第2話 美しくも残酷な氷の世界
本来であれば夏だったが、ヴェーナを囲む高い山々には既に雪が降り積もっている。
誰も踏み込んだ事の無い新雪を亡者達は踏み荒らし、その体から醜い体液が零れ落ちて純白の世界を汚してしまっていた。
ファスティオンのように生前の肉体をほとんど回復した亡者は体内の蟲達が老廃物を食らっては変換し栄養として寄生している宿主に補充する為、食事を必要としない。
ここまで再生する前の亡者達は時折、外部からの栄養摂取を必要とするので引率者がいても行軍速度にはばらつきがあった。
知性ある亡者が率いている集団は隊列を作り、かつての山道を通ったが、雪で道が見えなくなっていき、倒木で道が塞がれて迷いバラバラになり始めた。岩や崖だらけの地帯に踏み込んでしまった者は柔らかく、脆くなった足腰ではすぐに動けなくなり逆に獣や虫に食われた。
雪庇で谷に気付かず踏み込んで転落し、雪崩でまとまった集団が流されて、尾根で滑り落ちて骨まで摺り降ろされ、何十万もの集団はあっという間に数を減らした。
十分な装備を持った専門家でさえこれほど峻険な山々、しかも雪山の踏破は困難であり、ろくな訓練もしていない軍隊、さらに知性も欠けた亡者となると論外である。
身動きがとれなくなると防寒具を用意してこなかった亡者は凍結してしまった。ファスティオンが命じても脳まで復元されていない亡者達にはその命令が理解出来なかった。
歩めば歩むほど寒さは厳しくなり、凍結してもなおファスティオンについていこうとした亡者は膝が砕け散り、そのまま地を這ってさらに従おうとしたがじきに雪の中に埋もれて誰からも忘れ去られた。醜く、悪臭を撒き散らかしていた亡者ももはや悪趣味な彫像に過ぎなかった。
腹を空かせた亡者達に追われていた野牛は尾根からその姿を眺め、我が子を食われ怒りに燃えた雄牛が突進してその巨大な角で氷の彫像を砕いた。汚れた亡者達の痕跡は再び純白の世界に覆い隠されていった。
◇◆◇
山々を吹き抜ける風はあたかも亡者達の怨嗟の如き気味の悪い音を奏でていた。
どこもかしこも土の色も見えなくなるほど雪が降り積もり、木々の緑も白く覆われ、強烈な風が地吹雪を引き起こし、もはや天と地の区別もつかなくなった。
ファスティオンは方向感覚を失ったが、朝も昼も夜も女神に導かれるまま歩き続けた。
極低温化で体内の蟲達も次第に動きを止めるとファスティオンの自我が強くなり、自分は何故こんなことをしているのだろうと疑いを持つようになった。
吹雪を避ける為に入った洞窟の氷に反射する自分の姿を確認するといつの間にか見た目は普通の人間と大差なくなっている。従う亡者達を捨てれば生者の中に紛れて暮らせるかもしれない。
彼は歩みを速め、ついてこれる亡者はさらに少なくなった。
何ヶ月も登攀を続け、ついに山々の頂きから高原地帯が覗くようになった。
真っ白な世界に突如緑が現れたのだ。
亡者達は歓喜の声をあげ山を転げ落ちるように降り、そのまま凍った岩肌ですり潰されてしまうものもいた。
ファスティオンは僅かな重臣、亡者の騎士達と共に道を見つけて慎重に降り始めた。
(だめだめ、通さないよ」
突如、視界は再び白く閉ざされた。
木々の間に霧が立ち込め、亡者が吐く息も即座に凍り付いた。
雪の結晶がちらつき、透明の針のような樹氷が形成され、草木の間を通る彼らの体を切り裂き、突き刺していく。長く忘れていた地獄の痛みを思い出させた。
苦しむ彼らに握りこぶしほどもある雹の塊がいくつも降り注いで、凍結した体を破壊し、氷の中に閉じ込めた。
騎士に庇われて難を逃れたファスティオンは伝家の宝刀を引き抜いて、空中で睥睨する声の主に飛び掛かった。
だが、あり得ない事に彼は空中で動きを停止してしまった。
あと一歩でその白い首筋を切り裂くことが出来たのにとファスティオンは歯噛みし、魔力を全力で振り絞るもその根源たる魂が動いてくれなかった。
(ここは私の世界。心配しなくていい。もう苦しまなくていい。考えなくていい。休んでいいんだよ)
「だが、私は家族を解放してやらないと」
(大丈夫、任せておいて。君はもうおやすみ)
あらゆるものが凍りつく世界でわずかに動いていた魂も優しい声に宥められ、動きを止めた。
彼らはもう何者にも怯える事は無い。
誰かの為に働く必要も、明日の糧を心配する事もなかった。
全身を針で突き刺されるような寒さに耐える必要も無くなった。
ファスティオンも赤子をあやすかのような声に闘争心を削がれ、安らぎに身を委ねた。




