番外編⑤:懸念の解消
イルンスールは出来れば人間達の前に姿を現したくなかったが、ラターニャからどうしてもと頼まれて仕方なく遠征隊の結成式、壮行会に出席した。
ラターニャやマクシミリアンが言うには世界中の精鋭たちが地獄に遠征している間、地上での争いを避ける為に各勢力に釘を差さねばならない。旧帝国の駐屯軍は各地で未だ軍事力を残している。
今から1500年前、神聖期、第二帝国が崩壊した時に一時的に世界各地の帝国軍は本国政府の統制から外れた。彼らは政府が崩壊しても各国の独立運動を跳ね返し、逆に各地に軍閥が発生して各国を抑圧していた。
万単位の職業軍人の軍団に抵抗できる国などほとんど無いのである。
イルンスールがシェンスクに到着したのを知ると軍団の特使たちは面会を求めて来た。
エドヴァルド達が護衛として追い返し、用件は書面にして出すよう伝えた。
それでやってきた書面に目を通したのだが、中央大陸に帝国領を回復させてくれるよう獣人の長に依頼して欲しいとのこと。
レナートも彼女の傍にいて守るよう頼まれていたので居合わせたのだが、書類を一枚捲る度に、イルンスールを包む青い半透明の膜が徐々に蔓の様な形に変化し、棘も生やし始めうなりをあげて動き始めるのを見た。それに触れるとピリっとした痛みが走る。
「なにこれ」
「ちょっとイルンスール」
「あ、ごめん。ラターニャ。でもね、こういうのは困るよ」
イルンスールは話しながら興味津々に覗き込んでいたレナートに書類を渡した。
各地の残存軍団と帝国都市の住民はいかに苦しい生活を送り、虐げられているか天爵様に理解して頂き、是非味方になって欲しい。この遠征が成功し世界が元に戻ったら中央大陸に帝国を再建したいとか書かれている。
皇帝不在時の代理であるダルムント方伯家の血族と結婚し、選帝権を持つエイラシルヴァ天爵、並びに選帝権を持つ宮廷魔術師であるツェレス伯の相続権を持ち、東方候の娘であるイルンスールなら帝国を再興するのは容易である。
まだ何百万かの人口が生き残っているフォーンコルヌ皇国のアルヴェラグスとダフニアの子を中心に帝国は再建可能であった。
むろんそんなことをするつもりは無い。
「大変だねえ。昔からこんな風に持ち込まれてばかりだったの?」
「そ。イラっとするの抑えられないから表情隠す為に常に扇が手放せなくて困ったよ」
「といってもいつもこんな棘に囲まれてるからバレバレだったけどね、『茨姫』」
取り繕っているつもりのイルンスールをラターニャが笑う。
「茨姫?」
「不機嫌な時はいつもこうやってイバラに身を包んでいたのよ。公式行事には滅多に顔を出さないし、森に住んでいるあの謎の資産家は誰だって噂されてそんなあだ名が付いちゃったのね」
初対面の時は雰囲気の柔らかい子だな、と思ったがシェンスクで服装を改めて不機嫌そうにしていると確かに茨姫といった風がある。
「マヤはなんだって?交渉するならあっちでしょ」
「馬鹿馬鹿しいって相手にしなかったけど、マクシミリアン様は乗り気でね」
「追い出せるから?」
「そう」
「辺境伯は?」
「多少は受け入れるけど、とても食糧を供給できないって」
気温の低下はまだまだ止まらない。どこも今いる人間が生きていくので精一杯だった。
「大都市ばかりの帝国都市じゃ厳しいだろうね・・・」
「貴女が気にしなくていいわ。マヤはずっと前から都市人口を一万人以下にしろと言い続けてきたのだし」
レナートも聞いた記憶がある。
「無視したらみんなが出払ってる間、何かするかな?」
「隙があればやるでしょうね。飢えた人間が約束なんて守るとは思えない」
「土地は有り余ってるんだし、勝手に入植すればいいと思うよ」
「現地の人はそれでもいいの?」
「このフォーン地方に大都市の人が来てもどうせ野垂れ死ぬと思うよ」
10年前ならともかく今は以前より山岳地帯を踏破するのはさらに困難になり辿り着く事すら出来ないだろう。
「沿岸地域に今来ても亡者になっちゃうだけだからしょうがないけど、なんとか作物が取れる地域を探し出して都市を再建するのは早い者勝ちになるんじゃないかな」
零下40度でも生存可能な野牛たちは雪の底に隠れている枯草を食べて冬を凌いでいる。
何千年も必死になって品種改良の努力を続けたおかげで帝国内ではいくらか作物は取れたが、外部から人がやってくるとわずかな食糧を巡って争いになるだろう。
彼らは帝国本土がいかに苦しい状況か知らずに望郷の念を抱いている。
「しょうがない、マヤと話しますか」
無視したいのはやまやまだったが、自分達が不在の間に争いが起きると残して来た人が心配なので仕方なく労を折る事にした。
◇◆◇
「なんじゃ」
呼び出されたマヤはむすっとしている。
「死なせ過ぎ」
この段階になると中央大陸の人間は9割方が死亡している。
帝国が滅亡しても大半の人間が生き残っていたフォーンコルヌ皇国領でも残ったのはフォーン地方だけで他はほぼ全滅した。
「連中が勝手に身内で殺し合ったんじゃ。儂の知った事ではない」
「殺し過ぎとはいってないでしょ。五億人くらいいた帝国人がほとんど死んじゃったら地獄も溢れて世界がおかしくなるのも当然でしょ」
「儂は悪くない。人間どもが禁呪に手を出して勝手に自滅したんじゃ」
「死霊魔術研究してたシャフナザロフさん匿ってたの獣の民じゃん」
「儂は知らん。ヘルミアとヤクがやっとったんじゃ」
帝国内でずっと雌伏していたマヤは実際知らない話だった。
「はいはい、別に責めないから土地くらい融通してあげたら?有り余ってるんでしょ?」
「暮らしやすい土地は儂らのもんじゃ。この件が片付いたら一番いい土地を得る権利がある」
二人が過熱しない家にラターニャが間に入った。
「約束するだけならタダなんだから約束して安心させてやればいい。遠征に何年かかるかわからないけれど、移住を希望する人間が何人いるのか、移動中の食糧計画はあるのか、移住先の調査が出来るのはそもそも遠征が成功してからで何年も掛かる訳でしょう?」
何十年もかかる気長な計画だ。今は天爵のお墨付きを得て安心したいのだからそうしてやればいい。
「マヤはなまじ賢いから将来帝国人が力をつけてまとまりのない獣人が逆襲を受けるのが怖くなるのよ」
「・・・・・・」
獣の民が同盟相手である東方人と違い、獣人を激しく嫌う人々を見て来た帝国人側のレナートとしてはマヤの不安も理解できた。
「弱肉強食、適者生存が貴方達の掟でしょ。将来負けるなら、その時の獣人が弱かっただけじゃない」
「遠い未来を気にし過ぎて近い未来が閉ざされたら、本末転倒じゃないかな」
「こちらには冬の女神もいるのだし、もし気候が回復して向こうが約束を破ったら神罰与えて貰えばいいわ。いいわよね、レン?」
「そうですね。それくらいいいですよ」
三人がかりで説得されて仕方なくマヤが折れた。
「儂は納得してもドルガスやヘルミアが承諾するとは限らんぞ。何を言おうが勝手に襲う連中は出てくる」
「細かい事はどうせ先の話よ。今は安心させてやればいい」
「じゃ、この人に向こうの代表者になって誓って貰おう」
書面を見ていたレナートが前に北方圏に行った時の帝国軍司令官の名を見つけた。
前にさんざん脅した事もあり、約定を違えれば神罰を与えると誓わせる事で土地を与える保証を出した。
誓いの場にはイルンスール以外の森の女神達や神獣、そしてマクシミリアンも立ち合った。
「法と契約の神アウラとエミスに誓約を捧げる。そして氷神グラキエースの名においてこの条約を違えた者をその土地と共に冬の中に閉ざし、その魂を我が物とする」
裏切ればこれまで存続を許して来た残存部隊と住民も同様に神罰の対象となり全東方人、北方人の敵となる。




