10二人
「…………。」
お兄様は蝉の抜け殻のように、ここ三日間ぼーっとしていらっしゃいます。仕事は全て却下されたようです。
「お兄様、お茶をどうぞ。」
「あ、ああ。」
先生はその件について何も言わなかった。もし職が見つからなかったら、お兄様はずっとここにいらしゃるのかしら。
茶をすする。
「俺……もう無理かもしれん。」
「そんなことないですよ……!ゆっくりでも着実と進んでいますよ。」
「……そうか?」
「はい!」
お兄様の手がちょっと動いたような心持ちがした。
「…………。」
それからお兄様は庭の方をご覧になったので、わたしも自然とそちらを見た。きれいに整備された庭。先生が手入れしている大切な庭。もうじき椿が蕾を作るだろう。
秋を感じる。
「なぁ、よもぎはんは、結婚しいひんのか。」
「しますよ。」
「それはいつや。」
「もう、何故そう皆んないつかいつかってお聞きになるの?そんなに気になりますか。」
「そんなつもりはなかった。唯、なんとなくそう思っただけや。」
しゅんとした大柄なお兄様を見て、申し訳ない気持ちが押し上がってきた。
「そうですか。けど、いつかはしますよ。今じゃないだけで。」
「……今は駄目なんか。」
「駄目というか……何というか……」
今は先生がいるから。
「……そうか。」
お兄様は疲れた眼でわたしに笑顔を向けた。
――――――――――――――
夜。先生の部屋へと用事があったので、ぽつぽつ雨の音を聞きながら二人で過ごしていた。レコードをまた聞いてらっしゃる。
「よもぎさん、小説の方はどうだい。面白い?」
先生は明るく笑った。お兄様の前でそんな笑顔は、一寸たりとも見たことがない。
「はい、とっても。けれどもわたし、読むのがちぃっと遅くって……返すのが遅くなるかもですが……」
「いいよ。ゆっくり自分の速さで読むと良いさ。」
先生はお兄様の前でそんなに軽やかに話さない。そしてわたしの前でも、お兄様の話題は一つも無かった。
けれど、先生はお兄様を追い出したりするような真似は、決してしない。優しいのか、それとも偽善なのか。先生は何を思いになっているか分からずじまいで、怖かった。
「しかし、夜の空は綺麗だね。」
先生は窓の空を見上げる。
「真っ暗なのにさ、星々の光を頼りによくよく見てみると雲がある。あゝ、空はずっと昼と変わっていなかったのだと。」
「そうなんですか?わたし、ちっとも見たことがないわ。」
「うん。雲は今でも少しずつ動いている。星も懸命に光っている。まぁ、今は雨で星は見えないけれどね。」
「あはは、そうですね。」
わたしが笑った直後、隣の襖が開いた。その瞬間、先生は真顔になってそちらを見た。まるで野生動物のようである。
「お、ここにおったんか。……しかも二人で。」
お兄様が、目が垂れ、悲しそうな表情でわたしの顔を見た。
「なぁよもぎはん、なかなか寝付けんから茶淹れてくれへんか。それと筆と墨を。」
「あ、はい。少々お待ちを。」
わたしはお兄様について行こうとした時、すると先生がわたしを呼び止めた。
「よもぎさん、」
「……?何です?先生。」
先生は潤んだ生粋の黒い瞳でわたしを見つめた。その様子もお兄様が見ていらした。
「いや、何も。おやすみ。」
先生は手に持っている小説に目を移す瞬間、ほんの一瞬、お兄様と目を合わした。
そして"おやすみ"は私に向けられた言葉だった。
「はい、おやすみなさい。」
お兄様と先生は何も話さなかった。
廊下を歩いている時、お兄様とこんな話をした。
「弟は、東京にいて幸せか。」
「……分かりません。」
「……そうか。」
――――――――――――
温かい飲み物をお兄様に渡した。同時に筆と墨も届けた。
「どうも。」
お兄様は一口茶を飲み、ふうと一息吐いてからわたしを眺めた。そして、剛毛な筋肉質の腕を机の上に置いていた。
「よもぎはんは好きな人はおるんか。」
「……いませんよ。」
「……そうか。」
また一口、腕を使って湯呑みを運び、口を開けて茶を飲んだ。
「弟は馬鹿や。」
「な、なぜ?」
「誰にも頼らん。一人で解決しようとする。馬鹿な奴や。たぶん、その術を知らんと思う。だから、弟がそうなってしまった時はよもぎはんが弟を手伝ってくれ。」
とても、人間を殴った人には見えない大人しぶりでした。
「……分かりました。」
「それと一つ。一つ、よもぎはんに頼みたいことがある。こんな出来損ないの兄さんの話を聞いて下さい。」
お兄様は遠くを見つめた。
「弟をよろしく頼む。」
――――――――――――――
早朝。いつものように、朝食の準備をしようと繋ぎ目の居間に入った。
「……!!遺書……?」
すると机の上には長細い封筒が置いてあり、そして真ん中に"遺書"と筆で書かれていた。
「……先生っ!」
先生は朝の支度を終えて、部屋で新聞を読みながらくつろいでいた。
「お兄様が、お兄様が……!」




