17縁側
「……あんまりだわ。……あんまりだわ。」
柔らかい繊細な頬に一筋の光が落ちていく。
「先生はあんなに優しいお方なのに……あんまりだわ。」
ころころした笑顔の裏でこんなにも辛い過去があったなんて。
わたしはずっと、のほほんと暮らして来た。子供の頃も今になっても。わたしは運が良かったのだ。
一生を捧げて先生のお側にいようと心に決めた。
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「涼しくなったね。一寸寒い。」
しばらくして先生がご帰宅になられ、それから、わたしと先生は色付いた縁側にて話をしていた。
「ええ、虫の音が綺麗。」
玄関から今に至るまで、先生は手紙の事を一切話していません。
手紙について触れるのが少し怖いです。
「せ、先生。」
「なあに。」
わたしはどこも見れなくなって、自分の指を見ました。なんとなくそれを絡ませました。
「手紙、拝読しました。」
「……読んでくれたんだね。読んでくれなかったら、どうしようかと思っていたよ。」
先生はなぜかこんな場面でも、目を細めて笑った。普通、恐怖心で笑顔なんて作れないはずだ。先生の裏の部屋は伽藍堂である。
「よもぎさん、君に迷惑や心配をかけて、」
先生は親指を床に立てて、わたしの方へ向く。わたしも正面を向いた。
くしゃっと強く着物を握られています。
そして、頭をお下げになりました。
「本当にごめんなさい。」
椿の蕾は先端だけ紅色に染まっています。ふと、一香さんの事を思い出しました。
「先生、頭をお上げになすって。わたし、先生の事を"先生"と呼んでいる理由、ご存知?わたし、先生の事を尊敬しているの。立派な人だって。だから、わたし先生に一生を捧げますわ。」
「一生を?どこかへ行ったりしないのですか。」
「ええ、先生以外、考えられませんわ。もしわたしが先生に見つけられなかったら、他の家でこき使われているに違いないわ。わたし、ここに来て幸せなの。」
先生はころころ笑った。写真を向けられて作る笑顔ではなく、夏祭りにてりんご飴を貴方に渡すように。
「良かった。」
わたしは先生に惚れた。
ガコッ
門の方から音がしました。まるで世界が切り替わったように思われます。
「あら、手紙が来たようだ。」
と言って、先生はちょうど庭においていた草履を履いて投函口へ向かわれました。わたしもその後を追いました。
「ああ、英語の先生からだ。」
わたしは胸の中で安堵した。手紙と言うと、最近嫌なことしか起きていないから。
先生は差出人を見て、玄関門の前で微笑んでいた。(投函口の札にはLetterと書かれている。)
「…………。」
すると、先生の表情がいきなり曇る。花を眺めた後、地獄の窯を覗くような。
「どうされたのです、先生。」
「なんでも……いや、君にもう隠さないと決めたんだ。僕は、友人から何年もずっと手紙のやり取りをしていたから、ふと思ってしまってね。」
先生は空を見上げる。わたしも空を見上げた。その空は高く、キキョウが浮かんでいてもおかしくない薄い色をしていた。
「友人とずっとだったから、思い出が彼方此方にこびりついている。友人として好きな人が嫌いになってしまった。けれども、亡くなってしまえばいいなんて思いません。そのような稚拙な考えは、したくありませんから。それに、本当にそうなってしまうと怖い。僕はあいつが幸せに生きていても良いんです。僕の目の前からいなくなればそれで良いんです。そして、あわよくば記憶を消したい。楽しかった記憶でさえも。」
先生は買った花を強く握りしめているように、憂いを成していた。
「そんなことは出来ないね。出来ないね。思っていたって無駄だ。他のことを考えていたい。」
「例えば?どんなのです。」
「そうだな……。小説。小説……が一番。」
先生はまた、友人さんのことを思い出したのでしょう。それをわたしがしてしまった。失格だ。失格だわ。
「あれ、国語の先生ですがな。次ここに住むのは先生か。こんにちは。」
「本当だ。先生、ご結婚してらっしゃったんだね。こんにちは。」
すると二人の学生さんが来て、先生に挨拶をした。一人は小柄で目が垂れている。もう一人は大柄で目がつっている。
「こんにちは。あれま、見つかっちまったね。」
「ええ、以前より学校の近くに越したのですからね。」
その夫婦は仲良く笑い合っていた。
「先生、全くご自分のことをお話しにならないですからね。小説が好きって事とか、授業が格別に興味深いって事しか知らないですからね。」
「そうですがな。他の先生方はいっぱい話してくれますがな。家族で旅行したとか、野良の子犬が怖いとか。英語の先生は以前、自転車に初めて乗ったそうですがな。」
先生は外ではそんな感じなのね。全然知らなかった。新鮮でなんだか安心して、もっと見ていたいわ。
先生は門の石に体重をのしかかって話を聞いていらした。
「けれども、誰も住所までは話さないでしょう。君、授業を遅らせる魂胆ですね。」
「違いますがな。違いますがな。先生のことを尊敬しているから、もっと知りたいんですがな。」
「うん、そうだね。夏休み明けにいきなりは辛かったなあ。」
「先生、少しくらいはいいんじゃないでしょうか。話をした方が楽しいですもの。」
「よもぎさんまで……。いいから、君たちは勉学に励みなさい。」
二人はつまんなそうな顔をしている。
「しかし、先生の家に上がってみたいものですな。きっと面白い書物がたくさんあるんでしょうな。」
きらりと丸いメガネが光る。
「なら、海浦くん。いつかおいでなさい。きっと良い書物が見つかりますよ。しかし他の生徒には内緒に。」
「本当ですがな。本当ですがな。このご恩は必ずしも返上いたしますがな。」
小柄な海浦くんは走ってどこかへ、大柄な子は「先生、さようなら。」と言ってその後をついて行った。
先生はわたしの方へ向き直ってこう言った。
「さて、僕らもそろそろ内へ入りましょうか。」
「ええ。先生、今日の夕飯は煮魚ですよ。」
ようやく二人の日常が戻ってほっとした。
そうしてよもぎは微笑みながら、先生の後ろ姿を眺めた。
海浦→先生の生徒




