第13話 聖地ラド・ラグ・ハレフ
スヴェン族の聖地、神獣スィールの住むラド・ラグ・ハレフ湖に七万の人々が集まった。
十万人の観客がいたリーク・ウートゥ大競技場には及ばないが、もっと多くの人を集めるには時間が足りなかった。儀式の準備をする間にレナートはエーバーハルトからさまざまな事を教わった。
「今日は男の子なんじゃな」
「はい、そんな気分の日みたいです」
「女の子の日もあるのか?」
「五歳の時からほとんどは女の子の日でした」
「なんでまたそんなことに?」
本来ここまで突っ込んだ事情は他人に話すようなものではないのだが、エーバーハルトには随分世話になったので答える事にした。
「ボクには四人の兄妹がいましたが、ボク以外は皆死んでしまいました。双子として生まれたらしい妹は生まれてすぐ死んでしまってお母さんは精神的に疲れてしまったみたいでした。お母さんはずっと死んでしまった妹を抱いてあやし続けて、ボクには見向きもしませんでした。ひょっとしたら死んでしまった妹とボクの魂がくっついてしまったのかも」
カイラス山で発見されたダナランシュヴァラの神殿で祈っても他に同じ結果になった人はいない。
レナートだけが何故特別なのか、ペレスヴェータのせいなのか、生まれのせいなのか、レナートには分からない。ただ事情だけを伝えた。
「お主はどうありたいんじゃ?」
「昔はお母さんに愛される女の子になりたかったけど、お母さんの精神状態が回復してからはそうでもないかな・・・。今は別にどっちでもいい」
「投げやりじゃのう」
「んー、どうかな。男の子の人生も女の子の人生も楽しめるじゃないですか?お得だと思うな。だってボク凄く可愛いし?好きな男の子も好きな女の子もいるし?」
「くっくっく。そうじゃな。人生楽しんだもの勝ちじゃ。神ならば同性愛も許されよう、神話ではしばしばあるしの」
エーバーハルトのおかげでレナートは大分気が楽になった。
「神話でよくある話なら人がやってもいいのかな?」
「それは自分で決める事じゃが近親婚だけは駄目じゃな。ここの人間もそれだけは避けようとする」
「どうしてですか?」
「水神に纏わる昔語りではロトの一族の娘達が親や兄達に眠り薬を盛って子種を奪ったという話じゃが、子供達は成長して己の父の国を攻め滅ぼした。そして神の怒りに触れて全員地獄送りになったという」
帝国の学者達では北方人はそういった神話から広い土地に点在して極端な社会を形成することになったという解釈をした。古代帝国人の移住が受け入れられたのは新しい子種をよその土地から引き入れる必要があったのだという学説は支配の正当化だと北方人からは嫌われている。
「お爺ちゃんもそう思う?」
「皆には悪いが、ありうる話だと思う。シャフナザロフという魔術師の実験では近親相姦を繰り返せばわずか数世代で先天的な異常が現れ将来的に絶滅に至ると証明された。動物学者達も人間によって棲み処を奪われ生息圏が狭まった種は近親婚によって絶滅すると支持している。交通網が発達していなかった古代の北方人も同じ運命を辿っていた可能性が高い」
「なるほど。それにしてもとんでもない実験をした人がいるんですねえ」
「帝国でも禁句扱いになっておった魔術師じゃ。その過程で医学、解剖学が発展して多くの命が救われたという側面もあるがのう」
「へーそういう見方もあるんですねえ」
「うむ。ここの人々の風習は帝国人には奇妙に映るがそうなるに至った理由もある。一夫一妻制の帝国文化は正しいようにみえるが幼児死亡率が低い、外部の脅威が少ない、食糧供給も安定した社会、などの条件あってのことじゃ」
「ボクの好きな人達はその条件が崩れちゃっても一夫一妻制がいいみたいです」
「仕方あるまい。ロトの娘達も一族存続の危機に迫られたからこそ男達を昏睡させて襲ったわけじゃし、切羽詰まれば選択の時が来る。種なし男や石女もおる。愛した異性との間に必ずしも子が出来るわけではない。その点東方圏では代理母の文化もあるな」
愛し合っているが、子供が出来ない夫婦の為に一時的に肉体関係を結んで家系存続の為に子を産む仕事があるとエーバーハルトは伝えた。
「せ、世界は広いや・・・」
結婚などしないし、相手の男の意思など気にしない北方圏の女に近い感覚を持つレナートでもちょっとそれは歪んでるように思えた。
「南方圏には夫が死んだら妻も後を追って死なねばならぬという文化もあるぞ」
「ひ、酷すぎる」
「うむ、さすがにその文化は国際化のあおりをうけて廃れていき、未亡人は王の資産、自動的に王の妻となるという事になっていってるらしい」
古い文化を守ろうとする者など誰にも非難されない為の形式的な処置で実際に王に嫁ぐわけではない。場合によっては再婚相手を手配して貰えるし、夫の遺産が少なかった場合年金も貰える。
「それなら良かった」
「世界はお互いに影響しあって良い方向に変わっていく。じゃが、帝国は長い間、変わらぬ幸せな時を過ごした。そしてちいとばかし歪んでしまったようじゃ」
「っていうと?」
「・・・本来君のような若い子にする話ではないが、もうすぐお別れしてしまうことになるし今の人間社会が崩壊していく事になった原因でもあるから話すとしよう。一夫一妻制で離婚も出来ん帝国貴族社会では公妾を持つことが多くなった」
「公妾?」
「公認された愛人みたいなもんじゃな。政略結婚を強いられる代わりに後継ぎさえ出来てしまえばちょっとくらい羽目を外した浮気をしても構わんというのが常識になってきた。愛人契約が公認され、不倫が横行する。それが不満のはけ口で愛の為に行われているのならまだマシじゃったが、金銭が絡む以上対等は関係でなくなっていき、斡旋が組織的に行われるようになると話が変わってくる」
愛人が未婚ならともかく結婚している男女同士となると話がややこしくなる。貴族の社交の場で斡旋業者が望みの男女を紹介し、紹介料を取る。商業化し、大っぴらになると諸外国に目を顰められ官憲も取り締まるようになって組織活動が地下化していく。
「貴族の人身売買組織は平民の富裕層にまで及び、しまいには外国の王族すら巻き込んだ。スヴェトラーナ殿の友人だった東方諸国の姫にまで。背徳感目当てや金銭欲で自ら参加している者ならともかく、そうではない者が増え問題が起きた。そこで西方圏から入り込んだ薬物は被害者の意思を薄弱にし、抵抗を失くし、従順にさせた。スヴェトラーナ殿の帝国に対する怒りも分かるじゃろう?」
「話はちょっと聞いてましたけど、身近な人にまで被害が及んでいるのを聞くと確かに酷いですね・・・」
「五千年の支配の歴史は帝国貴族を傲慢にさせて歪みを生じた。もっと早く帝国が内側から改革をしていればよかったのじゃがの」
レナートから本国の壊滅的な状況を知らされたエーバーハルトも苦渋の表情をしている。
「しかし、スヴェトラーナ殿は公平な方じゃ。儂のような者も受け入れてくれるし帝国北方軍残党、自由都市の扱いについても柔軟に考えてくれておる。ネヴァやゴーラの将来は明るい」
大族長がそうであれば北の民も時代の変化に合わせて少しは変わっていくだろう。
帝国人ももう少し変わればいい、とレナートも思った。
◇◆◇
極北地域でありながら有史以来一度も凍った事がないラド・ラグ・ハレフ湖がまだ秋だというのに凍結した。勿論凍らせたのは氷神グラキエースである。
この奇跡、神事に集まった群衆は沸いた。
グラキエースの降臨と共に瞬く間に聖域が広がり、7万人が取り込まれた。
巫女たちが女神の体を飾り付け、調印式の準備が行われた。
女神の御前で一度拝礼してから、帝国北方軍残存部隊の司令官とスヴェン族族長スヴェトラーナは文書を交換し握手を交わした。
”わたくしは人の争いに関与しませんが、この文書で取り交わされた誓約を遂行することを両者に望みます”
ネヴァはゴーラの民に居住権を与え、慣習を段階的に見直す。
アル・アシオン辺境伯領に向かう帝国軍に対しスヴェン族は軍事通行権を与える。
自由都市が保有する軍事力は北方の大君主の認める範囲内とする。
自由都市間の白の街道の通行税を北方民に支払う。
その他細かい犯罪取り締まりの法律の確認や関税についての取り決めがあったがレナートにはあまり興味のない事だった。ひとまず戦争は回避されたことで十分だ。
調印式が終わってから帝国兵やゴーラの戦士達は和平を仲介してくれた女神の慈悲に感謝してその名を讃え始めた。
聖地として不思議な力に守られていたラド・ラグ・ハレフ湖を凍結させたという事は氷神の力はここを守護する湖の女神の力を上回っているという事だ。そしてこの大規模な空間を凍らせたという事は、転移遺跡の戦いで歯向かった帝国兵、ゴーラ兵を全て凍らせてしまうことも可能だった。
巫女達が人々の氷神に対するマナ奉納の仲介を行い、十分に高まると儀式を始めた。
(どうでしょう?)
スヴェトラーナが傍で囁く。
(うん、なんか行けそうな気がする)
指輪の力を使わずとも精霊の姿がくっきりと見えるし、精霊達がグラキエースを持ち上げて一緒に踊りたがっている。
(伝説では白鳥には異界を渡る力があるといいます。空に舞うスィールと共に飛べばきっと連れて行ってくれるでしょう)
(有難う、お世話になりました)
(はい。もし天界まで行かれることがありましたらイルンスールという子に私は元気でやっているとお伝えください)
(天界には用はないけどもし辿り着いちゃったら伝えておきます)
ラド・ラグ・ハレフ湖に集まった人々はこの後、空へと昇っていくグラキエースを見た。
氷神の伝説は五千年振りに復活し、人々を見捨てたわけではなく今も争いに心を痛めている慈悲深き女神だという言い伝えが残った。




