ハッピーエンドから始まるラブコメ
何かがおかしい。
目を覚ました俺・汐留清介は、何の根拠もないのにどういうわけかそんな感覚に襲われた。
いつも通りの窓、いつも通りの天井、そしていつも通りの部屋。だけど気のせいかな? なんだか何かがおかしい気がする。
おかしいと言っても、壁紙の色が変わったとか、そんな大きな変化じゃない。もっと些細な、違和感程度の変化だ。
この違和感の正体が何なのか? 突き止めるべく部屋の中を見回していると……いつもと変わらない筈の部屋の中で、一つだけ昨日までと違う箇所を見つけた。
本棚の一番取りやすい位置に並べられていたラブコメ漫画・『100パーセントのラブコメディ(略称は『100ラブ』)』がごっそりなくなっているのだ。
「おいおい、俺の『100ラブ』はどこにいったんだよ? 母さんのやつ、もしかして勝手に捨てたのか?」
もしそうだとすると、不自然な点がある。
母さんが20巻以上ある『100ラブ』を全て捨てたのならば、元々『100ラブ』の置いてあった場所には何も置かれていない筈だ。
しかし実際には、どこかのお土産であろう不気味なオブジェや可愛らしい写真立てがインテリアとして置かれている。
つまりこの場所には、初めから『100ラブ』が置かれていなかったというわけだ。
「漫画本が神隠しに遭うとか、どんなミステリーだよ?」
自身のセリフを笑い飛ばしながらテレビを付けると、丁度とあるアイドルグループのライブが生放送されていた。
彼らは国民的アイドルグループだ。しかしこうしてドームを貸し切ってライブを催すなんて、絶対にあり得ない。なぜなら……彼らは現実には存在しない、フィクションの中のキャラクターなのだから。
そう。このアイドルグループは、『100ラブ』に出てくるキャラクターなのだ。
「……どういうことだ? どうしてこいつらがテレビの中で歌ったり踊ったりしているんだ?」
室内に『100ラブ』の漫画がないのに対して、存在しない筈の『100ラブ』のキャラクターが、テレビの中で動いている。この二つの事実から導き出される答えは――
「もしかして……ここは『100ラブ』の世界なのか?」
どうやら俺は、名前や姿はそのままで大好きな『100ラブ』の世界に転移したらしい。
◇
ラブコメの世界に行きたいだなんて、オタクなら誰でも一度は抱く感情だ。
俺だって例外じゃない。
俺は『100ラブ』のヒロインを世界で一番愛しているし、なんなら結婚したいとまで思っている。
だけど海より大きな俺の願いは、残念なことに叶わない。俺と『100ラブ』のヒロインとでは、文字通り次元が異なっているのだから。
――今日までは、そう思っていました。
俺は汐留清介という存在のまま、『100ラブ』の世界に入ることが出来た。目下の最大の難関である次元の壁を、乗り越えることが出来たのだ。
ならばこそ、俺にはどうしてもやりたいことがある。いや、やるべきことがある。
『100ラブ』のメインヒロインであり、俺の推しキャラの諸 諸井麗ちゃん。原作では20巻以上に及ぶ大恋愛の末、主人公と結ばれるわけだが……折角こうして『100ラブ』の世界に転移したんだ。正規ルートなんて無視して、俺が麗ちゃんを幸せにしてやる。
そんでもって、俺も世界一幸せになってやる。
俺は自宅を出て、麗ちゃんの自宅へ向かって歩き出す。
初めて歩く街だが、初めて見る街並みではない。漫画の中で、俺は何度もこの風景を眺めている。
故に諸井家の場所は、きちんと頭に入っていた。
諸井家に着いた俺は、一切躊躇うことなくインターホンを押した。ピーンポーン。
「はーい! 今行きまーす」
インターホンから流れてきたのは、他ならぬ麗ちゃんの声だ。俺が聞き間違うわけがない。
1分とかからずにドアが開き、家の中から出てきたのは――『100ラブ』のメインヒロイン、諸井麗その人だった。
「……え?」
予想通り且つお目当ての麗ちゃんが出てきたというのに、俺は思わず驚きの声を上げてしまう。
確かに今俺の目の前にいるのは、まごうことなき麗ちゃんだ。しかし……俺のよく知る麗ちゃんではない。
俺の知る麗ちゃんにしては、随分と大人びていて。服装だって、制服ではなくエプロン姿だ。
そう。
家の中から出てきた諸井麗は高校生ではなく、妙齢の成人女性になっていたのだ。
「えーと……諸井麗さん……ですよね?」
「えぇ、まあ。正確には、「元」諸井麗ですけど。17年前に結婚して、今は安達麗です」
なっ、なんてことだ。
奇跡が起きて大好きなラブコメの世界に転移したというのに、俺の大好きなメインヒロインは既に結婚して、人妻になっているだと!?
しかも苗字が安達ってことは、麗ちゃんは原作通り主人公の安達悠貴と結婚したことになる。
この世界は既にハッピーエンドを迎えているということだ。
……おいおい、神様。ふざけんなよ。
完結したラブコメの世界に、人を送り込むんじゃねーよ。
そんなんで俺が喜ぶと思ってんのか? 余計惨めになるだけだっつーの。
「ところで、あなたは? 見たところ、娘と同じ学校の生徒みたいだけど?」
俺の着ている制服を指しながら、麗ちゃん……いや、麗さんは尋ねる。
どうやらこの世界では、俺は安達夫妻の娘と同じ高校に通っていることになっているようだ。
……ていうか、高校生になる娘までいるのかよ。
「もしかして、娘のことを迎えに来てくれたのかしら? あの子ったら朝に弱くてしょっちゅう寝坊するものだから、こうやってお友達がお越しに来てくれると助かるのよね」
「えーと……まぁ、そんなところです」
ハハハハハと、俺は愛想笑いを返す。
都合の良い誤解をしてくれたので、そのまま誤解させておくことにした。
「今娘を呼んでくるわね。寝起きが悪いから、10分くらいかかると思うけど……家の中で待つ?」
「いえ、ここで大丈夫です」
これは別に遠慮しているわけじゃない。
安達家に入って、悠貴と麗の幸せそうな写真を見たくないだけだった。ウェディングフォトなんて見ようものなら、間違いなく悠貴に嫉妬してしまう。
なんなら殺意すら抱きかねない。
麗さんが家の中へ戻ってから、15分。予想より5分超過してから、玄関のドアは再び開いた。
「お待たせしちゃって、ごめんなさいね」
年甲斐もなくウィンクする麗さん。だけど美人ならば、それも許される。俺は思わずドキッとなった。
「いっ、いえ。勝手に家まで押しかけた、俺も悪いんですから」
「そうだよ。いきなり家に来たそいつが悪いんだよ。えーと、同じクラスの……高橋だっけ?」
「汐留だよ」
「そうそう。四文字の苗字ってことまでは覚えていたんだけどな。惜しいぜ」
全然惜しくねぇよ。惜しいの解釈が鳥取砂丘並みに広すぎる。
男勝りな口調のこの少女が、恐らく安達悠貴と諸井麗の娘なのだろう。確かに、二人に似ている。
どちらかというと、麗さん似なのかな? 肩にかかる程度の髪を腰の辺りまで伸ばしてみると、ドッペルゲンガーかっていうくらいそっくりだ。
「こら、奏音! 親切にも迎えに来てくれたお友達に、そんな口利かないの!」
「親切って、別に頼んでないから。こっちは無理矢理起こされて、寧ろありがた迷惑だから」
成る程。この少女は、安達奏音というのか。音を奏でる……良い名前だ。
今のところイメージは奏音ではなく騒音だけど。だって、言葉遣いが悪すぎる。
麗さんの後押しもあり、俺は奏音と一緒に登校することとなった。
女の子との、初めての登校デートは……凄え睨まれていたので、正直想像していた程ワクワクもドキドキもしなかった。
◇
奏音との登校デートが始まって5分が過ぎた頃、それまで無言で睨み付けていただけの彼女がふと話しかけてきた。
「で、どうしていきなり私を迎えに来たんだ? 昨日までそんなことしなかっただろ? それどころか、お前とろくに会話した記憶がねぇ」
俺だって、そんな記憶ないさ。なにせこの世界に来て、まだ小一時間だからな。
だけどお前の母親が高三の体育祭で身に付けていた下着の色なら知ってるぞ。薄ピンクだ(『100ラブ』14巻参照)。
何で安達家を訪れたのかと問われれば、それは勿論麗ちゃんに会う為だ。
しかし実の娘に「お母さんに会いたいから家まで押しかけちゃった、テヘヘ」なんて、口が裂けても言えるわけがない。確実にドン引きされる。
「実は……安達に頼みたいことがあってだな」
「頼みたいこと? まさか文化祭のことじゃないだろうな?」
「……文化祭?」
「違うのか? 文化祭実行委員、まだお前しか決まっていなかっただろ? もう一人の実行委員に、私を誘う気だったんじゃないのかよ」
「そうそう、まさしくそれだ」
自分の置かれている状況が、段々と把握出来てきたぞ。
今は文化祭シーズンで、面倒なことに俺は文化祭実行委員を担っているみたいだ。
「どうして私なんだよ? 私よりも頭が良くてリーダーシップのある奴なんて、沢山いるだろう?」
「そうだなぁ……かつて文化祭を大成功に導いた安達悠貴と諸井麗の娘なら、最高の文化祭を作り上げてくれるんじゃないかって期待しているからかもな」
『100ラブ』の中で、悠貴と麗は文化祭実行委員を務めてお――り、二人はその時過去最高とも言える文化祭を開催させた。
二人の距離がぐっと近づく文化祭編は、『100ラブ』の中でも屈指の名エピソードとして有名である。
奏音を文化祭実行委員に誘うとは、咄嗟に思いついた言い訳としては、上出来だった。自分で自分を褒めてあげたい。
『100ラブ』を何度も読み返しているからこそ、思い浮かんだ言い訳。しかしこの時の俺は、『100ラブ』の世界について知り尽くしているが故のミスを犯してしまっていた。
そしてそのミスに、気付いていなかった。
「……どうして私の両親が昔文化祭実行をやっていたことを、お前が知ってるんだ?」
……しまった。
当時まだ生まれてもいなかった俺が、安達悠貴と諸井麗の過去を知っているなんてあり得ないのだ。
ましてやさも見てきたかのように語るわけだから、奏音は一層不信感を露わにしていた。
「えーと、それは……」
実は俺は別の世界の住人で、その世界ではお前の両親の恋愛譚が漫画になっているんだ。なんて、そんな話を一体誰が信じるというんだ?
「かっ、風の噂で!」
結局俺は、秘技ゴリ押しを使った。風の噂とは、なんとも良い響きだろうか。
「風の噂って……まぁ、理由を言いたくないなら無理には聞かないけど」
然程興味なかったのか、奏音がそれ以上追及してくることはなかった。……フゥ、助かったぜ。
「私を文化祭実行委員に誘った理由はわかったけどよ、本当に私なんかで良いのか? 文化祭なんだし、友達や好きな人を誘った方が良いんじゃないのか?」
「生憎そこまで仲の良い友達はいないんだよ。それに……失恋したばかりで、現在絶賛傷心中だ」
ずっと好きだった女の子が子持ちの人妻になっていたなんて、未だにショックが計り知れない。
「そうだったのかよ。……よし、わかった。文化祭実行委員、やってやるよ」
「本当か!?」
「ただし! 一つだけ、条件がある!」
「条件? 俺に出来ることなんだろうな?」
「まぁな。……後夜祭のフォークダンス、一緒に踊ってくれないか?」
「こんなこと頼める男友達なんていないし、だけどフォークダンスは踊りたい」
「そんなことで良いのか? 何時間でも踊ってやるよ」
「いや、それは私が疲れるわ」
会話を交わしながら、俺は思う。
なんだよ、俺今めっちゃラブコメしてんじゃん。
そうか。そういうことだったのか。
俺はようやく、ラブコメの神様がどうして俺をこの世界に連れて来たのか理解した。
ここは、『100ラブ』という物語が完結した後の世界。でもそれは、決して終わりではなく、寧ろ始まりと呼ぶことが出来て。
俺・汐留清介を主人公としたラブコメが、ここから始まるのだ。