私は、私のものです
「な、何をするんだ、馬鹿! やめろ!」
ナサニエルの静止を無視して、何度も宝玉を叩く。
「これさえ! ――この宝玉さえなければ!」
やっと、死ねるかもしれない。
この終わりのない地獄から、解放されるかもしれない。
燭台がぶつかる度に宝玉は鈍い音を立て、ナサニエルの顔が青くなっていく。
「やめろ、エレノア!」
呼吸するのも忘れてひたすらに燭台を叩きつけていると、ナサニエルに腕を掴まれる。
肩で息をするエレノアの足元をカラカラと音を立てて燭台が床を転がり、その周囲には赤い点がいくつも散らばった。
燭台は細かな装飾で表面は凹凸だらけだったので、皮膚が切れたらしい。
ナサニエルが掴んだ右手からは血が滴り、じんじんと響くように痛い。
だが怒りとも悲しみともつかない感情が頭の中を駆け巡り、すべてがどうでも良かった。
「これはただの石じゃない。叩いても落としても割れないし、逆にどう接着しようとしても直らない。……不仲によって割れたというのなら、それを取り戻せばいいだけだ」
何を言っているのだろうと思う間もなく、掴まれた手を更に引き寄せられ、ナサニエルに密着する。
そのままゆっくりと頬を撫でられ、エレノアは必死に顔を背けた。
「何をするのですか、放してください!」
離れたいのに体が近すぎて力が入らず、掴まれた腕を振りほどけない。
もがく様を見て楽しそうに笑うと、ナサニエルはエレノアの首に顔を埋めた。
「俺のものになれ、エレノア。そうすれば宝玉は戻るはずだし、おまえを王太子妃……王妃にしてやる」
耳元で囁かれた言葉も吐息も気持ちが悪くて、思わず身震いをしてしまう。
それをどうとらえたのかわからないが、何故か嬉しそうに笑ったナサニエルはそのままエレノアの首に触れた。
ちりっと走った痛みは、恐らく剣でつけられた傷に触れたからだろう。
キスされたのかもしれないが、今はそんなことよりもただただ嫌悪の感情が勝って、気が付くとナサニエルの頬を叩いていた。
緩んだ手を振りほどき距離を取って振り返ると、ナサニエルの頬には手形の血の跡が残っている。
最初は目を見開いて驚いていたその表情が、どんどん険しく変化していく。
「……そうか。では、もう一つの方法を試そう」
懐から短剣を取り出したナサニエルは、その切っ先をエレノアに向けて笑った。
「宝玉が割れたのは、楔の力が弱まったとも解釈される。それならエレノアの血を捧げれば直るかもしれない」
「……その短剣で、私を殺すのですか」
今まで散々死の原因になってはいたけれど、直接手を下すことはなかったのに。
ついに、ナサニエルすらもエレノアを殺すのか。
もう誰一人エレノアを殺さない人間などいないのだろうと思うと、乾いた笑いがこぼれた。
「殺すつもりはないから、大人しくしていろ」
「死んでも構わないということでしょう?」
「必要な血の量による」
「同じことです」
ナサニエルにとってエレノアは王位を継ぐための道具で、今は宝玉を直せるかもしれない血の持ち主。
ただ、それだけだ。
……死ぬのは構わないし、それ自体は諦めている。
だが、ここでナサニエルに殺される終わり方だけは、納得できない。
――悔いのない死のため、今は生きる!
エレノアは足元に転がっていた燭台を掴むと、剣を持つように構える。
その瞬間、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。
「――エレノア!」
ルークの声が響いて注意が逸れた瞬間、視界の端でナサニエルが動く。
深窓の公爵令嬢相手に隙をついて攻撃とは、その根性の汚さは敬服に値する。
だが単純な筋力では及ばずとも、いつも剣の稽古をさぼっていたナサニエルの動きなど、ディランに比べたら亀よりも遅い。
突き出された剣をかわしたエレノアは、そのまま脇腹に思い切り燭台を叩きつけた。
うめき声を上げながらも短剣を握り締めるナサニエルを、風のように素早く動いたルークが殴りつける。
勢いよく祭壇にぶつかったナサニエルの手から短剣が落ち、足元のそれをルークが遠くに蹴り飛ばす。
あまりの早業に驚いていると、振り返ったルークにぎゅっと抱きしめられた。
すっぽりと腕の中に収められ、力強いのにエレノアが苦しくないよう加減された抱き方に、心の中の張りつめていた何かが緩む。
同時に手からも力が抜け、滑り落ちた燭台が床に転がった。
「やはり、おまえか。残念だったな。エレノアは俺のものだ」
ナサニエルはよろよろと床から身を起こすと、自身の指で首を指し示す。
エレノアの首を見たルークが眉を顰めたということは、そこに何かあるのか。
思い当たるのは剣でできた傷だが、さっきナサニエルが首に顔を埋めた時に痛みが走ったからキスマークでもつけられたのかもしれない。
嘘か本当かは置いておいて、ルークは一応エレノアに好意があるということになっている。
糾弾されても憐れまれても面倒だし、どうせ何を言っても己の信じたいものしか信じないだろうから、説明する気も起きなかった。
するとルークは腕を緩め、自身の上着を脱いでエレノアの肩を包み込むようにかける。
「エレノア。あなたは誰のものですか」
じっと見つめる眼差しは何らかの感情を伝えるものではなく、エレノアの言葉を待つものだ。
ナサニエルに関することできちんと話を聞いてもらえるのは久しぶりで、何だか胸が詰まる。
「――私は、私のものです」
どれだけ裏切られても、殺されても、エレノアの命はエレノアのもの。
その尊厳だけは、決して失いたくない。
するとルークの腕が伸びてきて、再びその胸に抱きしめられる。
「この代償は、後できっちり支払ってもらいますよ」
頭上から常は聞いたことのない低い声が届き、同時にナサニエルと思しき足音が慌ただしく部屋を出て行くのが聞こえた。
「俺がついていたのに、油断しました。すみません」
更に抱きしめる腕に力がこもり、エレノアの視界はルークで一杯になる。
「私をここに連れてきたのは叔父です。話しかけられてすぐに逃げなかった私も悪いので、気にしないでください」
まさか、ギャレットが楔石の瞳の意味を理解していないとは思わなかった。
ということは今までもエレノアが気付いていないだけで、ギャレットによる死があったのだろう。
ナサニエルも剣を向けてきたし、すべての人がエレノアを殺す可能性があるのだからわかりやすくていいかもしれない。
「エレノアを一人にしたのは俺です。本当にすみません」
抱きしめながらそういう声はとてもつらそうで、気が付くとエレノアは首を振っていた。
「大丈夫です。来てくれたので……もう、大丈夫」
ゆっくりと腕を緩めたルークは、取り出したハンカチで首をそっと撫でる。
そしてエレノアの手をすくい取ると、その手のひらは見事に血まみれだった。
「これは、ナサニエルが?」
「いえ。私が燭台で……」
そこまで言って、ふとナサニエルの言葉を思い出す。
『宝玉が割れたのは、楔の力が弱まったとも解釈される。それならエレノアの血を捧げれば直るかもしれない』
ナサニエルの言っていたことが本当ならば、エレノアのこの血に意味があるかもしれない。
「……エレノア?」
ルークの手を除けて宝玉の前に立つと、割れた石にそっと触れてみる。
表面に血が付いたかと思うとすっと吸い込まれて消え、宝玉は一瞬暗い光を放ったように見えた。
エレノアはごくりと唾を飲む。
破壊することは不可能だというのなら、割れた宝玉が直れば楔であるエレノアも不要になるかもしれない。
そうすれば楔を欲することも……ループすることもなくなるのだろうか。
もっと、血を与えれば――!
周囲を見回して短剣を見つけたエレノアは、それを拾うとそのまま自身の腕に突き立てようと振り上げた。
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鈍感神官とストーカー王太子のラブコメです。
詳しくは活動報告をどうぞ。
次話「宝玉の愛という名の呪い」
血を捧げようとするエレノア。
ループの事実を伝えると……。
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