(3)
「今日お客さんのところに、提案書を持って行ったんだけど」
莉桜は自分から話はじめた。
「一緒に行く予定だった課長が、アメフトの試合で骨折して手術することになっちゃって、打ち合わせとか全然出来なくて…。部長も副社長のお供で中国出張中でなかなか連絡がつかなくて、自分なりに一生懸命作って持って行ったんだけど、全然ダメだった」
両手でハンカチをぎゅっと握りしめる。
篤志は「そっか」と言い、ビールを一口飲んだ。
「お客さんになんか言われたの?」
「責められたり、苦言を呈されたりとかは、全然しなくて…」
一度押し戻した涙が、戻ってくる。
莉桜は、少し黙り、ふぅーと大きく息を吐き、自分を落ち着かせる。
篤志は、何も言わず黙って聞いてくれている。
「すごく忙しい方なの。海外出張から戻ったばかりで、お疲れのところ無理して時間を作っていただいたの。課長が作ってあった資料をベースに、データを追加したりして持って行ったんだけど、分析が甘かったり、矛盾を指摘されちゃって。一時間のお約束だったんだけど、何がダメでどう直せばいいのか、延長して丁寧に教えてくださって。また見せに来てって言ってくださって。ひたすら申し訳なかった」
一生懸命奮闘して作った資料ではあった。手は抜いていない。自分なりに精いっぱい努力した。
でも、それではダメだった。及第点にすら遠く及ばなかった。
取引先の黒石は、物腰柔らかな男であった。年の頃は、四十前後だろうか。
よどみのない言葉が次々と繰り出される。理路整然とした発言には、一切の無駄がない。
頭が良いとは、こういうことを言うのだろう。
莉桜が作成したロジックツリーを見ながら、どこが重複し、なにが不足しているのか丁寧に説明してくれた。どうしたら思考を深めることができるのか、どんなトレーニングが効果的なのか、部下でもなければ、同じ会社ですらないのに、詳しくアドバイスをしてくれた。
莉桜が非礼を詫びて帰ろうとすると、わざわざエレベーターホールまで見送ってくれた。
頭を下げエレベーターに乗りこむ。
すると、入れ替わりに、降りてきた女性が声をあげた。
「やだ、黒石さんまだ帰ってないんですか。寝てないのに」
驚き振り返る莉桜の目の前で、エレベーターの扉が閉まった。
徹夜だったのか。言われてみれば、確かにいつもより疲れた顔をしていたかもしれない。自分のことに精いっぱいで、気づかなかった。
こんなにも優しく忙しい人の時間を奪って、自分はなんと罪深いのだろう。
罪悪感と失意に打ちのめされる。
地下鉄に乗り会社へ戻る。ぐったりとうなだれ、入院中の課長に報告のメールを送った。
術後間もなくベッドから起き上がることが出来ない上司は、寝たままスマホを打ち返信をくれた。
「ひとりで行かせることになっちゃってホントにごめん。今回の責任はすべて自分にある。戻ったら、一緒に修正入れて、今後どうするか、相談しよう。本当にすみませんでした」と書いてあった。
黒石から指摘されたことは、以前課長からも指摘されたことがあった。頭では理解しているが、自分の論点の甘さを、一朝一夕に克服することが出来ない。
惨敗であった。