(2)鈍感だった友人
養護教諭の上月は、一目部屋に入った梅桃を見た途端、すぐに寝なさいと怒鳴った。
言われるがまま、髪のゴムを解き、ベッドに横になって目を閉じると、見たくもないのに先ほどの功樹の顔が浮かぶ。
「もう、いい加減にしてよ……」
新学期早々、こんな学校中に注目されるような事態だけは避けたかったのに。
でも、そうしてしまったのは自分だ。もっと早く睡眠薬を買いに行くんだった。苦手な数学をなんとか克服しなければ、転学なんて夢のまた夢になる。そう思うと、体がだるくても寝ている場合ではないと、目が冴えているのをいいことに、一問でも多く問題を解こうとしていた。
本当は今学期から別の学校を希望したかったが、現状では2学期からが最短だ。
自分の不出来が恨めしい。その結果、よりによって彼と今年は同じクラスだ。
彼は小さい頃から文部両道で顔もよく、はっきり言ってモテる。
だからこそ、いくら幼馴染だからってこんな平凡な女にああいう構い方をするのは、以ての外だった。被害はいつだって梅桃に向く。一番最近では、先週3年生に睨まれた。
けれど彼は、梅桃が何度言ったところで、さっきの調子で自分を改めようとはしない。
しかも、それは恋愛感情やそれに類するものでは絶対にない。
その度合いといったら、例えばこの新学期に彼と初めて同じクラスになった頬を染めていた女子が、わずか2週間で先ほどの冷たい呆れたような視線を送るようになるほど。
代わりに、毎年毎年新学年が始まる度に、『彼と同じクラスになったことのない生徒』に、相応の反感を買う。それは時に直線的に、時に湾曲的に、どちらも変わらず梅桃だけを標的にして、寸分の狂いもなく撃ち抜く。
いくら幼馴染の行動に、相応の理由があるといっても、もういい加減にしてほしかった。
「はぁ……」
いったいいつになったら彼は時効を迎えるのだろう。
当の本人が、何も覚えていないと、言い続けているのに。
それよりも自分自身を、もういい加減赦してほしい。
そうしてくれなければ、梅桃だって、彼から解放されない。
違う、待っていてはいけない。自分から離れるべきだ。それで始めた勉強だったはず。
今日は絶対帰りに、睡眠薬とついでに栄養剤を買って、ちゃんとご飯を作って自己管理を万全にして、この秋こそ離れる。それしかもう、自分にはできない。
カーテンの向こうに、人の気配がするからだろうか、梅桃はいつのまにか意識を失うように眠っていた。
***** *****
結局、梅桃は2時間目から4時間目までほぼ3時間寝続けてしまった。
「あ、ゆす、よかった! 元気になったんだね」
昼休みに教室に戻ると、目ざとく見つけた綾が手を振ってきた。
今日ぐらい静かに一人でと思っていた昼休みは、クラス中に見られて赤面する中露と消えた。
「綾! そんな大声で呼ばないの! 梅桃、もう大丈夫なの?」
そんな綾をたしなめたのは、隣に座った眼鏡をかけた少女、原田和泉だ。
「あ、うん……ごめんね、大したことないの。あいつがあんな大事にしちゃっただけで……」
「ほんと、久しぶりにすごいもん見させてもらったわ」
その隣で頬杖をついているのは、赤坂光。座っていても分かるぐらい背が高い。足も長い。その上腰の括れがブラウスの上からでもわかるスタイルの良い少女だった。
「ああいうの見ると、二人って特別って思っちゃうよね、やっぱり」
光の前で、卵焼きを掴んでいるのは、瀬野沙梨。ふわふわの茶髪を天然だと言い張る、おっとりした少女だ。そしてその横が梅桃の席。
この三人と綾と梅桃で、いつもの昼休みを過ごすメンバーだった。
全然タイプが違う三人は皆、人懐っこい綾が是非にと誘って、それから一緒に過ごすようになった。
傍から見れば、5人は仲良しグループに見えるのかもしれない。でも実際は、仲がいいのは4人で、梅桃はそのおまけだと思っている。
もともと和泉は綾と前から知り合いだったとかで、新学期初日から一緒に過ごすようになり、それに梅桃が巻き込まれた。
光は、最初こそ相沢功樹と梅桃の関係に興味を持って梅桃に近づいてきたが、好きなものや気に入るものが綾と似ているらしく、毎日雑誌を広げたりして楽しそうにしている。そして沙梨は、梅桃がお菓子作りを趣味としているのを知って、食べたい、をきっかけに話しかけてきたが、普段は綾や光とおいしいものの話で盛り上がることが多い。
でも梅桃は、それでよかった。自分なんかと関わるとろくなことがないと、既に立証されている。
それでも、彼女たちのことが好きだったから、環の中に入れてもらえて、話が聞けるのは幸せだった。
頭では、一人で黙々と弁当を食べるのが一番いいとわかっていても、結局毎日一緒にいるのはそういうわけだった。
それでも彼女たちに何もないようにせめて、と聞く専門に普段は徹している。
ただ今日は、その看板を返上してでも言っておかなければならないと、自分の弁当箱を開ける前に梅桃は息を吸い込んだ。
「あの、みんな――」
「うん、分かってるから」「っていうか、もう聞き飽きたし」「照れ隠しの度合い超えてるもんね、梅桃の場合」
その言葉を待っていたと言うかのように、和泉、沙梨、光が一斉に梅桃を見た。梅桃は戸惑いつつ、肩に乗った重さがなくなるのを感じた。
「あ、ありがとう……もう無理だと思ってた」
「いいのよ。ま、心配してたのはあたしたちも一緒なんだから。梅桃ってばほんとにふらふらしてたもの、ここんとこ」
和泉に言われ、面食らう。
「え、あ……うん。ごめん、なさい」
上手くふるまっていたつもりだったが、綾や功樹以外にもばれていただけでなく、心配までさせていたらしい。気づかない自分が情けなかった。
誰にも迷惑なんてかけたくないのに。放っておいて欲しいのに。どうして、こう上手く行かないのか。
空元気でも出せればいいのだろうが、面白くもないのに笑う方法が分からない。
「あーもうそんなに謝らないでってば」
「あたしたちもちょっとは止めたかったんだけどね」
「こんなことなら、綾の言葉聞くんじゃなかったわ」
「え……?」
口々に言われて綾を見ると、彼女の視線は梅桃を見つつも斜めにそれていた。
「何よ……だってゆすってば、どうせこうなるまで聞かないじゃない。それに、変にいろいろ言ったら逆に無理しちゃうからって、だから私がみんなを止めてたの」
確かにそうだと思った梅桃の頬は、自然と力が抜けていた。
「うん、その通りだと思う。……ごめんね綾」
「あのね、別に、謝って欲しいわけじゃなくて……どうして自分の事、そこまでわかんないかなぁ……さっきまでずっと寝てたんだから、相当寝不足だったんじゃない? 大したことあるんだよ」
「ごめんなさい……」
童顔の綾の言っていることは母親そのもので梅桃は素直に項垂れる。
「実は、ちょっと最近、忙しかったの……それで……でも、明日はちゃんと寝る。絶対寝るから」
綾はしばらく梅桃を見ていたが、やがて小さく息を吐き出した。
「ま、それならいいよ。大事に至る前だったし……でも、それじゃ相沢君は納得しないでしょ。今日は一緒に帰るとか言い出しそうだよね」
「え、え!」
確かに十二分に考えられた。あいつなら、バスケ部の練習をサボるなんてこと平気でしそうだ。それがたとえ、再来週に県大会の予選を控えているとしても。
「そんなの……だめ」
梅桃が呟いた一言を耳ざとく拾った綾が弁当箱から顔を上げた。その目が輝いている。
「でしょう!? だから、今日は私が一緒に帰ってあげる!」
「え、でも、綾の家って反対方向で――」
「いいの。久しぶりに、シグナル行きたいと思ってたから」
シグナルとは、ネットでも評価の高い駅前のお洒落なカフェだ。梅桃も名前ぐらいは聞いたことがあった。
「あ、シグナルいいなぁ、あたしも行きたい」
「ずるー、あたしも」
「私は図書委員があるから無理」
頬を膨らませる沙梨と光。和泉はドライな反応だ。けれど綾はそのどれもに首を振る。
「だめだよ。皆放課後は忙しいでしょ」
光は女子テニス、沙梨は手芸部、和泉は本人も言っている通り、図書委員だ。
「ってわけで、ゆす、放課後はデートね!」
「……うん」
「ちょっとぉ、もう少し嬉しそうにしてよ! 久しぶりなんだから!」
「ごめん……みんなもありがとう……心配してくれて」
梅桃は喚く綾ではなく、三人の友人に頭を下げた。
知らなかっただけで、気づこうとしなかっただけで、彼女たちの輪の中に自分はちゃんと入っていた。入れてもらえていた。
それがいいのかどうか、分からないけれど。
「別に」「普通でしょ」「大したことしてないって」
「ね、休みの日、退屈だったら声かけてね。あたし結構暇してるし、おいしい紅茶用意して待ってるから!」
「うん……ありがと」
沙梨の言葉に、梅桃は微かに笑うことができた。
それはお菓子を作ってこい、と言われているのと同義だが、悪い気はしない。人の役に立てるのは、嬉しい。
けれど、絶対に調子に乗るなと、自らに言い聞かせる。
彼女たちと一緒にいて、そのペースに乗って忘れてしまうのは簡単だ。
実際巻き込まれたところで誰も文句は言わないだろう。そのぐらいわかっている。
言うのはただ一人、あの日の自分だけ。だから梅桃はいつだってその言葉に従うことにしている。
知っているのは、大げさでなく自分だけなのだ。
【あんたのせいで、大樹さんはどうなった?】
「ちょっとゆすー!」
はっとして見れば、綾の頬が膨らんでいた。どのくらい時間が経ったのか分からないが、またぼんやりしていたらしい。
「あ、ごめ――」
「もーーゆすってば、そんなんじゃ今に事故に遭うよ!」
「はい、気をつけます……」
「あーほんとにもう! 気が変わった。心配料取るから、今日のパフェはゆすのおごりね!」
「パフェなんだ……」
「当たり前でしょ! 心配料なんだから!」
別に1000円ぐらい大した出費ではない。けれど、梅桃はこれ以上不誠実な態度を取らないために、一端思考を断ち切って、綾の言葉に真剣に耳を傾けはじめた。