勝手な婚約
「はい。もう決めました」
立場も年齢も下であろうルークにも丁寧に接する大神官には好感が持てるが、お祈りだったらどこでも誰でも構わないのに。
大体、ルーク自身が高位の神官なのだから大神官を呼び出す必要などないではないか。
「先日、ヘイズ公爵令嬢が神殿を訪れて終活と訴えた時に私がいなかったのも、神のお導きかもしれませんね。――わかりました」
大神官は何かに納得した様子でうなずくと、ルークの手を取り、エレノアの手を重ねる。
更に深緑色に金糸で縁取りされた布をかけると、大神官の手がその上にかざされる。
そのまま聖典の文言を唱え始めたのだが、これは一体何だろう。
祈りと言うから普通に手を合わせて神に感謝を捧げるのかと思ったのだが、こういう祈り方もあるとは知らなかった。
あるいはエレノアが名門公爵家の令嬢だから、家格に合わせたのかもしれない。
「エレノア、集中してください」
「は、はい」
ルークに注意され、慌ててうなずく。
よくはわからないが大神官直々に祈りを捧げてくれるなんて滅多にないはず。
これも終活の一環だと思えば、ありがたみも増すというものである。
「エレノア・ヘイズ。二人共に歩む未来を神に誓ったことを、大神官の名で認めましょう」
最後の言葉が何だか変ではあるが、とにかく祈りは終わったらしい。
布を取り払われようやく手をおろすと、大神官はにこりと微笑んだ。
「これで、お二人は正式に婚約しました」
「……は?」
何を言われたかわからず首を傾げるエレノアに、気付いているのかいないのか。
大神官はそのまま話を続ける。
「書類は後日お届けしますが、神殿が認め、大神官の前で祈りを捧げたのです。これを覆せるのは、正当な理由の上で下される陛下の勅命だけです」
「いえ、ちょっと待ってください。婚約って何ですか⁉」
慌てるエレノアに、ルークが優しく微笑む。
「第二王子とは婚約解消しているから、問題はありませんよ」
「あります! 私が同意していません!」
確かに制度上は問題ないのだろうが、それ以前に何故婚約することになったかわからない。
「一般的には二人で神殿に行って神官、それも大神官の前で祈りを交わせば、それは同意の上の婚約とみなされます」
まさかと思って大神官を見ると、当然とばかりにうなずかれる。
「王族の場合には先に書類を用意して神官の方が王宮を訪問し、更に式典を執り行いますから。ヘイズ公爵令嬢はご存知なかったのでしょう」
確かにナサニエルとの婚約は王宮で婚約式という形で結ばれたし、今まで他の誰かの婚約の話を詳しく聞いたことなどない。
だがまさか、こんな騙し討ちのような婚約をすることになろうとは。
「書類上はこれでいい。心情的には、これから俺を好きになってくれれば大丈夫です」
「勝手です!」
「わかっています。それでもエレノアに死んでほしくないし、誰にも渡したくない。……俺に、チャンスをください」
まっすぐに青玉の瞳に見つめられ、その必死な眼差しに気圧されて言葉に詰まる。
業務熱心なのか、本当にエレノアを好きなのか、勘違いしているのかはわからない。
それでも真剣な思いで行動しているということだけは伝わってきた。
どうやら既に婚約自体は成立してしまったようだし、今ここで騒いだところでその事実は変わらない。
いずれ国王に直訴しなければいけないだろうが、今はあまり会いたくなかった。
「たぶん、私は変わりませんけれど。……少しの間なら」
「――ありがとうございます、エレノア!」
極寒の冬から一気に春が訪れたかのように、ルークの表情がぱっと明るくなる。
それと同時に両手を広げたかと思うと、あっという間にその腕の中に収められていた。
「ちょっと、何ですか⁉」
驚いて胸を押して距離を取ると、ルークは不思議そうに首を傾げる。
「婚約者ですから。これくらいは普通でしょう?」
「急です! 大体、婚約しているからってこんなこと今まで……」
ナサニエルとしたことなどない、と言いかけて口をつぐむ。
ルークの行動が性急なのは間違いないと思うのだが、エスコート以外にはほとんど触れていないナサニエルとの関係性のおかしさをあらためて認識した。
婚約したばかりの小さい頃には、それなりに仲良く手を繋いだりしていたと思う。
だが少なくとも社交界デビュー以降はよそよそしかったし、こんな風に抱きしめられたことなど一度もなかった。
……ジェシカを抱きしめているところなら、何度も目撃したけれど。
そうか。
それくらい、ナサニエルはエレノアのことを嫌っていたわけか。
わかっていたし、今更愛されたいとは思わない。
それでも「普通」のことすら満足にできなかったという事実に、気が付くとうつむいていた。
いや、事実を把握して心の中で消化するのも、悔いのない最期を迎えるためには必要。
これも立派な終活なのだから、良かったではないか。
勢いよく顔を上げると青玉の瞳と目が合う。
ルークはエレノアの手をすくい取ったかと思うと、その甲にそっと唇を落として微笑んだ。
「それじゃあ、まずはこれくらいから、かな」
一瞬鼓動が跳ねたが、これは至近距離すぎるせいと、ナサニエルとの距離を再認識したせいだろう。
そうは思うのにドキドキが止まらず、何だか気まずくなったエレノアは少し視線を逸らす。
「やっぱり、手慣れていますよね」
「まあ、挨拶なら経験がありますので」
「……もしかして、元は貴族とか?」
「そんなところですね」
なるほど、それならば社交の一環で手にキスすることもあるし、経験もあるはずだ。
もっとも本来は形だけなので、今のルークのように本当に唇が触れることはないのだが。
きっと、加減がよくわからなかったのだろう。
大神官が敬語で丁寧に接していたのも、そのあたりが関係するのかもしれない。
……そうだ、この場には大神官がいるのだった。
ちらりと視線を向けると大神官は「あとはお二人で」と呟いて、そのまま部屋を出て行ってしまった。
何だか嬉しそうに微笑んでいたのは、大神官もエレノアの終活を阻みたいということなのかもしれない。
「せっかく婚約したことだし、明日の夜会に一緒に行きましょうか」
次話「やらないで後悔するよりはいい」
「俺のこと、終活相談員だと思っていますよね?」
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