第1話 宰相閣下の補佐官です
クロイツェル男爵家の令嬢ユーミリアは、国内では名の知れた才媛である。
ダンス、ピアノ、乗馬、礼儀作法、その他諸々。
貴族の令嬢に求められる教養を生まれついての呑み込みの速さで苦もなく身につけた。
十歳で入学した貴族学校では、六年間一度も首席の座を空け渡すことなく卒業。同年に文官として王宮に仕官し、現在は十七歳という若さで宰相の専任補佐官を務めている。
そんな彼女はただ今、ふんふん、ふふん、と鼻歌を歌いながら、刺繍に勤しんでいた。
くるりとカールしたまつ毛に縁取られた、深緑の瞳。くっきりとした目鼻立ち。手触りの良さそうな、サラサラの薄桃色の髪。
人形のように造形の整った令嬢が優雅な手つきで布地に針を刺すその光景は、一枚の絵画のよう。
――但し、背景が内務省の一室でなければ。
大国グレストリア。その首都イグザレムの中心に座す王宮内。ばっちり、行政区画の一画である。
始業時刻をとっくに過ぎているので、ユーミリアの周りでは書き物や分厚い書物を紐解いたりと、文官が忙しそうに働いている。
仕事に追われていようとも、本来この部署に居るはずのない女性が我が物顔で卓につき、あまつさえ刺繍をしているという光景は気になるらしい。
彼らのあたふた、おろおろとした視線が突き刺さるのを感じながら、ユーミリアは――。
(居た堪れない、ものすっごく、居た堪れない〜〜。けど、我慢、我慢……っ! これが最善策なんだから!)
余裕顔で刺繍をこなすユーミリアは、内心では羞恥心と居た堪れなさに苦しんでいたりした。
「補佐官殿」
せっせと刺繍に励むユーミリアに、厳かな男の声が掛かった。
顔を上げると、内務省の統括者である内務大臣が好好爺然とした笑みを浮かべていた。
「なんでしょう?」
「閣下のご指示ですかな? 私の部下の動向を観察しておられる?」
初老の男が十七歳の小娘であるユーミリアに丁寧な物腰なのは、彼女が宰相補佐官という大役を担っているから。
彼にとってユーミリアは上司ではないが部下でもないので、敬意を持って接してくれる。
とはいえ、その表情はにこやかではあるものの、目が笑っていなかった。瞳の奥に潜んでいるのは、警戒の色。
ユーミリアはにっこりと微笑む。
「いいえ、違います。今日は刺繍がしたい気分なのです」
大臣殿は訳がわからない、という顔で固まった。当然の反応だ。ユーミリア自身、訳がわからないなぁと思いながらせっせと糸を縫いつけているのだから。
「…………」
「………………」
長い長い沈黙の末に、内務大臣は思考を放棄したのか、はぁ、と生返事をして隣の執務室へと姿を消していった。
再び、微妙な空気が部屋に流れる。
通常の業務をこなす文官たちを視界の端に捉えながら、ユーミリアは内心でこっそりとため息を吐く。
(このまま放置されても困るのだけれど……。片付けないといけない仕事は山程あるのに。どうしたものかしら?)
時折ちらちらと寄越される視線。ユーミリアの存在に、文官たちはひどく戸惑っているようだ。
無為な時間がいくらか経過したところで。控えめに交わされる会話に神経を尖らせていると。断片的ではあったものの、閣下、とか、呼びに、といった単語がようやく耳に届いてきた。
慌ただしく出ていく文官を目で追って、ユーミリアは心の中で彼に拍手を送る。
(偉いわ! 行動力花丸っ! ありがとうございます、名も知らぬ文官さん!)
それから程なくして、室内の空気が一変した。適度な緊張感から、ぴんと張り詰めたものへと。
閣下、と誰かが声を上げた。
この居た堪れない状況から解放されそうで、ユーミリアはホッと胸を撫で下ろす。
部屋の入り口に目を向けると、視線は自然とある一点に惹きつけられた。戸口で気怠げに佇む、美貌の青年へと。
首筋を流れる、透き通るような銀髪。女性も羨むきめ細やかな白い肌。感情の読めない銀灰色の双眸。中性的な容貌はあまりに整い過ぎていて、近寄りがたさすらある。他者を寄せ付けない冷然とした雰囲気を纏っているので、尚更だろう。
十七歳で公爵位を継ぎ、翌年には王国史上最年少で宰相の座に。現在、二十一歳という異例の若さで宰相を務める貴公子、ルディウス・レオンハルト。
その切れ過ぎる頭脳から稀代の天才と評される彼は、優れた政策を打ち出す政治手腕に加えて卓越した先見の明まで備えており、国王並びに重鎮たちから絶対的な信を置かれている。
ユーミリアにとっての彼は六歳の時に知り合った幼馴染で。十四歳の時に互いの両親によって婚約者と定められ。そして、一年と少し前に上司となった、とにかくいろんな縁で結ばれているのである。
ルディウスは億劫そうな足取りでユーミリアのもとまでやって来ると、訝しげに瞳を細めた。
「ここで何を?」
直属の上司からの問いかけに、ユーミリアは微笑みながら答える。
「ご覧の通り、刺繍です。閣下もご一緒されますか?」
我ながら、ふざけた答えだと思う。
これがユーミリアでなければ、ルディウスは絶対零度の眼差しと共に『帰っていい』と冷たく命じたことだろう。この帰っていい、は金輪際出仕しなくていいからね、の意訳である。
補佐官に任じられて以降、忠実に尽くし、期待に応え続けてきた甲斐があったのか、罷免は宣告されなかった。
優美な眉がわずかに顰められたのみ。
「そうじゃない。俺が尋ねているのはなぜ宰相の執務室を離れ、内務省で刺繍をしているかだ」
「……うーん。そうですね……。あ、そう。暇だから。暇だから、でしょうか?」
ルディウスが気だるげに腕を組み、首を傾けた。
「モリンズ伯爵領の件は? 君に回したのは、急ぎの案件だからだ」
昨日の帰り際、明日から最優先で取り掛かってくれと任された仕事だ。
ユーミリアはニコニコと笑みを湛えながら答える。
「どんな案件かすら存じ上げません。書簡に一切目を通しておりませんので。陛下に急かされているのでしたら、他の方に託した方が賢明だと補佐官として進言しますわ」
ルディウスが深い深い、ため息を吐いた。
「……よく、わかった」
そう言って。
そっと身を屈めた彼は、ユーミリアの手を握った。
びっくりして肩を震わせた合間に、ルディウスは器用に刺繍道具をユーミリアの手から奪い取ってしまう。それから彼は、そうするのが当然といわんばかりの自然さで、ユーミリアを抱え上げた。
突然の浮遊感に小さく悲鳴を上げ、ユーミリアは色を失って上司を見上げる。
「え、え? ちょっと待って……っ」
思わず、素が出た。
「下ろして、ディ……」
「暴れると落ちるよ」
抵抗と抗議の声は、潜めた声によって遮られた。
それからルディウスは広い室内をぐるりと見渡し、野次馬根性で遠巻きに眺めていた文官たちに、
「込み入った事情があってのことだ。貴公らは何も見なかった。いいな?」
冷ややかな声音で、鋭く命じた。
文官たちの頭には疑問符が浮かんでいるだろうが、ユーミリアにはルディウスの命令の真意を汲み取ることができていた。
だからこそ、人前で抱き抱えられるという恥ずかしくて堪らない現状に、文句を言いたくなる。
(こんな理解不能な奇行の意図をすぐに見抜くのは流石だけど、だったらこんなことする必要もないとわかっているでしょうに〜〜! どんな嫌がらせよ……っ!)
落っことされては堪らないので仕方なくされるがままでいつつ、ユーミリアは端正な婚約者の顔を睨み上げる。射殺さんばかりの視線が効いたのか、ルディウスと目が合った。
「行くよ」
そう囁いて、彼はさっさと歩き出す。
感情を読み取りにくい、冷めた双眸。その奥に、申し訳なさそうな色がちらついていたのを見逃がさなかったユーミリアは――。
(成功、ではありそう?)
人前でお姫様抱っこで運ばれるという辱めを受けたのは想定外だけれど。目的は果たせたようで、ユーミリアはひとまず安堵の息を漏らすのだった。
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ちなみに、一連の光景が噂の種になることはなく。宰相閣下の命令は、忠実に守られたのだった。
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