(2)
「アメリカで展示会があってさぁ、五十人くらいのセミナーでプレゼンしなきゃいけなくて」
「お前、英語できたっけ?」
「いや、全然。もう必死だよ。気が抜けなくて、毛が抜けたわ」
「えっ、大丈夫かっ。髪は男の命だろ」
「それを言うなら、女の命、な」
下らない篤志のつっこみに丁寧に答えてくれる。
「仕事で揉まれるって、こういうことなんだと痛感したよ」
見たところ頭髪に異常はない。とりあえず大丈夫なのだろうか。
「いや、すごいじゃん。見たかったわ。動画とかないの?」
「え?あるけど、見る?」
動画の中のアンノジョーは、本人の言葉とはうらはらに、堂々とした態度でプレゼンを行い、聴講者からの質問にもきびきびと答えていた。
「すごい、アンノジョー、かっこいい!バリっバリ英語じゃん」
篤志は驚嘆し、絶賛する。
「いやいやいやいや」
アンノジョーは、刺身をつまみながら言葉を返す。
「もう必死だよ。準備が9割だからさ、当日なんていうのは残りの1割だよね。それでも英語だからさぁ、まったく気が抜けなくて」
プレゼンのために登壇したのは自分一人であるが、そこに至るまでの準備を組織一丸となってやり抜いた。
「毛が抜けるほどしんどかったけど、こんな経験させてもらったら、成長しないわけにはいかないよね」
そう話す横顔には、達成感と、充足感が見て取れた。
「スタートアップの小さな会社だから、創業者が目の前にいて、信念とか、夢みたいなものを語る姿を、毎日見ながら仕事をしてるんだけどさ、臆せず語るその姿に惚れちゃうんだよね。ついていきたいって思っちゃうの」
「そっか」
「篤志の会社みたいな大企業では、大企業でしか出来ない仕事があると思うんだけど」
「うん、そうだね、でも、そこは比べるところじゃないよね。それぞれに長短があるわけじゃない」
「うん、そうなんだ、そうなんだよね」
かみしめるように、アンノジョーはうなずく。
「またビールでいい?」
カラのジョッキを差し、通りかかった店員に声をかける。
「土日は?ちゃんと休めてるの?」
篤志はサラダを取り分け、アンノジョーの前に置く。
「うん。俺、最近やってることがあってさ」
「へぇ、なに?」
「小説家になりたいんだよ」
「なにそれ、初耳。聞いちゃっていいの?」
「高校生の頃から書いたりするのが好きでさ、つらつら書きためてたんだよね」
「へぇ、知らなかった」
「社会人になって、仕事もそれこそ苛烈に忙しくて、本業だって勉強しなきゃいけないことだらけだし、言い訳すればキリがないんだけど」
「うん」
「自分が本当にやりたいことなんて、やらなくても誰も困らない。でも自分は知っている。自分の本当の気持ちを自分だけは知っている。俺が一番にやるべきは自分の人生を生きることで、それをないがしろにすることは出来ない」
宵闇に浮かぶ友人の表情は真剣だ。
「アンノジョーかっこいい」
「いや、やめて。まだ何も出来てないから」
「きっと出来るよ。だって、もう始めてるんでしょ。最初の一歩が一番難しいんじゃないの?始めちゃえば、自走していけるものなんじゃない?」
「そうなのかな…。でも、あきらめずに続けてみたいんだ。続けてさえいれば、いつかきっと、何かしら形になると思う」
「出来たら読ませて」
「いや、ムリ」
「なんでだよ、俺を最初の読者にしてくれよ」
「だって、お前、読んだら惚れちゃうよ」
「それはない」
二人は破顔した。
「失礼しまーす」新しいジョッキがテーブルに置かれる。
「どうして、書きたいと思うようになったの?」
「あのねぇ」
アンノジョーは、思案し言葉を探す。
会話が途切れると、とたんに周囲の喧噪が耳に入って来る。
「正直、夏って暑いじゃないですかぁ」
隣のテーブルでは、大学生らしき女の子たちが高い声でさえずり合う。
ねぇ、君、その「正直」は、どこにかかるの?
言葉の使い方が間違ってやしないか、と突っ込みたくなる。
若い女子の生態は謎に満ちている。