(0)些細なことはなかったこと
そこには、時間の概念も、境目を引いた地図もない。
数多の人間や生き物が住んでいる場所とは、異なる世界。
天は一面、塗りたくったように白で覆われ、大きな神殿以外はぽつぽつと白い屋根がいくつか見えるのみ。
その集落と呼べるのか定かではない建物の向こうには、見渡す限り続く青い平原と、さらに奥に大木が幾つもそびえて森になっていた。
そのどれもが天を目指し、縦横無尽に枝葉を広げている。
周りには、まるで雨粒のように光に反射し煌めくものが、あっちにもこっちにも飛んでいた。
薄い薄い、無色透明で軽そうな何か。
羽があるようには見えないが、確かに意志を感じさせる動きで、愉しそうに何より自由に飛び回っていた。
突然、ほんの一瞬それらは動きを止めた。かと思うと飛ぶ方向が揃いだし、一目散へ天へ向かう。
最初は数えられるほどの数だったそれはすぐ何十枚になり、他の木とも合わさって森の上で何百枚となり。
互いに重なりぶつかる音がここまで聞こえてきそうだった。
見る間に編隊が出来上がり、大きく渦を描いて彼方へと飛び去っていく。
やがて点となり見えなくなると、あとに残されたのは、寂しげな大木だけ。
その一部始終を高台で見ていた見張り番は、単身偵察のために森へ向かった。
直後、その大木は突如として現れた火によって成す術もなくなぶられていた。
哀れな見張り番の行方は、いまだようとして知れない。
その、『いまだ』にあたる時間、森を遠くに臨む真っ白な神殿の中で、一人の女性が紫の目をすがめていた。
純白の布を銀の糸でほぼ四角に縫い合わせ、白金の刺繍が施された帯を締めた、見るからに高位そうな服をまとっている。
彼女が見ているのは天だった。本来白一色のはずのそこは、今はまるでひび割れたように、赤黒い筋が何本も走っている。
この神殿には彼女だけではなく、他にも男性と思われる者が3人いたが、冷静なのは彼女一人のようだ。
彼らは無作為に右往左往し、口から泡を飛ばさんばかりに喚いている。
「なんで、今更あいつが!? あちらで好き放題やっていたんじゃなかったのか!」
「それもあんな、成り上がり風情が! 一体どうやって」
「魔界とは永らく不可侵だったはずなのに!」
「フィリア様、どうか闘うご決断を!」
「一体何を迷っておられるのですか!」
「フィリア様!」
口々に言い募る彼らは、フィリアと呼ばれた彼女と同じような格好だ。背丈と髪型と服の刺繍の色と顔だけが違う。正直なところ、誰が誰だか彼女にはあまり分かっていなかった。そしてそれで大した不都合は今までになかった。
目を閉じて、彼女は静かに思考する。
「あの木は神様の加護がかかった特別なもの……焼けないことなど分かっていたはずです」
「何を悠長な! 魂達があとわずかでも逃げるのが遅かったらどうなっていたことか」
「そうですとも。人間界なら彼らの自由、好き勝手やってもらって結構。けれどここは天界ですぞ!」
「フィリア様! どうかご決断を!」
この世界の指導役を仰せ使っている彼らは一様に確かに必死だ。だが全員程度の違いはあっても今さえ凌げればどうでもいいと思っている。
フィリアは違った。だからこそこの地位にいる。何時だって、何手も先のことを考えて動いてきた。
長らくこの地に安寧をもたらしてきたのは、決して己の運の良さだけではない。
「なにかの挑発か、脅しか……」
また目を伏せて考え込む彼女に、指導役の一人がさらに喚きたてる。
「何を迷っておられるのです!? 天界が魔界に侵食されるようなことにでもなったら――」
彼らとは別の物を見ようとしていたフィリアの目が、その思考を放棄して大きく開いた。
「何者です!」
振り返り、空間に向かって叫んだ。同時に膨らんだのは、純白の巨大な翼。
その輝きが神々しさとなり、彼女の存在をより『天使』たらしめていった。
「な、フィリア様!?」
ただ、傍から見れば、誰もいない空間に叫んでいるようなもの。臣下たちは揃って呆気に取られていた。
「な、ぐ……」
「ああああっ」
「がと……うぁあああ」
のはずが、急に苦しがりながら次々に倒れていく。その背後には黒く揺らめく何かががあった。最初はかすみのようだったそれは、やがてマントにフードをかぶった陰に落ち着いた。
「……まともな危機感を持っているのは、お前ぐらいのものか」
声を聴いただけではまだ若い男のようだった。
けれど、恐らく彼が出せる中で極限まで低く冷たい声だろう。独り言のように小さいのに、聞き逃すことが出来ない力強さがある。
フィリアは気を落ち着けるように努めた。背中のおさまりがまだ悪い。
「どこから、入り込んだのですか。結界は十分だったはず」
そもそも、天界にならまだしもこの神殿に入ってくるなんて、天使でさえ選ばれた者でなければ不可能なはずだった。
「あの子供だましの事を言っているのなら、笑えるな」
返って来たのは、小ばかにした響きさえ含んでいない淡々とした物言いだった。
その時点で、フィリアはそれ以上追及しても意味がないと悟った。
「一体彼らをどうしたんですか」
「何も消滅させるつもりはないさ。お前がここであったことを黙っていれば」
「どうせ、言えばこちらに不利な条件を呑まされるのでしょう」
「言えるのならば、言ってみればいいというだけのことだ。大天使、フィリア・レーン」
吐き捨てる間も、男はフィリアだけを見つめていた。
いや、それでは生ぬるい。はっきりと感じとれるのだ。まるで縫い留めるように射抜かれていることを。
フードに隠れて顔は一切見えないというのに。
フィリアは背中に伝う悪寒を押し隠し、努めて威厳を保とうとしていた。
「用があるのは、私なのですね。それなら――」
「和解しよう」
男が彼女との会話をほんの少しでも望むなら、選べる言葉は他にいくらでもあったはずだ。ただ、現実の彼は彼女の声にかぶせて感情の見えない声でそう一言告げたのみ。
フィリアは一瞬話し方さえ忘れ、だがすぐに我に返って叫んだ。
「ど、どの口が! 貴方が一方的に攻めて来たのではないですか!?」
「ただでとは言わない。条件付きだ」
「まさか、最初から、それが目的で……」
「ゲームをさせろ。俺は退屈なんだ」
「ゲー、ム?」
戸惑うフィリアを横目に、男はどこからともなく緩く巻かれた紙を取り出した。一面に皺があり、重厚感がそのまま形をとったかのような質だった。
「ルール含めてすべて記述した契約書がここにある。お前にとっても悪い条件ではないと思うがな」
急いで歩み寄り、差し出されたそれをひったくるように奪って読み進めていたフィリアの顔がみるみる蒼白になっていく。
「な、何……待ちなさい! こんなこと、赦されるはずが――」
「一体何を迷う? 勝てば何の問題もない。全ては、契約という名のもと、正当化されるゲームだ。悪い条件じゃないはずだろう。あの時も、そうやって、自分だけはのうのうとしていたのと同じだ」
フィリアの肩が男の言葉を聞くうちに微かに揺れ始める。気づいて止めようと、両手を交差させて乗せる。開き切った目を男へと向けるが、彼は笑い声すら立てない。
「安心しろ。今更お前に制裁を与えるつもりはない」
そんなことに、割いている時間も、興味もない。
続いた冷え冷えとした声は、フィリアには聞こえていなかった。
「貴方は、……何を……」
フィリアの男を見る目は怯えていたが、逆に彼はそんなフィリアにゆっくりと近づいていく。
「さぁ、ゲームをしよう。俺の退屈を忘れさせてくれる、全てをかけたゲームだ」
契約書にサインを。ああ、それともお前に、この天界より大切なものがあるというなら、聞いてやらないでもないがな。
流れるような言い方は、予めそらんじてきた詩のようで。
項垂れたフィリアは、それでもやがて手を伸ばし、差し出された羽ペンを震える指で掴むと光る文字を紙に綴っていく。
最後のピリオドを打ったところで、男は紙を丸めてまたどこかへと消滅させた。
「契約、成立だ。俺は約束通り消えるとしよう。勿論彼らも元に戻そう」
一本調子な声は、全て完全に予定調和だと告げるようだった。
実際、きっとフィリアが何をしても言っても結果は変わらなかっただろう。
マントを翻し大広間を出ていく背中に、フィリアはなすすべもなくへたり込む。
「この、悪魔っ お前はお前は!」
せめてもと張り上げた割れた声を受け止めて、規則的だった足音が止まる。直後、小さな聞き間違いのような笑い声が、静かすぎる空間に必要以上に大きく響いた。
それは、この男が初めて見せた、感情、というべきもの。
「ああ、天界を統べるものに、そう呼ばれる日が来るとは、光栄だ」
ほんの少しだけ愉悦を含んだ声と共に、突然男の背中に、歪で鈍く輝く黒い翼が現れる。それを大きくはためかせると、彼は飛び上がって、天窓の空いた空間へと消えた。
「…………くっ……くぅっ」
静寂が戻ってからも、沈み込んだように顔を伏せていたフィリアの肩は震えている。
振り影た拳が空中で止まり、やがて確かめるようにゆっくりと振り下ろされる。
「く、く、く、く……」
漏れ出る声の、感覚が徐々に徐々に速くなる。
「くくくくく…………あっははははははっ」
やがて顔を大きく振り上げた彼女の紫の目は、狂気かと思うほど輝いていた。
その声は指導役たちが倒れた空間で、不自然なほど大きく響き渡る。
「くくっ勝った 勝ったわ! ついに、漸く! ああ、永かった! …………ええいいのよ、私は間違ってない。だってこれは天界を守るため、ひいては神様の力を守るためだもの。私一人の問題じゃないんだから。何より決して神様のご意志に背くものではないんだから。ただ私は仕方なく、契約書にサインをした。そうよ、ただ……それだけ、ただそれだけでしかないんだわ」
拳を握りしめ、早口で言い聞かせるようにまくし立てる姿は、聞きようによっては悪魔が去った事に対する喜びにも聞こえた。
「フィリア様! どうされました!?」
その咆哮のような叫びに呼応するように、一人、また一人と目を覚ましていく指導役たち。
フィリアは彼らが頭を押さえているのを横目に、大広間の本来天使たちに沙汰を与える少し高い場所に立ち、両手と翼を大きく広げた。
「皆の者喜びなさい! 危機は去りました。先ほどここにあの男が来て、私と、『天界への不可侵契約』を交わして去って行ったのです!」
朗々とした声で宣言する。しばし間があって、やがてぼんやりとしていた指導役たちの顔が喜色に彩られていった。
「ほ、本当に!? それはよかった」
「契約とは? いったいどんな?」
「何だっていいじゃないか、これで天界は守られたんだ!」
頭を捻ろうとする一人を、もう一人が止める。フィリアはその声にかぶせるようにさらに叫んだ。
「その通りです。神の作られたこの世界を守るためになら、些細な犠牲など、取るに足らないものです」
「おお!!」「さすがフィリア様!」
「些細な犠牲の上に、私達は、勝ったのです。あの悪魔に! さぁ、皆に伝えましょう!」
フィリアは統治者の顔で前を見据えて一言一言はっきりと告げる。
権力ある者の発言により【些細な犠牲】は正当化されていく。
湧き上がる歓声。広間から飛び出していく指導役たち。
その背中を見るフィリアの唇が弧を描いてく。
「……せいぜい頑張って頂戴? ディゼ」
最後に一度だけ宮殿を振り向くと、翼を広げて窓から外へと出ていった。
その間ずっと、扉の裏側で黒い塊が揺らめいていることなど、ついに誰も気づかなかった。
徐々にそれは大きくなり、やがてあのフードの男の姿をとった。
「なぁ……天界の、天使連中だってこの様だ」
まるでこの宮殿の真の主のように、音もなく大広間の中に入り込んだ彼は、背中で扉を閉めるついでのように、フードをかぶったままで割れた天井を見上げた。
「いったいお前はどこまで、仮初にしがみつくんだろうな?」
目を閉じて、唇を僅かに横に引いて、彼は低い誰にも聞こえないだろう声で宣告する。
――さぁ、ゲームを始めよう。