14話
「…………。」
先生はこのごろ、ずっと緊張めたく過ごされています。めっきり散歩や買い物には行かれません。
今は縁側でキセルを吹かしながら、くつろいでらっしゃいます。けれどずっと遠くを眺めて、意識がないように感ぜられました。
「先生、お茶を淹れました。どうぞ。」
「あ、あぁ。ありがとう。」
先生は手元のキセルから煙を出しながら、お笑いになりました。
「たばこは大和もいいね。」
「味が違うんですか。」
「うん、大和は敷島より辛い。」
また先生は風鈴みたいにころころ笑った。
「へぇ。」
それだけで会話が終わって、やる事がないから、庭の方へ目を移しました。すると、まだあのカラスの羽が綺麗に残っているようです。
「よもぎさん。」
わたしは先生の横顔を見ました。先生もあの羽を遠く眺めていました。
「よもぎさんは……」
先生は口を閉じた。けれど、その後すぐに開いた。
「一度、私のお國に来て下さいませんか。私と共に。」
「……ぇ、先生の國へ。」
「父が連れて来いと言うのです。どうしても。この間の父との話はそれっきり何も進みませんでした。きっと兄さんの遺書に君の事が書いてあったから、目をつけたのでしょう。何を企んでいるのか分かりません。そのままにしておくと、あの人は勝手に結婚させるでしょう。しかし君には危害は必ず加えませんから、」
「ついて来て下さいませんか。私は結婚したくないのです。」
黒い羽がわたしを刺す。
――――――――――――
数日間汽車に揺られて、京都に着きました。
「ここが僕の家です。」
そこは盛んな街の中にありました。御所から少し遠い、一本通ると賑わいのある川沿いの商店街にでられる場所に、木造の大きな家が建っています。
「まぁ…大きい。」
「宿は別で取ってあるから安心して。この家ではだめだ。」
「なぜ。」
「父がいるから。」
中に入ると女中さんが出迎えてくれて、先生のお父様とも話ができました。
「きみか。よもぎ、というのは。」
「はい、お世話になっております。」
「うむ。なるほど、なるほど。」
お父様は偉大な顎髭をジャリジャリと触っていらっしゃる。いかにも博識な本を読んでいそうだ。
「僕は結婚などしたくありません。」
「いや、やる。それと、今週の金、空けとけ。見合い、やる。」
「僕は結婚など……!」
先生は机の上に拳を乗せていました。
「好きな娘でもおるんか。」
「……それは。」
「……。うむ。金、空けとけ。親に歯向かうな。以上だ。」
「先生……」
見合いの日。先生は苦しそうな顔で出迎われました。
宿で過ごしていると、女中さんが突然現れて、「伝言です。お前は襖の前で聞いていろ、とお父様から。」と言われたので言われるがまま、家へと出向きました。
「なぜわたしが襖の前で……?」
疑問に思いつつも、扉の真正面に向くと、あまり聞きたくない会話が聞こえて来ました。
「――いや、そろそろ籍入れなんてどうでだ?」
これは見合いの父の方である。
「いい、ですね。」
これは先生の父の方である。
「まあ、なんて素敵なこと。楽しみだわ。」
これは見合いの娘である。
「どこで挙げようか。うむ、下鴨神社や稲荷大社なんてはどうだ。」
「えぇ。神社、ですか。」
「ははぁ。なんでも、近頃は神社で挙げるのが良いとされていて……」
「やはり、ここは、家で挙げるべきだと、思います。江戸を、生き抜いた我らの、伝統ですから。」
「うむ、そうであるな。なら家にしようか。」
先生の声はちっとも聞こえやしない。
「無論。家ですな。」
「ねえお父様、私、縁側で休みたいわ。」
「うむ。行くがよろし。」
「それで、日程の方、ですが……」
目の前の襖が開く。少しずつ少しずつ姿が見えていく、先生とお見合いさん。
「……!よもぎさん、なぜ……ここに、」
先生は跪きわたしの目線に合わせてくれました。最近、先生から線香の香りがしません。
「わたし……わたしは、」
目の前がぼやけて何も見えない。瞬きするごとに滴が垂れていった。
「大丈……ごめんね。僕のせいで。」
「――っと、早―行――しょ。」
「―い、何かある――?」
先生はわたしの事だけを見つめてくれました。お優しいお方。
夢だわ。これは夢。きっと長い悪夢を見ているの。こんなの、いつかきっと覚めるわ。
「ごめんね。」
この時、お父様が部屋の奥でわたしの方をご覧になっていた心持ちがしました。
――――――――――
先生の式を挙げる日。ちょうどその日は先生の誕生日でした。
「先生、おめでとうございます。」
先生の晴れ着は美しく、落ち着いた色をしていた。見ていられないほど、きれいである。見ていたくないほど、忘れたい。
「ありがとう。」
先生は笑った。どんな笑顔だったかは、ここでは詳細に打ち明けられない。そのくらい酷い顔だったから。
「―――!――さん!まだやる事がごさいますので、その辺をぶらつかないでください!もう、迷子になっちゃあ困りますから。」
「ああ、ごめんなさい。」
先生が去って行く。わたしは思い出した。先生と二人でレコードを聴きながら、酒を嗜んだひと時を。
「あぁ、よもぎさん、」
また先生が近くに来た。お使いさんは、不服そうな顔でこちらを遠くから見ている。
「駅の前まで待っていて。駅の前だよ。僕が必ず迎えに行きます。」
「え……」
「僕を信じて。」
先生はいたずらな感情でしーっと人差し指を唇に当てて、そして先生の小指とわたしの小指が絡み合って解けた。
「おおい!早くしてくださあい!」
「またね。」
「ああ、先生……。」
先生の言う通り、わたしは駅に行きました。
数十分後。
「よもぎさん……!」
先生が晴れ着のまま、髪を乱してこちらに走って来ています。周りの方々は普段着なので、より一層、先生がきれいに見えました。
「待たせてごめんなさい。まずは汽車に乗りましょう。すぐ追っ手が来る。」
「……え、え、汽車?どこへ?」
「東京。戻るよ。戻ると言っても、新しい家だ。そこで一緒に住もう。」
先生はころころ笑った。鈴虫よりも柔らかな音。
言われるがままに、汽車の中へ入りました。ガタンゴトンと木の音がします。
「どういう事です。先生。」
「まずは、君に事前に言っていなくてごめんなさい。僕は結婚したくない思いで、先程、式にて大暴れをしました。」
「先生が?」
汽車が揺れて、先生の肩にちょんちょん当たる。
「えぇ。お酒やら、料理やら、人やらを殴り倒しましたから、その内、僕は天罰が当たります。」
わたしは一寸間を開けて「なら、わたしも先生と一緒に受けるわ。」と言った。
先生とどこまでも一緒がいい。わたしから離れるなんて、わたしに感染るなんて言わないで。
先生はわたしを眺めた。先生を眺め返さなくても、なんとなく分かった。
「受けてくれるのですか。」
「ええ。」
窓から秋の風が吹く。
「先生、新しい家って言うのはなんです。」
「もう前の家は住所が知られているから、新しい家をもらったのです。」
「錢の方は大丈夫ですの。」
「大丈夫。一寸ばかり、貰って来たから。」
汽車の中には、わたしたち二人だけしかいなかった。
「けど、一、二年は水粥生活かなあ。」
「ふふっ、わたしはそれでもいいですよ。」
「なら良かった。」
「けれどまず、服を着替えなくちゃ。」
「ははは、そうやなぁ。知らない人から見たら、何が起こったか分からないね。」
「ええ。」
先生が笑ったからわたしも笑った。
「よもぎさん、」
先生は汽車の風を受けながらも、こちらをご覧になった。わたしも見つめ返した。
「…………、」
先生は少し目をずらして、口元に手を当てた。しかしそれは直ぐにお止めになった。
「こんな僕と、共に来てくれてありがとう。」
父→読点
モデルは堀川京極




