第4話 宰相執務室の日常
補佐官の通常業務をこなしながら、伯爵領の問題にも対応していたユーミリアがルディウスに成果を報告できたのは、それから五日後のことだった。
必要な資料がすべて揃ったので、ユーミリアは出仕後すぐにルディウスへと切り出した。
「モリンズ伯は未稼働の紅石の鉱山を所有しているのだけれど。この紅石をね、異国の花に見立てて加工した装飾品が西方の若い女性のあいだで流行っていて羨ましいって、社交場で聞いたばかりなのを思い出して」
色合いが桜という異国の花に非常に似ているらしく、花びらに見立てた装飾品が大人気なのだとか。
それでね、と続ける。
「豪商として知られるリンメル伯爵が、商会で扱う若い女性向けの新しい品を探しておられるの。加工に特別な技術が必要ないのは確認済み。商会の工房でも問題なく生産できるわ。国内で流通していない品かつ客層も合う。伯爵のお眼鏡に適ったりしないかしら?」
ルディウスの瞳に、理解の色が浮かぶ。
「財政難のモリンズ伯では採掘環境を整えられず、宝の持ち腐れ。ガラクタ同然の鉱山をリンメル伯に売るのは理に適っているな。鉱山の所有権をいくらで売却する?」
「財務省が定めた支援金から公爵が提示した金額を差し引いた額、よ」
公爵並びにその一派は減額した金額なら賛同するのだから、望み通りの額を議会で通す。足りない分をリンメル伯爵に補ってもらえば、復興資金は事足りる。
こちらが提示する鉱山の売値は相場よりずっと安く、商会が得られるであろう予想利益を鑑みれば、リンメル伯爵にとってはかなり美味しい商談だ。
諸々の環境整備に費用を掛けてもお釣りがくる。
「……オールディン公の譲歩は期待できない。票を操作するより両伯爵の説得の方が手っ取り早い、か」
幼馴染のルディウスは大変ふざけた人間だけれども。上司のルディウスは仕え甲斐のある、評判通りの切れ者だ。皆まで説明する必要などない。
「リンメル商会とモリンズ伯が所有する鉱山の詳細な資料は?」
「用意してあるわ」
ユーミリアは己の執務机から厚みのある冊子を取り上げ、ルディウスへと手渡した。
予想利益の計算や流通、諸々に問題がないかを確認し、この案が実現可能かを検討するのだ。
彼が資料に目を通しているあいだ、ユーミリアは自分の机に戻って別件の書簡を読み込む。
しばらくの時間、室内には紙の擦れる音だけが響き。
「ユミィ」
呼ばれて、ユーミリアは立ち上がる。顔を上げたルディウスがふっ、と笑んだ。
「よく調べてある。上出来だ。これで行こう」
彼の期待に応えられそうで、ユーミリアはホッと胸を撫で下ろす。
それから、とルディウスが続けた。常とは異なる低まった声音に、自然と背筋が伸びる。
「オールディン公には支援金を公が希望していた通りの額に減額する代わりに、金輪際モリンズ伯領の災害問題には介入しない旨を誓約書に記してもらう。公が反故にした場合は……」
彼の思考の間は、一瞬のこと。
「伯爵領に見舞金を支払う、とかかな。金額は君が好きに決めていい」
「公爵はその条件で応じるの?」
「応じるさ。彼は根が小心者だ。支援金が否決されて民衆から顰蹙を買うほどの度胸は持ち合わせていない」
銀灰色の瞳が、冷淡に輝く。
ユーミリアはこの冷たい色があまり好きじゃなかった。知らない人を見ているようで、複雑な気分にさせられるから。
「公爵の望みは否決ではなく、あくまで伯爵が資金不足に陥って困ることにある。陛下が妥協したと思わせておけば、喜んで誓約書に署名してくれる」
オールディン公爵のことは特権意識の強い典型的な大貴族、くらいの認識しかなく、詳しい人柄は知らなかったが。
説明を聞けばなるほどね、と納得させられた。
「否決になったらそれはそれで、公爵は困るのね」
「国が援助しないとなれば、原因となった公が市民からの反感を一手に担うことになる。嫌いな相手に嫌がらせはしたい、然りとて完全な悪者になるのは避けたい。だから公の主張は減額止まり。そんなところ」
「わかったわ。誓約書の作成と、あとはリンメル伯との商談の日取りの調整ね」
モリンズ伯爵が鉱山の売却に難を示す可能性を考慮する必要はない。被災に見舞われた領民を養えないとなれば、待っているのは領主の交代。彼は端から選択権を有していない。
先に売り手を見つけておいた方が、スムーズに事を運べる。
「任せた。それと、この案件は業務外の仕事みたいなものだ。特別手当を出すよ。何がいいか考えておいて」
つまり、ご褒美が貰えるということだ。
やった、と弾んだ声を上げ、ユーミリアはほくほく顔になる。
「何をおねだりしようかしら? 週末はミルフィーユを食べたから、今度はシンプルにチョコレートのお菓子も素敵。新しくできた大通りのケーキ屋さんも気になっているし、この季節なら苺たっぷりのタルトも捨てがたいし……」
「支援金から打って変わって、平和な悩みだ」
からかうような言い方に、唇を尖らせる。
「票操作だの陰謀だので悩むより、ずっと健全でしょ。オールディン公爵だって、嫌がらせをする暇に甘い物を摂取すればいいのよ。そうすれば大抵のことはどうでもよくなって、広い心を持てるようになるわ」
「スイーツ店巡りが趣味の君が広い心を持っていないから、その論理は破綻してる」
「私ほど心の広い令嬢もなかなかいないわよっ」
あまりにも心外な評価だった。ユーミリアの心は海よりも広いと自信を持って言える。
「人って、自分のことを客観的に評価するのは難しいらしいよ」
「こんなにも腹立たしい婚約者と縁を切っていないのだから、私の心の広さは実証されているわ」
「……、……」
ルディウスが珍しく言葉を詰まらせた。ふふっ、と笑んで、彼の顔を覗き込む。
「私の勝ちね?」
「……今回はね。通算の戦績は俺が大きく勝ち越してる」
「あら、お手本のような負け犬の遠吠だわ」
「事実を言っただけ」
二人のあいだで交わされる軽口の応酬はいつものことで、一種の戯れ合いだ。お互い本心ではなく、あくまで冗談に過ぎないことをきちんと承知しているので、言いたい放題。
そして、昔から言い負かされるのはユーミリアの方である。この幼馴染は天才的に弁が立つので、言い合いで勝者となるのは至難の業。
なので、気になった。
ユーミリアはじっとルディウスの顔色を窺う。凝視されて、彼は居心地悪そうに身を引いた。
「なに、その疑惑の眼差しは」
「顔色は普通に見える……けど。ディー、疲れてる?」
「いや? 特には。普通。可もなく不可もなく、普通だよ。なぜ?」
「あなたが言い負かされるなんて珍しいもの。疲労で頭が回らないのかしらと思って」
ルディウスが苦笑する。
「俺にだって、そういう日はあるよ」
「あるかしら? んー、あるのかしら? ディーに?」
ユーミリアは半信半疑だ。
「君との会話にあまり頭を使いたくはないっていうのはあるかもしれない」
「それはちょっと言い訳っぽく聞こえて、格好悪い理屈よ?」
「なら、惚れた弱みってことにしておい――」
ユーミリアはパッとルディウスの口を手のひらで塞いだ。悪戯っ子のように煌めく彼の双眸を、きっ、と睨み据える。
「そういう、お話は、してないの……っ!」
油断すると、すぐにこれなのだから。
ユーミリアの手をそっと引き剥がし、ルディウスがクスクスと笑う。
まったくもう、とむくれる。
「心配して損したわ」
「光栄だな。ユミィの俺への信頼がすごい」
「顔と頭の良さだけは認めているわ。性格の悪さですべてが無に帰しているけれどっ」
「否定はしない」
肩を竦めたルディウスが、それにしても、と忍び笑いを漏らす。
「執務室で俺たちがこんなふざけたやり取りをしているとは、誰も想像しないだろうな」
王宮の者たちからは、宰相とその補佐官は執務室で黙々と職務に励んでいると思われているに違いない。実態はこんなである。
軽口がしょっちゅう飛び交うのだ。
「でしょうね。間違いなく、職務態度に限っては最もふざけた部署よ。言い訳のしようもないくらい」
「どこよりも仕事量が多いのだから、このくらいふざけていないとやっていられない」
「まったくだわ」
同意しつつ、ユーミリアは自身の執務机に向かって歩き出す。
「でも、おふざけが過ぎるとただの給料泥棒になってしまうのが世知辛いところね。訴えられる前に、皆が想像する通りのお仕事を始めましょうか」
「あぁ。あ、ユミィ」
呼び止められたので、ユーミリアはくるりと回れ右をし――機先を制する。
「リンメル伯を口説き落とせなかった時のために、他に何人か買い手の候補者を見繕って一覧表にしておくわ。競合相手が居れば、よりリンメル伯に売りやすくもなるでしょうし」
「……いつも助かってるよ」
ルディウスのしみじみとした発言に、ユーミリアははにかむような笑みをこぼす。
「あなたにそう言われるの、とっても嬉しいわ」
ぱちり、と。色素の薄い双眸が瞬く。意表を突かれたかのような彼の態度に、きょとんとする。
「どうかした?」
「……いや、犯罪だなって。君に言わせれば」
意味がよくわからない。
「犯罪……って、何のお話?」
「なんでもないよ」
苦笑するルディウスの心境が汲み取れず、ユーミリアはただただ首を捻るのだった。