21小説
先生は線香を焚かなくなった。
なぜかは分からない。それをわたしが知る必要がないから、先生には聞かなかった。わたしが知っても、自己が満足するだけである。
「ごめん下さあい!先生!海浦です!」
部屋の掃除をしていると、元気な青年の声が外からきこえて来た。格子を開けてみると、以前会った小柄な海浦くんが、そこにちょこんと立っていた。ちょこんと言っても、わたしより背が一寸ほど高い。
「あら、海浦くん。いらっしゃい。以前はごめんなさい。先生は今お外に出てらっしゃるから、先に上がってお待ちなさい。数分すれば帰って来ますよ。」
そう言って、海浦くんを客間へと案内した。
わたしがお茶を差し出すと、海浦くんはこんな事を言った。
「先生は偉大ですがな。偉大ですがな。そう思いになるでしょう。」
「ええ、そうですね。先生は外ではどんなご様子で?」
海浦くんは一口茶を飲んだ後、メガネをキラリと光らせた。
「物静かなお人ですがな。授業をサッと始めて、サッと終わる。無論、先生の授業は面白いですがな。しかし、つねに敬語で、個人的なことは一切お話しになりませんがな。」
「そうなのですね。面白いってどういう感じなのですの?」
「豆知識や、世界の面白い話をしてくれますがな。一切、お家のことはお話ししませんがな。ところで、家の中での先生はどのような雰囲気なのでしょうがな。」
海浦くんはそう言いながら、座布団に手を添えて、わたしを座らせてくれた。それまで、わたしは畳の上で話していた。優しい、いい子だ。
「先生は、そうねえ……優しいわ。優しくてなんでも頼れる人よ。」
「はあ、学校とあまり相違ないという感じですがな。不思議なお人だ。」
「けれど少し、子供っぽいところもあるわ。」
「意外ですがな。そのような先生、いちどお目にかかりたいですがな。」
「やめなさい、それは。」
よもぎは目を細めて笑う。
海裏くんがわたしを見つめたような心持ちがする。さっきまではぼーっとしていなかった。
「……。なぜ。」
「偉大な人じゃ、なくなりますよ。」
「しかし僕はそれでもお目にかかりたいのです。先生の事をそれだけ尊敬していますから。」
海浦くんの熱意におどろく。先生は海浦くんにどんな事を教えているのかしら。
すこし肌寒い部屋のなかで、海浦くんは湯気と共に茶をすすった。
「海浦くんは、小説がお好きで?」
「ええ、先生のお陰ですがな。好きになってしまいました。」
よもぎは口に手を添えて、上品に笑った。海浦はそれをまた、凝視した。
「あら、わたしと一緒。」
「……。どのような小説をお読みになるんですがな。」
「わたしは先生に勧めてもらった"軀"をちょうど読み終わったところなの。」
「ああ、あれは傑作中の傑作……」
するといきなり障子が開く。
「ずいぶんと、盛り上がっているじゃないか。」
「先生、お邪魔しております。」
先生は「やあ。」と微笑む。
海浦くんは一礼を、わたしは先生に駆け寄った。
「先生、お帰りになられたのですね。わたし、ちっとも気付かなくて。ごめんなさい。」
「いいんだよ。さて、海浦くん、本を見ますかい?」
三人で二階に上がって、先生の部屋へと上がった。本棚は二台。前よりかはとっても少なくなってしまいました。
「好きなだけ見なさい。引っ越しをしてしまって随分と数が減りましたが……いい本もありますよ。」
「うわあ!すごいですがな、すごいですがな。図書館にない本ばかりですがな。」
先生は、はしゃぐ海浦くんのようすを朗らかに見守っていた。
もし子供ができたらこんな感じなのかしら。
「よもぎさんたちは先程、何をお話しになっていたのですか。」
「さっきですか?さっきなら、先生に貸してもらった小説の話をしていましたよ。」
「そうですがな。軀の本は傑作だと。」
先生は腰に手を当て、ころころと空に光る金平糖のように笑った。
「ははは、良かった。なんだか嬉しいですね。好きなことを共有できるのは嬉しいことです。この部屋にいる三人は根から小説が好きなのですから。」
「そうですねえ。」
三人笑い合い、部屋には幸せが響き渡った。
「興味深い本は見つかりましたか。」
「ええ!"犬も歩けば棒に当たる"!これが読みたいですがな。いいですがな?先生。」
「いいでしょう。貴方のところにずっと閉まっておきなさい。」
海浦くんはぎゅっと本を抱きしめて、黒き足袋足、一歩、先生の元へ近づいた。
「いいんですがな!いいんですがな!ありがたき幸せ!先生、ありがとうですがな!」
海浦くんは泣きながらぴょんぴょんと飛び跳ねた。畳からウサギが飛んだ音がする。
「あはは、そんなに喜んでもらえるとは。これなら、本も幸せでしょう。」
「ふふっ、可愛いわね。」
本は素晴らしい。
その後、三人でまた客間で話すことになった。
「そういや、お二人方、知ってますがな。最近、"湯呑み酒"という小説が人気だそうで。」
それって、先生の友人さんの小説だった気がする。
「そうなのですね。」
「ええ。」
先生は無機質に笑っていた。部屋には無情に二文字だけがひびきわたった。
「今話題の小説を読みたいけれど、僕にはこの"犬も歩けば棒に当たる"という本がありますがな。この作家さんは大好きですがな。先生、ありがとう。」
「いいえ。大切にして下さいね。」
「もちろん!」
海浦くんは宝を天井に掲げて、熱心に見つめていた。その瞳は、野心に満ちた、こころから探究することを望んでいる。
「よもぎさんはどうだったかい。僕が勧めた小説は。」
「この本と、同じ作家さんですがな。」
と、海浦くんは付け加える。
「感動しました。最後、憧れの人は亡くなってしまうけれど、切なくてそれも良さなのかなって。」
先生はわたしの隣で、肩を揺らしながら笑った。生きているのだと実感した。
「そうだね。あれは本当に切なくて寂しい。あの空気感はあの作家さんしか出せないね。」
「本当その通りですがな。奥さんと先生の言う通りですがな。」
奥さん……、わたし、先生の奥さんじゃないわ……!恥ずかしい。奥さんだなんてそんな滅相な。
「本は勉強ではなかったろう、よもぎさん。」
「はい……!わたしが間違ってました。」
先生は"それ"を否定しなかった。しかし頬を赤らめ、恥ずかしそうにはしなかった。気持ちがわからない。
ゴーンゴーン
時計が時刻を知らせる。
「おや、もうこんな時間ですがな……。先生、僕もう帰らなきゃいけない。先生も奥さんも、ありがとうございました。」
海浦くんを玄関まで見送った際に、青年はこんなことを言った。
「先生、本当に綺麗な奥さんですね。」
海浦は門を通り抜けた。その瞬間、玄関の電気がきえて、すこしの会話が聞こえた後、遠のく二人の足音が耳に残った。




