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終了点  作者: 岩と氷
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2.東京オリンピックと髭男

 雪囲いを外して備え付けのブラシで靴の雪を払い落す。薄いゴザが敷かれた板の間に座り込んで、スマートフォンの電源を入れてみたが、しばらく待っても電波が入らないのでそのまま電源を切った。見通しが良い山頂でもこれなのだ、文明との隔絶という意味なら日本アルプスの街から近い三千メートル峰なんかよりも、ここのほうがずっと上位に位置するだろう。


 行動食のナッツをたいらげテルモスの白湯で一服すると、小さなカメラバッグと三脚だけを持って小屋を出た。樹林を出るまでは深かった雪も、雪原に出ると強い風に飛ばされるから、深さはくるぶしにも満たなかった。十分ほどで頂上標識に着いた、周囲の景色を眺めて良さそうな背景を選び、スマートフォンで二、三枚自撮りをする。


 勘違いされがちだが、登山家と呼ばれる者たちも、皆が毎回頂上を目指すわけではない。クライミングのルートなら初登パーティが設定した終了点まで登れば頂上にはいかずに降りてしまう事もある。もちろんそれで登頂した事にはならないが、クライミングルートの登攀には成功した事になる。


 若い頃の俺は、そうした終了点にはこだわっても頂上にはあまり執着しなかった。二本の脚だけで歩ける何の難しさもない道を、ちんたら歩いて頂上まで行くなんて時間の無駄と本気で思っていたから、クライミングが終わればたとえ頂上が十メートル先に見えていても面倒と思えば寄らなかった。困難でなければ意味がないと考えるクライマー気質のせいか、もともとそういう性格だったのかはわからない。

 だが歳を取って「ここに来るのはもしかしたら、これが最後かもしれない」と考えるになってからは、頂上の近くまで行ったら一応踏むだけは踏んでおくようになった。最近ではこうして自撮りをするまでに堕落している。


 雪原を回りながら風景を撮る。夕方が近くなると、向かいに見える越後の山々に傘のような雲がかかりはじめた、今日は紅い夕陽は期待できそうにないなと思い、撮影を切り上げて小屋に戻ると、案の定山頂はすぐに吹雪始めた。乾燥食のセットで早めの夕食をとり、コーヒーを飲みながらヘッデンを一番弱くした灯りで文庫本を読む。二十ページほど読んだあたりで眠気に襲われる。


 ゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、


 一発で目が覚めた、えらくデカい音だ。誰かが……外の階段を登っている。こんな時期に? この時間に? 二度ほど乱暴に戸をたたく音がして、返事をする間もなく戸が開いた。


「ああ、誰もいないと思った」


 吹雪と一緒に入ってきた小男はそう言った。ノックをしといて何言ってやがる、雪囲いが外されているんだから、山ヤなら先客がいるとわかるだろう。俺がしぶしぶ首だけで挨拶を返しても男はまったく気にならないらしい、板の間に乱暴に腰を下ろして、厚そうな革で出来た岩の塊のような登山靴をせわしなく脱いだ。


「まさか先客がいるとはなぁ」


 男はもう一度そう言った。長くて汚らしい髭の間から黄色い歯が見えた、LEDの青い光で黄色いのだから、昼間見たらよほど黄色いに違いない。日に焼けた顔から人懐っこそうな小さくて丸い目が覗いている、目の間には左右に大きく開いた赤い獅子鼻が、まるで子供がボンドで貼り付けたように《《いびつ》》にくっついていた。歯が見えたのは笑いかけたからだったらしい、だが俺がそれを理解するにはずいぶん時間がかかった。


 勧める間もなく目の前に座った男は、今時どこでも見ない茶色い帆布製のザックから水筒を取り出した。男は豪快にのどを鳴らしながら中身を飲んだが、吐いた息はこちらがむせかえるほど酒臭かった。中身は酒か、その点では俺と同類だ。

 セーターの肩にまだ雪の結晶が乗っている。オーバージャケットも着ないで吹雪の中を歩いたら凍死したっておかしくないのに。太い毛糸で編まれたセーターは俺が着ている化繊のフリースよりも何倍も重そうで、ザックと擦れたのか、一目でわかるほど大きな毛玉が肩にいくつも付いていた。


「どうだ?」


 男が水筒を差し出した。そんな黄色い歯の奴のなんか飲めるか――。俺は自分のがあるから申し訳ないと丁重に断って自分のスキットルを出した。大事に飲むつもりだったがこの際仕方がない、この手の男は飲まないと言うほどしつこく勧めてくるだろう。俺は男の前でわざとらしく酒を煽って見せた、アルコール度数だけで選んだウォッカは胃にしみる。

 これじゃあ堪らない、二杯目からは雪をコンロで溶かしてお湯割りにして飲んだ。男はその間もひっ切りなしに水筒を咥えていた。こんな奴の相手は自分も飲んでいなければやっていられない、俺が三杯目のお湯割りを作っていると男が言った。


「なあにいちゃん、この辺で砂金が採れるって聞いた事ないか?」

「え? きんですか? 知らないなあ、聞いた事もないっすね」俺がそう答えると、

「そうかい、まあそうだろうな、誰でも知ってたらもっと騒ぎになってるもんな」と男は言った。


 砂金探しか……でもそんな事を雪の降るこの時期にやるか普通? そう思ったが言うのはやめておいた、この男とはなるべく関わり合いにならないほうがいい。


 かまってやらないせいか、男はつまらなそうにスルメらしき物を齧っている。大きくて長い犬歯は毛だらけの顔と相まって雄の日本猿を思わせた。頑丈に作られた小屋の中は外が吹雪いていても案外静かだ、時折強くなる風切り音と、窓の雪囲いがカタカタと震える音は、一人の時は良いBGMにだったが、今はそこに、くちゃくちゃと言うか、むぐむぐと言うか、目の前の汚らしい男の咀嚼音が加わっている。男の黒くて太い薬指には銀色の指輪がはまっていて、ヘッデンの明かりに照らされると、たまに安っぽい光を放った。


「兄ちゃん、どっから来たんだ?」

「東京ですが」


 五十過ぎの俺がこの男にはどうしても「兄ちゃん」に見えるらしい。目が悪いのか、それとも頭の方か。髭面に隠れてよくわからないが、たぶんこいつと俺の歳はそれほど変わらないと思う、いや下手をするとこいつのほうが少し年下かもしれない。


「そうか東京か、俺もだ。長い事あちこちの飯場にいたんだけどな、浜松町の現場で飯場の女とデキちまってよ、ちょっと年増だが、愛嬌があって飯場の花っていうのかな、とにかく人気者で可愛いんだこれが。それがもうちょっと金が貯まったら一緒になろうって話になってよ」


 その指輪か――。


「おめでとうございます」

「ああ、あんがとよ。んで今度オリンピックが来るってんだろ? そんならいっちょやってみるかって気になってな」

「やる?」

「金だよ金。一攫千金だ。金さえみつかりゃ、あいつもあんな飯場であくせく働くこたあねえ。綺麗な服着せて世間並の式もあげて、贅沢もさせられるってもんよ。なあ、何ならあんたも乗らねえか? この際山分けでいいよ。この辺にあるって聞いて来たんだがなんせ広くてよ、探したんだがどこにあるかどうしてもわかんねえんだよ。一人じゃこわくてかなわねえ」


 この「こわくて」は「疲れる」の意味だろう、遠慮のない態度から関西出身かと思ったがこっち側の出身なのか。


「はぁ……、でもこれから仕事が増えるって時に、なんでわざわざ山の中で金を探そうなんて」


 俺としては当然の疑問のつもりだったが、男はよほどの馬鹿を見るような顔をして、こんな風に答えた。


「あほかお前、これからどえらい工事がいっぱい入るんだぜ? もし、まあ”もしも”だがな、金が採れなくても絶対に食いっぱぐれねぇんだぞ、帰ればいくらでも仕事があんだがんな。だったら今勝負に出ないで何とするぅ!ってやつだ」

「あ……はあ、そう、そうですね。でもまあ、俺はそういう地道なのには向かないんで、遠慮しときます」


 当の本人が一攫千金と言っているぐらいだ、地道さなど、どこにもないのだが、とにかく俺はこれ以上この男と関わりたくなかった。


「そうか、仕方ねえな。みんなそうそう暇じゃねえもんな。まあこう見えて俺もよ、アルプスにも登ってっからな、本当はこんな山ぐらい軽いもんよ。まあ今は飯焚きのおばちゃんからビジネスガールまで、休みっちゃみんな山だから、山登れるぐらいは、あたりめーだけどな、へっへ」

「いま山って、そんなにブームでしたっけ?」

「何言ってんだよ。ほれ、あのマアナス? マル……ス、マル……、うん、マルナスだよ、マルナス。なんかそんなの登っただろあれ。あれなんつったっけかな、あいつら。あれだよ、あれあれ。あれっきり世間じゃ休みってったら、映画か山だろうよ」

「そう……でした……かね?」


 おそらく八千メートル峰のマナスルの事だろう。たしかにこのあいだテレビの番組で女芸人が登ったが、それから山がそんなにブームになったとは思えない。俺は酔ったフリをして、明日早いからと嘘を言ってシュラフに潜り込んだ。

 だが俺は自分で思っていたより酔っていたようだ、いつの間にか本当に寝てしまった。最後の記憶では、あの男は俺の後ろでたぶんまた水筒を咥えて、美味そうにのどを鳴らしていた。


 翌朝起きるとあの男は小屋にいなかった、思った通りだった。

 俺が奴の正体に薄々気づいたのは、奴が小屋に入ってきた時だった。木の階段を上るゴンッ、ゴンッ、ゴンッ、という硬い足音、壁を伝わって小屋全体から聞こえるほど大きな音だった。そして男がコンクリートのタタキに踏み込んだ時、俺はこの左右二つの耳ではっきりと聞いたのだ。


 ガリッ、ガリッ……


 硬い金属がコンクリートを踏みしめる音を――。


 俺がまだ若手だった頃、何度目かの冬合宿に参加した時の事だった。ベースキャンプの大きなテントの中で、先輩たちの危機一髪のはずなのに腹がよじれるほどおかしな失敗談を肴にして大いに盛り上がっていた時、その頃すでに合宿にしか顔を出さなくなっていた会長が、俺たち若手に向かってこう言った。


「おーれが若い頃のザン靴はよぅ、底が鉄の鋲だったんだぞぅ。ゴムじゃねえんだぞ、鉄だぞ鉄! それが滑り止めだってのに岩場歩くと硬すぎて「ガリガリッ!」て滑るんだよぅ。冬なんか足の裏がやたらと冷てえしよぉ、考えてみりゃあ、あれで足切った奴も結構いたんじゃねえかなぁ。おぉまけにお前らのそんなのより倍は重かったんだかんなぁ」


 そのとき俺たちが履いていたのは、スキー靴をひも締めにしたような、当時最新のプラスチック製登山靴だった。会長が履いていた靴は有名登山家の名前を冠したセミオーダーの革靴で、もちろんゴム底だったが、俺たちのものよりはだいぶ重かった。


 日本にゴム底の登山靴が輸入されるようになったのは、1950年代の中頃だそうだ。それ以後、底に鉄の鋲を打った靴は当然のように廃れたが、登山靴は贅沢品で、おいそれと買い換えられるものではなかったし、山のベテランたちが履いていた鋲靴に憧れていた者たちもいて、その後もしばらくは山で鋲靴を見かける事があったという。俺が初めてその実物を目にしたのは、合宿からしばらくして、北アルプスを登ったついでに寄った山岳博物館だった。


 今は当然そんなものはどこにも売られていない、当時の物が今も履ける状態で残っているなんてことも、そうそうあるとは思えない。だいたい今俺が履いている新素材の布で出来た冬季登山靴からすれば、重さが三倍はあるあんな靴を、もし今残っていたところで誰がわざわざ履くだろう。


 世界に十四座ある八千メートル峰の一つ、マナスルの初登頂に日本隊が成功したのは1956年。そこから日本中で登山ブームが起こり、登山はしばらくの間、映画と並ぶ国民的娯楽と言われていた。前回の東京オリンピック開催が決まったのも、たしか1950年代の終わり頃だったはずだ。


「愛嬌があって飯場の花っていうのかな、とにかく人気者で可愛いんだこれが。それがもうちょっと金が貯まったら一緒になろうって話になってよ」


 相手の動機は案外そのあたりだったのかもしれない。


「東北の山奥に砂金の出る場所がある」


 嫉妬にかられた飯場の誰かが軽い気持ちで言った出まかせ。あわよくば空振りでべそをかかせてやろうとでも思ったのかもしれない。だがあの男は本気にした、まさかそれがこんな結果になるなんて言った奴だって思わなかっただろう。


 ここに金は無い。この辺りに金があると言う噂も、多少なりともそれが見つかったと言う話も、俺の知る限りただの一度も聞いた事がない。愛する女に楽をさせたい、その気持ちは分かる。だがもう諦めろ、たったそれだけで、きっとあんたは愛する女の待つところに行ける――。


 喉まで出かかった、でも言えなかった。神でもない俺にこんな事を言う権利があるとは、どうしても思えなかったのだ。


「なあ、本当はあんた、とっくに死んでるんだよ」

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