18どうして
今日は高く晴天でした。それもいたずらに隠す分厚い雲が覆い被さった夕方、先生は縁側にてラジオ放送をお聞きになられていました。
「先生、お茶をどうぞ。」
わたしが近付くと、先生はカチッとラジオをお止めになりました。
「あ、ああ。ありがとう。」
二人の間に沈黙が流れる。聞こえてくるのはただ、冷たい風がぼーっと吹く音のみであった。
すると、
うわー!
瓦の裏の方から子供の声が聞こえてきた。六つくらいであろうか、九つくらいであろうか。ともかく、そのような年齢であるようだ。
「あら、子供だわ。元気で良いことね。」
「もし、子供がいたらどういう生活になるのでしょう。」
「きっと子供中心の生活になるわ。」
先生は目を細めて一寸口を横に曲げた。
「はは、そうですね。」
また二人、沈黙になる。
わたしは庭になった柘榴の実を見つめた。
柘榴は血液のごとく一粒一粒を鼻下の穴の中へ無心と放り込みたくなった。一粒一粒丁寧に皮から引きちぎってころころと掌の上で転がした後、丸呑みし、死の池へと堕ちて行く。そんなことを想像した。
「よもぎさん。」
先生がわたしの名を呼ぶ。
「なんですか。」
わたしは先生に笑いかけた。
「……。」
先生は一寸目を見開いて、その次に微笑した。
「よもぎさんの笑顔は日本一だね。」
「……え、そ、そんな急に。」
先生がお世辞を言うので、変な汗をかいてしまいその上から冷たい風が吹き注ぐ。
「読んでくれましたか。封筒。」
わたしに何故か"ふうとう"という言葉が鮮明に脳から離れなかった。
ふうとう。
「はい、読みました。」
彼は顔面に肉をはっていた。据えた麻着物のように冷たい。
「僕はそんな環境下で育ってきました。なので僕はひとと関わり合うのが厭になってゆきました。」
わたしは「じゃあわたしはどうなんです。」と言う問いは言い出せずに、喉の奥で詰まっていた。それは聞くべきではないと悟る。
「なので、僕は人のために怒れなくなってしまいました。怒ってもこの人はどうせ分かってくれやしない。そう思ってしまいます。そして、その言葉を言ってしまうと、線を超えて、もっと酷いことを言ってしまいそうな、その言葉が日常になり、恐ろしさが感じるのです。それは偽善だと十分承知しています。しかし怒ることはもう、したくは無いのです。疲労してしまうと言うよりかは、相手が、相手の態度が見えてしまうから怖かったのです。僕は駄目で弱い人だ。」
「どうしてそう思うの。」
よもぎは春のゆきのように呟く。けれども、彼には届かなかったようだ。
「しかし貴方だけは、私はどうやらだめみたいです。」
「駄目って?」
彼女は彼を見た。また、彼も彼女を見た。
「…私は……、う、その、」
先生は下を向き、大粒の涙を流した。先生は泣いたのだ。
「先生、」
「ごめん、ごめんなさい……ぼくは、……ただ、」
先生は言葉を詰まらせた。水をていねいに一滴々々優しくすくいあげて、あふれでるその泉水は曇りの光に照らされて、それでもすくった雫はまだ指の隙間から流れていっている。
「先生……大丈夫ですよ。わたしが先生のそばにいますから。わたしは先生のずっとおそばにいますから。」
先生の背中に手を置く。
わたしは悲しい事が、人生にいくつもあった。しかし先生よりも悲しいことはなかった。これは先生を見下しているとかそう言うわけではなく、先生は一人でどんなに辛く、自分で自分を自傷してしまったのだろうと思ったのである。
「ぼくは、ただ……、普通に暮らしたかった。」
普通。
「だめだ。……っ、貴方の前では私は……本当に……」
大粒の涙を垂らした。ぽたぽたと床に落ちていく。皮肉にも、その雫は弱い陽できれいに輝いていた。
それから、先生は大きく息を吸って、息を整えた。そしてわたしの顔を震える雪の目でこう言った。
「ぼくは……貴方の前で泣きたくなかった。」
「どうして。」
「だって君の前では皆、格好良くなるでしょう。」
意外にもひょんな事であった。
「あはは、何ですかそれは。」
わたしは思わず笑ってしまった。けれど先生は真剣な眼差しなので、わたしはすぐにそれを止めた。
「それは甚だ駄目なことだ。」
「いいえ、だめじゃありませんよ。」
先生はお兄様とは、めいかくに違う眼でわたしをご覧になりました。その方は優しい目をしていた。
先生は俯き、前髪が垂れ、その次に微笑しました。
「あれま、だめだ。型が外れちまった。君の前では素を出してしまうようだ。教師でも、家族でも、友人でも、自分の前すらも貼っていたのに。参っちゃった。」
隣の愛らしい人は、涙をつけながら肩を揺らして笑った。
わたしの前でも貼っていたのかしら。
けれどその問いは相応しくない。
「先生。」
わたしは貴方を見つめた。貴方は不思議そうにわたしをご覧になるのね。
「ほんまに。あかんよ。あんたは、だめなひとや。」
先生は耳や首まで赤面した。
よもぎもまたそれを見、赤面した。
男は華奢な片手で顔を覆い、指の隙間から一本々々髪の毛を垂らし、眉を平行に曲げ糸のようなまつ毛を、暗い陽に当てながら、溶けそうな目で水晶を眺めた。
「ごめんね。」と先生は言いかけた。
「よもぎさん、また僕と共に暮らしてくれませんか。」
先生はそう云った。少し間が空いて、
「ええ。ええ。」
わたしは二遍返事をした。




