(6)近所迷惑バトル
二人と別れて歩き出したが、足がまるで自分の物ではないように重かった。
本当は綾に泊まりに来てほしかった。あの元気な声が家を満たしてくれたら、彼女の為に晩御飯を作ったら、どんなに愉しかっただろう。
いつだって、どうしようもなくなってから後悔してしまう。
自分で手を放そうと思っているのに、それがいいはずなのに、こんなにもまだ未練がましい。
「何やってんだ!」
唐突に背後から聞こえた声にはっとする。と同時に腕を引っ張られた。見れば目の前には電信柱。まっすぐ歩いているつもりで、いつのまにか横にそれていたらしい。
早くなる心臓を抑えつつ振り返ると、自分の腕を掴んだ幼馴染が肩で息をしていた。
「……なん、で」
「なんでって、家に帰るんだよ」
考えてみればここから彼の家は、目と鼻の先だ。当然梅桃の家も。
そう思う前で、苦しそうな呼吸をしていたはずの功樹の目がビデオの早回しのように吊り上がっていった。
「お前なぁ! ちゃんと前見て歩け! ぶつかったらどうすんだ!」
「ぶつからない……もの」
「現にぶつかりそうになってただろうが!」
もうギアをフルスロットルに入れてしまったらしく、耳が痛いほどの大声だ。
けれど煩いのはそのせいではない。
その声が必死であればあるほど心配されていることが分かるから、それがこんなにも耳障りなのだ。
「うる、さい……」
梅桃は俯いていた口から、呪詛のように呟いた。
「は、何、聞こえな――」
「煩いのよ! いきなり現れてぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ! 大体ね、こっちがどうなろうとあんたに関係ないじゃない! ちょっと顔ぶつけたぐらいで、死ぬわけじゃなし! あんたは過保護すぎるの! もう放っておいて!」
胸の中のどうしようもないやり場のない怒りを、唯一ぶつけられる相手に向かって思い切りぶちまけた。
「っっ」
言い淀む顔を見て、ほんの少しの満足感と、それをなきものにするほどの胸の痛みがあった。
でもそれは、無視しなければならないものだ。
「じゃあね」
踵を返して歩き出す。その背中に、声が届いた。
「放っとけるか……」
地を這うような声だった。
「な」
動きを止めて後ろを振り返ると、あっという間に距離を詰められる。
「放っといたら、どうなった!? お前今日のこと忘れたのか!?」
「そ、それは……」
「だから! もう少し自分を大事にしろって俺は散々――」
「それならあんた、部活はどうしたのよ!」
思いだした綾の言葉は、まさに渡りに船だった。
「え……」
「聞いたんだから! レギュラー降ろされたんでしょう!? 人の事心配する前に、まず自分のことを心配してよ!」
「お、俺のことはどうだっていいだろが!」
「よくない! ちゃんとレギュラーに戻りなさい!」
「な、なんでお前にそんなこと言われなきゃ――」
「あーもう、うるさーーーーーーーい!」
二人とも、びくっと肩を震わせる。二人しかいないはずなのに、別の女性の怒鳴り声が聞こえたからだ。しかも、かなり聞き覚えがある。
恐る恐る振り返ると、大変な美人が立っていた。ラフなジーンズに、スプリングシャツという格好で腕を組んでいるだけなのに輝いて見える。長い茶色のゆるふわな巻き髪が吹きすさぶ風に揺れていた。
「あ、姉貴……」
「鈴姉……」
功樹が怯えたように言った通り、彼女は功樹と3つ年が離れた姉だった。
名前は鈴音という。
「ひさしぶり、ゆーちゃん」
梅桃が何も言えないでいるうちに、鈴音は梅桃に視線を合わせて笑いかけてきた。
「あ、はい……」
なんとかそう答える。今ここにいると言うことは、さっきのやり取りは恐らく全部見ていたのだろう。消えてしまいたいぐらい恥ずかしかった。
「元気そうでなによりね。いっつもこいつに付き合うの大変でしょう?」
「いえ、その……えっと」
「見た目だけだ。今日学校で倒れそうになってたんだから」
しどろもどろの梅桃に功樹が不機嫌そうに吐き捨てると、鈴音の視線が動いた。
「ふぅん。あんた、それを知ってて、ああいうことしてたのね?」
「あ、姉貴……ったぁああっ」
次の瞬間、功樹も反応できないぐらいのスピードで張り手がとんだ。そして梅桃は美人が怒ると怖いというのを体感することになる。
「あんたねぇ! 家の中にいても聞こえるぐらいの声で、恥さらすのやめてくれる? それも聞いてれば、どう考えたって、ゆーちゃんの言い分はもっともよ! 大体男なら、女の子にはもう少し優しくするもんでしょ! そんなこともわからないの!? いつまでも付きまとうしか能がないなんて情けない!」
背が高い弟を見上げているにもかかわらず、その眼光の鋭さは直接見ていない梅桃にも伝わってくる。
「別に付きまとってるわけじゃっ……いや、俺はこいつのためを思って……」
言い返そうとしていた幼馴染は、一瞬止まり、すぐに別の角度から弁解を始める。けれどそんなことで鈴音は止まらない。
「はぁ!? この期に及んで反省の色なし? そんなに心配なら男として付き合えばいいじゃない!」
「ばっふざけんなっ! 俺は――」
途端に功樹がまたまくし立てようとするのを、鈴音は冷めた視線で軽く手を払って流した。
「あーはいはい、分かってるわよ。あんたは兄貴なんでしょ……」
「分かってるなら何でわざわざ!」
「別に。さぁ、ゆーちゃん、こんな馬鹿は放っておいて、一緒に帰りましょ? 聞こえちゃったからには放っておけないわ、今日は栄養たっぷりの物を食べなくちゃ。母さんだって喜ぶから、ね」
突然振り向かれて、極上の笑みを浮かべられる。
「あ、えっと……」
「どういう意味だよっ! ったく健といい姉貴といい!」
「ああもう、外野がなんかうるさいわぁ」
「姉貴!」
姉は適当にあしらっているが、まだまだ言い合いは続きそうだ。
梅桃は、その様子を見ながら遠慮がちに頭を下げた。
「あ、えっと、すみません気持ちだけで。失礼します」
返事も待たずに梅桃は家に向かって逃げるように走り出した。
「おい待て桃っまだ話は――」
「いい加減にしなさい! あんたのせいでゆーちゃん呼び損ねたじゃない!」
かなり痛そうな音と風の摩擦が背後から聞こえたが、梅桃はどちらも無視して真っ暗な自分の家の前まで走り、鍵を開けて中へと駆け込んだ。