16. いつかの夜会③
「もし」
「ふぁ……っ」
件の令嬢に声を掛けると、よほど驚いたのか、小動物の鳴き声みたいな反応が返ってきた。
見上げてくる大きな琥珀の瞳は透き通っていて、純真そのもの。
「何かお困りですか?」
「え? あ、え、と……」
声を掛けられたことに大変驚いた様子の令嬢は、おろおろと口ごもった。
ユーミリアは急かすことなく、続く言葉を辛抱強く待ってみる。
すると。
「あの、こちらのお料理に……興味があるのですが、その……お願いの仕方がわからず……」
そう言って令嬢は恥ずかしそうに、テーブルの側に控える給仕をちらりと見た。
彼女の纏うドレスは質素で、流行りとはかけ離れた設えだ。装飾品の類も身につけておらず、立ち居振る舞いも貴族の令嬢として満足に教育を受けているようには見えない。
社交場での経験が著しく低いのは明白だった。
「でしたら、私が代わりに給仕に申しつけましょう。召し上がりたいものを教えていただけますか?」
ユーミリアがそう申し出ると、たちまち大きな瞳が輝いた。
「本当ですかっ? えぇと、えと、では……ええと……」
好きなものを好きなだけ選んで構わないのに、料理の並んだテーブルを一生懸命眺めて、吟味している。
「こ、この、大きなお肉の詰まったパイをお願いしてもいいでしょうか……っ」
キラキラとした眼差しが、食い気味にユーミリアに注がれる。
(……可愛い)
なんというか、愛くるしい小動物を眺めている気分だった。
ユーミリアはさっそく、料理を取り分けてくれるよう給仕に頼んだ。伯爵邸の使用人はパイだけでなく、前菜やマッシュポテトやらを彩りよく皿に盛り付けてくれた。
どうぞ、とユーミリアは受け取った皿を令嬢へと差し出す。
「ご親切に、ありがとうございます」
ほくほく顔で皿を受け取る令嬢を見下ろしながらーーユーミリアは、内心で眉を顰めた。
皿を掴む細い指はあかぎれだらけ。ドレスの袖口から覗く手首は肉付きが悪く、鞭で打たれた跡が白い肌にくっきりと残っていたからだ。
この夜会に招待されているのは貴族だけではない。中流層だって招かれている。その娘なら日々の家事で手が荒れているというのは考えられるけれど。鞭の跡というのは、穏やかではなかった。
ーーとはいえ。
(他人の事情を根掘り葉掘り詮索するのは、品がないし……)
気づかなかったフリをするべきか、軽く探りを入れてみるべきかを迷っていると。
ユーミリアは彼女がフォークを所在なさげに彷徨わせていることに気づいた。てっきりすぐ口をつけると思っていたのに、料理に突き刺すのを躊躇っているのである。
「どうされました?」
「あ、いいえ、なんでも……」
ふるふるとかぶりを振ってから、令嬢はそっと周囲に視線を走らせた。怖々と周りを確認するさまは、まるで気後れするかのよう。
そこでユーミリアはあっ、と彼女の心中に気づいた。
給仕を頼むのすら不慣れなのに、社交場での食事の作法など身につけているはずもない。
浮いている自覚があるのだろう。自身の振る舞いが周りにどう映るのか、気にして口をつけられずにいるのだ。
ユーミリアはちょっと考えてから、俯いている令嬢の顔を覗き込んだ。
「今夜の夜会ですが、気軽な立食式のパーティで客人同士の親睦を図るというのは、あくまで名目に過ぎません。伯爵の本音は自慢の料理人の腕前を誇示したい。これに尽きます」
唇の前で人差し指を立てて、悪戯っぽく微笑む。
「多少不作法であっても味わって召し上がれば、この場では最上級の作法になるかと」
酔って羽目を外す貴族だって中にはいるのだ。多少お行儀が悪くたって、いちいち目くじらを立てる者は居ないだろう。
「い、いただかせていただきます……っ」
ユーミリアの後押しが効いたようで、令嬢は意気込んで牛肉のパイにフォークを突き立てた。
一口大に切り分けて口に運ぶと、愛らしい顔がめいっぱい綻ぶ。
「……っ、世の中には、こんなに美味しいご飯があるのですね。一生の思い出です……っ」
いたく感動した様子である。
そんな大袈裟な、と思うのだが、これが大袈裟な表現でない場合、彼女の普段の生活が窺い知れる発言だった。
幸せそうにはにかむ令嬢に、ユーミリアは迷った末に、探りを入れてみることにした。
「名乗るのが遅れました。私はユーミリア・クロイツェルと申します。あなたは?」
「クローゼ・アッ……。えと、クローゼです」
明らかに、意図して名乗るのをやめた。
「差し障りがないようでしたら、家名まで伺っても?」
躊躇した後、クローゼは恥ずかしそうに目を伏せて、か細い声で答えた。
「……アッシュベリー、と申します」
(アッシュベリーって、名門もいいとこじゃない)
長い歴史を誇る、国内でも名門の伯爵家である。
当代の伯爵家には女児が二人。外見年齢的に彼女は次女だろう。そして、アッシュベリーの次女といえば浮気相手とのあいだに生まれた庶子である。五年前に母親が亡くなって正式に伯爵家に迎え入れられたと聞いているが。
少し考えてから、ユーミリアは質問を重ねた。
「アッシュベリー伯のご息女でしたか。本日はお一人で出席を?」
「あ、いいえ。姉と母も一緒です」
「……姉君はどちらに?」
なぜそんなことを聞くのだろう、と。クローゼはきょとんしながらも、素直に答えてくれた。
「あちらにお揃いの髪飾りをつけているご令嬢の集まりが見えると思うのですが……私と同じ髪色の、緑のドレスの女性が姉です」
さほど遠くないテーブルに、スズランを模した色違いの髪飾りをつけた四人の令嬢が集まっていた。華やかな輪の中にあって、一際輝く美しい令嬢が彼女の姉らしい。
ドレスも装飾品も、身に纏っているものすべてが一級品。その所作も品が滲み出ていて、厳しく躾けられているのが窺える。
シャンパンが注がれたグラスを傾ける手は、白魚のように美しい。
(……姉妹で随分と待遇が違うのね)
幸せそうな顔で牛肉のパイを頬張るクローゼをちらりと窺って、ユーミリアは困り果てた。
こんな時、どうするのが正解なのだろう。
クローゼが伯爵家でいい扱いを受けていないのは明白だ。姉妹間での格差に加えて、跡が残るほど日常的に鞭を振るわれている。
だがそれは、躾の範疇と言われてしまえばそれまで。庶子を本妻の子と平等に扱わなくてはならないという決まりなどないのだから。
「お待たせしました、ユミィ。そちらのご令嬢はどなたです?」
ぐるぐると考え込んでいると、クラリッサとレイチェルが戻ってきた。
「今し方知り合った、アッシュベリー伯爵のご息女よ」
ユーミリアの紹介に、クラリッサが無邪気にクローゼへと話しかけに行く。対して、レイチェルの瞳が翳りを帯びたのを、ユーミリアは見逃さなかった。
「彼女に、何か思うところがあるの?」
声を潜めて尋ねると、レイチェルは眉を曇らせた。
「過去にアッシュベリー邸で働いていた使用人が我が家にいるのですが……」
潜めた声で、レイチェルが言う。
「あくまで使用人たちが話しているのを聞いた、噂に過ぎませんよ? 伯爵夫人は義理の娘を使用人のごとく扱き使い、些細な失敗で鞭を打ち、夫人のその日の機嫌によっては食事も与えないのだとか」
普段なら、噂はただの噂と間に受けないのだが。
やつれているとまではいかないが、クローゼの肉付きの悪さやパイを食べた時の感想といい、満足に食事を与えられていないのは事実と判断してよさそうだった。
ユーミリアが表情を曇らせると、レイチェルは慌てて付け加えた。
「使用人が、大袈裟に語った可能性もあります。夜会への出席を許されているのなら、そこまで不当な扱いを受けているとも思えませんし」
その言葉に、ユーミリアは逆かもしれないなと思った。
クローゼが社交場に慣れていないのは明白だ。夫人が機会を与えてこなかったのだろう。
夫人が普段から悪意を持ってクローゼに接しているのなら。夜会への出席を許可したのは悪意の地続きで、何かしらの思惑があってのことかもしれない、と。
「クローゼ」
第三者の声が、思考を遮った。
声をかけてきたのは、十代後半の、名も知らぬ令嬢だった。耳元にあしらわれたスズランの髪飾りで、彼女がクローゼの姉と共にいた令嬢の一人だと気づく。
「あなたに確認したいことがあるの。すぐにロベリア様のところまで来てちょうだい」
ロベリアという名は聞き覚えがあった。アッシュベリー伯爵家の長女のことに違いない。
返事も待たず、彼女はクローゼの腕を掴んで強引に連れて行こうとした。
「ちょっと、あなた」
堪らず割って入ろうとすると。
「ユーミリア様」
当のクローゼが、大丈夫ですから、と押し留めた。
「親切にしてくださって、ありがとうございました」
心の底から嬉しそうに笑んだクローゼは、半ば引きずられるようにして連れて行かれてしまったのだった。




