13婚約
わたしと妹様は縁側に座りました。客間に案内すると、「こんな息苦しいところ御免よ。」と言われましたので、縁側となりました。
「それでね、話って言うのはね、聞きたい事があるの。」
「なんです。」
「貴方は兄さんの事が好きなの?」
「……ぇ、」
頬が椿のようにぽっと赤くなりました。けれど、庭の椿はまだ蕾が出来上がったところです。きっとその箱には、たくさんの花弁が詰まっているでしょう。
そして妹様はまたリボンを揺らしながらキ、キ、キと笑いました。
「やっぱりね。やっぱりなのね。そうだと思ったわ。あたしが最初にここへ話に来た時、貴方、酷い顔をしていたわよ。」
「え、わたしの顔、大丈夫でしたか?」
「大丈夫もなにも、誰でもそうなるわよ。乙女心がある証拠ね。」
妹様は口元に添えていたハンケチを、手元に下げました。
「そう、兄さんが好きなのねぇ……。へぇ。」
すると、突然わたしに指差しました。わたしは妹様は手を差し出すように指すと思ったので、余計驚きました。
「けどね、あたしが最初に兄さんを好きになったんだからね。分かった?」
「……はい。」
わたしは返事をするだけしか出来ませんでした。
「あたしはもう結婚した。もう無理よ。世話の焼ける兄さんだけど、誰にでも困らせる兄さんだけど、」
妹様は憂いの、けれど純粋潔白な目をしていた。
「大好きだったの。」
妹様の眼は曇りの白い光に照らされていました。その"大好き"は恋心の憂いを帯びた響きでした。
「貴方は兄さんのどんな所が好き?貴方、「全部。」なんて言ったら引っ叩くわよ。」
「分かってます……!分かってます。えぇ……と、」
妹様はわたしへ優しく見つめて、次に庭の方をご覧になりました。
「先生の気付きが好きです。」
「気付きって?」
「はい、先生は様々な事をお気付きになるんです。夜の雲とか、キキョウが向日葵みたいだとか。」
わたしは庭の端に落ちている烏の羽へ目を移した。
「そういう気付きがわたしの生活を豊かにしてくれました。」
その羽は漆黒で何色にも染まらない強き色でした。
「わたし、先生の事が好きなんです。」
「ふぅん、そう。」
妹様は自分で聞いたのにも関わらず、あまり興味を示しません。
「ねぇ、貴方。貴方って兄さんのことを名前で呼ばないのね。先生だなんて堅苦しくない?」
「いえ……!先生は先生なので、名前なんてわたしなんかが呼べません。」
「ふぅん、またいつか呼んであげたらどうかしら。きっとあの子も嬉しがるわ。」
「……そうですか、分かりました……。」
目の前で青トンボが飛びました。自然の青ではなく、人工のペンキのような色で魔法のごとく不思議でした。
「あんな男とずっと一緒にいるつもり?」
「えぇ。」
「余ッ程好きなの?」
「えぇ。」
妹様はハンケチで口を添えた。
「なら、話してあげる。兄さんの婚約の話。」
――――――――――――
「兄さんは今年で三十になることはご存知よね。法律で三十歳になるまでは親の許可がないと結婚できない。つまり、兄さんの妻を父さんが探したってわけよ。
父さんが見合いに来いと東京に手紙を送っても、ちっとも兄さんは来なかったけれど、庄一兄さんの葬儀でお國へ帰った時、やっと話が進んだみたい。そして兄さんは相手の顔を知った。
一度、兄さんが東京へ戻った後も父さんは手紙を何通も送ったわ。また兄さんは無視した。そしてあたしが此処に来させられたってわけよ。あたしだって観光とかしたいのに。
今兄さんがお國へ帰っているのは、結婚を取り下げるため。けれど、今この時間、お見合いをしていると思うわ。父さんはああいう性格だもの。」
妹様は明るい顔でわたしを見た。いや、わたしが暗い心持ちだったからそう見えただけかもしれない。
「ね、分かった?」
「……あんまりです。」
「仕方がないことよ。父さんは兄さんを思ってしていることだもの。十割十分十厘、善意でやってるわ。だから、貴方の恋も此処までかもしれないね。」
「…………、」
わたしは分からなかった。わたしは、わたしと言う女は、先生に居候させてもらっていて、この家の手伝いをしていて、もし先生に綺麗な奥さんができても、全力で尽くすだけだった。
「ねぇ、貴方はどうするの。」
「わたし、わたしは……」
いざ、先生がご結婚されるとなれば、なんだか心がざわついた。嫌になった。
「先生を愛し続けます。」
「……あら、」
「たとえ、わたしの恋が叶わなくても、遠くで先生のころころとした笑顔が見れればそれでいいんです。わたしのことを愛していなくても……」
何故だろう。胸が痛い。
「大丈夫……大丈夫よ。強がらなくても、ここには一香しかいないわ。」
「一香さん、わたし……ほんとは、一番近くで先生のお側にいたい。」
一香さんはわたしの背中を摩りました。優しい優しい手でした。
「……一香さん、その傷、腕の傷……」
「……!これはほっといて頂戴。貴方は何も見なかった。」
わたしは買い物の際、一香さんと旦那様を見つけたのを思い出した。
「旦那様にやられた傷ですよね。」
「……っ、何故それを知っているの?」
「わたし、見たんです。買い物に行っていた時、一香さんに旦那様が手をあげていらっしゃるのを。」
「……。」
一香さんはハンケチをそっと外して、真剣な表情をされました。しかし次の間には、ふっと力が抜けたような顔つきになられました。
「ふふっ、知ってたのね。知ってたのね。貴方にはもう隠すことはないわ。ここに夫もいないものね。そう、あたし、夫に暴力を振るわれているの。」
わたしは一香さんの寂しい顔を見るのが耐えれなくなり、またあの黒い羽を見つめました。
「結婚した当時はそんなことなかったの。優しくて頼れる人だったの。けど、仕事の方で上手くいっていないのか知らないけれど、あたし強く当たるようになったの。あたし、本当に知らなかったのよ。夫は何も喋らないから分からなかったの。相手は何かしらいっぱい、沢山、思っているんだろうけれど、あたしにとって、それは無音なの。それで、分からなくなって、日に日に過剰に増していって今日に至るわ。」
「……そんな事が。ごめんなさい。わたし、何も止められなくって。」
「なぁに貴方が謝ってんのよ。貴方は悪くないわ。」
無理に口角を上げていらっしゃる。笑顔は作るとすぐにわかる。
「大丈夫よ。あたしは何があっても死なないから。強く生きるの。そしたら、きっと何かが変わる。」
一香さんは数年後、チフスで息を引き取られました。
「はい……、はい……!変わりますよ。きっと。」
「えぇ。」
この会話が最期でした。それ以来、一度も会えずに一香さんはこの世を去ってしまいました。
「ねぇ、貴方のお名前はなぁに?」
一香さんは優しかった。
「よもぎです。」
「そう、そう。可愛い名前ね。」
そして、柔らかく温かな一香さんの手でわたしの手を握ってくれた。指輪だけが冷たかった。
「よもぎちゃん。」
――――――――――――――
数日後。先生はお國から帰られた。
「ただいま。」
「おかえりなさい、先生。」
わたしは聞いてみようと思う。
一香さんに、思っているだけじゃ伝わらないと教わったもの。
「ごめん、今日はご飯いらないや。」
「お風呂はどうなさいますか。」
「いい。」
「先生、何があったんです。」
先生はわたしを数秒間凝視して、
「よもぎさん、後で自室に来なさい。話したい事があります。遅くなってごめんなさい。」と言って戻られました。
「……先生。よもぎです。大丈夫でしょうか。」
「うん、入っておいで。」
襖を開けて、わたしは先生の正面に座った。
「よもぎさん、ごめんなさい。」
「謝らないでください。わたしは先生にどうして國へ帰ったのか聞きたいの。」
「……僕がお國へ帰ったのは……結婚を破棄するために行ったんです。」
やっと先生の口から事実が聞けました。けれど一寸悲しいです。
「父が、僕の父が、勝手に結婚をさせようとしているんです。三十までは……両親の許可なしに結婚はできないから、それを利用して……偉い娘と結婚させて父の権威を上げようとしているんだ。」
「……え、」
一香さんの話とは違いました。一香さんは父は善意でやっていると。
「僕はそんな相手と、父の勝手と結婚したくない。」
「見合いはどうだったんです。」
「見合いは、今週行った見合いは無理矢理……僕が遠くに逃げていても、部屋に籠っていても……させられました。相手は父の事がお気に入りだったから、どうしても結婚させたいらしい。」
先生はわたしを真面目に見つめた。
「僕は三週間後、三十になる。どうか、それまで迷惑をかけると思いますがよろしくお願いします。」




