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伽藍堂は先生  作者: あ行
10/25

10二人

「…………。」

 お兄様は蝉の抜け殻のように、ここ三日間ぼーっとしていらっしゃいます。仕事は全て却下されたようです。

「お兄様、お茶をどうぞ。」

「あ、ああ。」

 先生はその件について何も言わなかった。もし職が見つからなかったら、お兄様はずっとここにいらしゃるのかしら。

 茶をすする。

「俺……もう無理かもしれん。」

「そんなことないですよ……!ゆっくりでも着実と進んでいますよ。」

「……そうか?」

「はい!」

 お兄様の手がちょっと動いたような心持ちがした。

「…………。」

 それからお兄様は庭の方をご覧になったので、わたしも自然とそちらを見た。きれいに整備された庭。先生が手入れしている大切な庭。もうじき椿が(つぼみ)を作るだろう。

 秋を感じる。

「なぁ、よもぎはんは、結婚しいひんのか。」

「しますよ。」

「それはいつや。」

「もう、何故そう皆んないつかいつかってお聞きになるの?そんなに気になりますか。」

「そんなつもりはなかった。唯、なんとなくそう思っただけや。」

 しゅんとした大柄なお兄様を見て、申し訳ない気持ちが押し上がってきた。

「そうですか。けど、いつかはしますよ。今じゃないだけで。」

「……今は駄目なんか。」

「駄目というか……何というか……」

 今は先生がいるから。

「……そうか。」

 お兄様は疲れた眼でわたしに笑顔を向けた。

――――――――――――――

 夜。先生の部屋へと用事があったので、ぽつぽつ雨の音を聞きながら二人で過ごしていた。レコードをまた聞いてらっしゃる。

「よもぎさん、小説の方はどうだい。面白い?」

 先生は明るく笑った。お兄様の前でそんな笑顔は、一寸たりとも見たことがない。

「はい、とっても。けれどもわたし、読むのがちぃっと遅くって……返すのが遅くなるかもですが……」

「いいよ。ゆっくり自分の速さで読むと良いさ。」

 先生はお兄様の前でそんなに軽やかに話さない。そしてわたしの前でも、お兄様の話題は一つも無かった。

 けれど、先生はお兄様を追い出したりするような真似は、決してしない。優しいのか、それとも偽善なのか。先生は何を思いになっているか分からずじまいで、怖かった。

「しかし、夜の空は綺麗だね。」

 先生は窓の空を見上げる。

「真っ暗なのにさ、星々の光を頼りによくよく見てみると雲がある。あゝ、空はずっと昼と変わっていなかったのだと。」

「そうなんですか?わたし、ちっとも見たことがないわ。」

「うん。雲は今でも少しずつ動いている。星も懸命に光っている。まぁ、今は雨で星は見えないけれどね。」

「あはは、そうですね。」

 わたしが笑った直後、隣の襖が開いた。その瞬間、先生は真顔になってそちらを見た。まるで野生動物のようである。

「お、ここにおったんか。……しかも二人で。」

 お兄様が、目が垂れ、悲しそうな表情でわたしの顔を見た。

「なぁよもぎはん、なかなか寝付けんから茶淹れてくれへんか。それと筆と墨を。」

「あ、はい。少々お待ちを。」

 わたしはお兄様について行こうとした時、すると先生がわたしを呼び止めた。

「よもぎさん、」

「……?何です?先生。」

 先生は潤んだ生粋の黒い瞳でわたしを見つめた。その様子もお兄様が見ていらした。

「いや、何も。おやすみ。」

 先生は手に持っている小説に目を移す瞬間、ほんの一瞬、お兄様と目を合わした。

 そして"おやすみ"は私に向けられた言葉だった。

「はい、おやすみなさい。」

 お兄様と先生は何も話さなかった。

 廊下を歩いている時、お兄様とこんな話をした。

「弟は、東京(ここ)にいて幸せか。」

「……分かりません。」

「……そうか。」

――――――――――――

 温かい飲み物をお兄様に渡した。同時に筆と墨も届けた。

「どうも。」

 お兄様は一口茶を飲み、ふうと一息吐いてからわたしを眺めた。そして、剛毛な筋肉質の腕を机の上に置いていた。

「よもぎはんは好きな人はおるんか。」

「……いませんよ。」

「……そうか。」

 また一口、腕を使って湯呑みを運び、口を開けて茶を飲んだ。

「弟は馬鹿や。」

「な、なぜ?」

「誰にも頼らん。一人で解決しようとする。馬鹿な奴や。たぶん、その術を知らんと思う。だから、弟がそうなってしまった時はよもぎはんが弟を手伝ってくれ。」

 とても、人間を殴った人には見えない大人しぶりでした。

「……分かりました。」

「それと一つ。一つ、よもぎはんに頼みたいことがある。こんな出来損ないの兄さんの話を聞いて下さい。」

 お兄様は遠くを見つめた。

「弟をよろしく頼む。」

――――――――――――――

 早朝。いつものように、朝食の準備をしようと繋ぎ目の居間に入った。

「……!!遺書……?」

 すると机の上には長細い封筒が置いてあり、そして真ん中に"遺書"と筆で書かれていた。

「……先生っ!」

 先生は朝の支度を終えて、部屋で新聞を読みながらくつろいでいた。

「お兄様が、お兄様が……!」

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