くんは宝を天井に掲げて、熱心に見つめていた。その瞳は、野心に満ちた、こころから探究することを望んでいる。

「よもぎさんはどうだったかい。僕が勧めた小説は。」

「この本と、同じ作家さんですがな。」

 と、海浦くんは付け加える。

「感動しました。最後、憧れの人は亡くなってしまうけれど、切なくてそれも良さなのかなって。」

 先生はわたしの隣で、肩を揺らしながら笑った。生きているのだと実感した。

「そうだね。あれは本当に切なくて寂しい。あの空気感はあの作家さんしか出せないね。」

「本当その通りですがな。奥さんと先生の言う通りですがな。」

 奥さん……、わたし、先生の奥さんじゃないわ……!恥ずかしい。奥さんだなんてそんな滅相な。

「本は勉強ではなかったろう、よもぎさん。」

「はい……!わたしが間違ってました。」

 先生は"それ"を否定しなかった。しかし頬を赤らめ、恥ずかしそうにはしなかった。気持ちがわからない。

 ゴーンゴーン

 時計が時刻を知らせる。

「おや、もうこんな時間ですがな……。先生、僕もう帰らなきゃいけない。先生も奥さんも、ありがとうございました。」

 海浦くんを玄関まで見送った際に、青年はこんなことを言った。

「先生、本当に綺麗な奥さんですね。」

 海浦は門を通り抜けた。その瞬間、玄関の電気がきえて、すこしの会話が聞こえた後、遠のく二人の足音が耳に残った。

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