第15話 いつかの夜会②
注目を集めている自覚があるだろうに、ルディウスは意に介した様子なく貴婦人を伴って大階段を登っていく。その双眸は凍てついた氷のようで、端正な顔にはなんの感情も浮かんでいなかった。
話には聞いていたけれど。目の当たりにするのは初めてで、冷然とした佇まいはユーミリアの瞳には見知らぬ人のように映った。
「あの方……」
クラリッサが、彼女にしては慌ただしい所作で皿をテーブルに置く。そのまま何処かへ向かおうとするので、ユーミリアはまさかと思い、咄嗟に彼女を呼び止めた。
「クラリッサ。どこへ行くの?」
「文句を言いに」
敵意に満ちた視線が向く先は、ルディウスだ。
「怖いもの知らずですね」
「わたくしは、冷徹宰相の威光に怯んだりしませんわっ」
レイチェルの囁きに、クラリッサがそう噛み付いた。
カッカしている彼女に向けて、ユーミリアは首を傾ける。
「レオンハルト公の隣のご夫人がどなたか、知っている?」
「よほどの無知でない限り、この国の令嬢なら知っております。ベルガモット侯爵夫人です」
自領の織物の品質向上をはかり、ドレスの生地として大流行させ――現在は装飾品の製作にも力を入れている夫人は、グレストリアの流行の先駆者として、国中の令嬢の憧れの的。
彼女の後ろ盾があれば社交界で一目置かれるほどに、強い影響力を持つ貴婦人だった。
「ベルガモット夫妻は有名なおしどり夫婦。疑う余地なく、職務の一環だわ」
「婚約者のエスコートを袖にしておきながら、既婚者とはいえ別の女性を同伴して会場に現れるなんて、ユミィへの配慮が著しく欠けております!」
「私が気にも留めないとわかっているから、彼は夫人を同伴しているのよ」
クラリッサが納得行かなげな顔になる。
「有力な後ろ盾を持たないユミィのお家がどのような縁あって公爵家との婚約を実現させたのか、皆目見当もつきませんが。ご両親を気遣って我慢しておられるのなら……」
「そこは私も常々疑問に思っているけれど。だからといって、相手の家柄に怖気付いて何かを我慢したことなどないわ」
ユーミリアとの婚約は、ルディウス側にメリットは何もない。両家のあいだでなぜ婚約が成立したのか、甚だ疑問である。
当時公爵家の当主だったルディウスの父親から打診されて決まった縁談、としかユーミリアは聞かされていなかった。
「普段の気の強さをどこに置いて参りましたの? 婚約者に遠慮してばかりでは、息が詰まって心が死んでしまいます」
「私がこの世で最も遠慮知らずなのは、婚約者に対してよ」
「まったくそうは見えませんわ」
拗ねたように頬を膨らませるクラリッサを、静かに諭す。
「夫人との縁故は何かと利用できるはず。騒がせて夫人の機嫌を損ねでもしたら、彼の邪魔になるわ」
「そんなもの、これまで社交を疎かにしてきたツケではありませんか。幼少の頃から人脈作りに励んでおけば、今更夫人と知り合いにならずとも――」
「彼が公爵家の嫡男として努力を怠ったことは、一度足りともないわ」
無意識に、口調が強くなってしまった。
天性の頭脳を驕ることなく。ルディウスは父にとって、勤勉な生徒だった。
だが、社交となると話は変わる。彼の母親が離れに閉じ込めて、その機会を取り上げていたのだから。
公爵夫人が長男を幽閉していたなんて醜聞を、公にできるはずもない。真実は伏せられ、貴族のあいだでは、ルディウスが公爵位を継ぐまで社交界に姿を見せなかったのは人嫌いがゆえに、などと囁かれている。
(ディーのことだからそこまで折り込み済みで……お母様を庇うためにも、余計な憶測が生まれないよう非情な人柄を演じていたりするのかしら……?)
ルディウスの性格なら、十分にあり得た。
彼の口から母親への恨み節を聞いたことは、一度もない。
子供の頃、公爵夫人の兄弟間格差にユーミリアが腹を立てると、ルディウスは決まって、『脆い女性だから』と困り顔で擁護した。
現在に至るまで、彼は精神的に脆い母親を気遣い続けていた。
事情を知らないクラリッサを非難するのは理不尽だとわかっている。何より、目の前の友人が腹を立てているのはユーミリアのため。
だからといって、ルディウスが謂れのない誹りを受けるのを許容することもできない。
「クラリッサ。私、彼が悪く言われると悲しい気持ちになるの。人にはそれぞれ事情があるものでしょう? あなたは私の良き友人だもの。それがわからない人ではないはずだわ」
「……わたくしは、わたくしの友人をぞんざいに扱わないでほしいのです」
友人の言葉に、ユーミリアは微笑んだ。
「それなら、あなたが怒ることは何もないわ。彼ほど私を大切にしてくれる殿方はいないもの」
はにかむような笑みを見て、クラリッサは戸惑ったように目を瞬かせる。
「いつもエスコートをすっぽかされておりますのに、大切にされているだなんて、甘くありませんこと?」
「そこは……ほら、惚れた弱みという言葉があるじゃない?」
「公爵様と婚約を交わすまで、数々のご子息からアプローチを受けながらまったく靡かない高嶺の花と有名でしたのに。ユミィったら、実は面食いでしたの?」
「……顔の良さは誰もが認めるところでしょうけれど。ここだけのお話、性格もいいのよね、彼」
本人には絶対に言ってやらないけれど。
「彼のいいところをたくさん知っているから、世間が定める義務の一つを疎かにするくらいは、許容の範囲内なの」
クラリッサは愛らしい顔をぐぬぬ、と歪め――長い長い、葛藤の末に。
「……わかりました。ユミィのそんなに愛らしい顔は初めて見ましたもの。あなたの惚気に免じて、今夜は見逃して差し上げます」
渋々ながらも矛を収めてくれた友人に、微笑みかける。
「私のために怒ってくれてありがとう、クラリッサ」
「今夜だけですからねっ」
そう言って、クラリッサは再び何処かへ向かおうとした。レイチェルが慌てて呼び止める。
「どこに行くのです?」
「バルコニーに。少し、夜風に当たって参ります」
レイチェルがどうする、と目で尋ねてきたので、ついていてあげて、とユーミリアは無言で促した。
二人の背中を見送り、ふう、と嘆息する。
ちらりと、大階段の踊り場で貴婦人と話し込んでいるルディウスを窺った。
その美貌は健在だが、遠目からでも顔色は仄白く、以前会った時よりも明らかに痩せている。
(私は隣の貴婦人より、あの死にそうな顔色の方が気になって仕方がないわ)
張り詰めた空気を鎧のように纏って誤魔化してはいるけれど。どう見たって、疲労困憊である。まあ、気づくのは付き合いの長いユーミリアくらいのものだろう。
(それもこれも、全部……)
自然と、ため息がこぼれ落ちてしまう。
ルディウスの父親は、家族に見向きもしなかったのに。
四年前、公爵家が不幸に見舞われたことで、その心境に変化が訪れた。
身体の弱かった次男が流行病に冒され、生死の境を彷徨ったのだ。
幸い、快方へと向かったものの、公爵夫人は精神的にひどく不安定になったらしい。
立ち寄らなかった離れに出向いてルディウスへと当たり散らすようになり、そんな夫人から引き離すため、彼は半年ほどユーミリアの家に身を寄せていた。
息子が命を落としかけ、妻が精神を病んで、公爵はようやく家庭を顧みる気になったらしい。だが、気遣うべき家族の枠組みに、ルディウスは含まれなかった。
公爵家の内情に詳しいユーミリアの母が言うには、療養のために王都を離れて以降、母親は言わずもがな、父親からルディウス宛てに便りが届いたことは一度としてないらしい。
夫人と末息子のために空気のいい田舎に移るのはわかる。わかるけれど。家族の中で一人王都に取り残された挙句、宰相などという重責を背負わされながら、頼る先のないルディウスを想うと――ユーミリアはどうしても、彼の父親が憎らしくなる。
心を入れ替えたのなら、貧乏くじを引かされた長男のことだって、気にかけてくれてもいいじゃないか。同じ宰相の職務を担っていた者として、いくらでも助言できるだろうに。
社交の機会を取り上げられていたルディウスが、伝手らしい伝手など有しているはずもない。混沌と化した王宮で誰が信用できて、誰を警戒すべきか。誰が有能で、誰が無能か。すべてが手探りのまま、国内の安定を図って奔走し――。
更には社交界での足場固めに、公爵家の当主としての執務までこなさなければならないのだから、多忙などという表現では済まないほど時間が足りていないはず。
その労力と精神的な消耗は、想像して余りある。
(婚約者甲斐を求める気には、なれないわ……)
寧ろ、ユーミリアのエスコートをする暇があるなら身体を休めてほしいのが本音だった。
皮肉にも、家族が居なくなったことによって本邸の敷居を跨げるようになったルディウスが、広い広い屋敷で一人過ごす光景を思うと、それはそれで胸が痛むのだけれど。
婚約者から視線を引き剥がしたユーミリアは、甘味を楽しむ気がすっかり失せてしまった。
二人が戻ってきたら今夜はお暇しようかな、と思いつつ壁の花と化して会場の様子をぼんやりと眺める。
しばらくそうしていると、ユーミリアはなんだか挙動不審な様子の令嬢がいるのを発見した。
波打つ亜麻色の髪をショートカットにした、小柄で愛らしい子だ。年齢はおそらく、ユーミリアより一つか二つ下だろう。遠目から見てもその佇まいは洗練されているとは言い難く、あまり育ちがよくなさそうだった。
そんなお嬢様が、料理の並んだテーブルの近くでおろおろと視線を彷徨わせているのである。
(う〜、ん……?)
様子としては、何かに困っていそう。だが、何をそんなに困ることがあるのかが、不思議でならない。
(……声を掛けてみようかしら?)
何か困り事があるのなら、見て見ぬふりをするのも気が引ける。
ひとまず、ユーミリアは不審な令嬢に話し掛けてみることにしたのだった。