第20話
由弦の退去が恙なく終わってから数日後のこと。
「本日はお招きくださりありがとうございます」
由弦の実家を訪れた愛理沙は、由弦の祖父……高瀬川宗玄に頭を下げた。
そんな愛理沙に宗玄は穏やかな笑みを浮かべた。
「いや、こちらこそ。招きに応じてくれて感謝する。……実はワシが愛理沙さんと、将来の孫の嫁とよく話がしたいと言い出したのが切っ掛けでな」
「そ、そうなんですか……?」
宗玄の言葉に少しだけドキドキしながら愛理沙はそう返した。
愛理沙と宗玄は初対面ではないが、あまり話をしたことがない。
そもそも恋人の祖父という存在は決して遠くはないが、近い関係とも言えない。
「あぁー、まあ、そこまで緊張せんでくれ。孫との時間を邪魔するつもりはない。そもそもワシらは普段、離れの方に住んどるからな」
高瀬川宗玄は高瀬川家の実質的な支配者ではあるが……
しかしながら彼は公的には由弦の父に地位を譲り、隠居した身だ。
だから本邸ではなく、離れ……つまり別館の方に住んでいる。
もっとも、子供や孫に会うために本邸の方にはしょっちゅう顔を出してはいるのだが。
「お爺さん、話が長いですよ! 悪い癖です」
「別にそこまで長くは話しとらんがな……」
由弦の祖母――高瀬川千和子に苦言を言われ、宗玄は不満そうな表情を浮かべながら引っ込んだ。
「いや、すまないね。……若い子を前にすると、つい長話をしたくなる年頃みたいなんだよ」
「いえいえ、由弦さんのお爺様と……お話ができて嬉しく思っています」
由弦の父、高瀬川和弥の言葉に愛理沙は笑みを浮かべながら答えた。
特別、由弦の祖父の話を長いとも感じなかったし……
そもそも“婚約者の祖父の話が長い”という言葉を当の本人の目の前で肯定するほど愛理沙は愚かではなかった。
「そう思うなら、早く家に上がってもらうべきだろう」
愛理沙の隣で、トランクを手に持った婚約者……由弦はそう言った。
駅まで愛理沙を迎えに行き、ここまで案内して来たのは由弦だ。
次期当主の言葉に先代当主と今代当主は頷き、家に上がるように愛理沙に促した。
「では、お邪魔します」
愛理沙は一礼してから家に上がった。
「とりあえず……荷物の方を先に片づけてしまおう。客室に案内するよ」
「ありがとうございます。じゃあ、その前に……こちら……養父からです」
愛理沙は手に持っていた紙袋を少し掲げてみせた。
紙袋には和菓子で有名な老舗店のロゴが入っていた。
「おや、ありがとう。……彩弓」
「はい。……ありがとうございます。愛理沙さん」
和弥の言葉に、由弦の妹である高瀬川彩弓が前に進み出て愛理沙から紙袋を受け取った。
その後、愛理沙は由弦の案内に従い、廊下を歩く、
通されたのは小奇麗な和室だった。
一通りの家具も揃っている。
「もっといいところはあるんだが……壺とか掛け軸とかあると、落ち着かないだろう?」
「そうですね。……その方が嬉しいです」
高そうな物が置いてあると、たとえその気がなくとも“壊してしまわないか”心配になってしまう。
婚約者の心遣いに愛理沙は感謝した。
「さて、夕食まで時間あるけど……どうする? 俺の部屋ならゲームとかあるよ。……居間には行かない方が良い。爺さんの長話を聞かされるだろうからね」
「……では、一つお願いがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「何なりと」
「ワンちゃん、もふもふさせてもらっていいですか?」
愛理沙は手をワキワキさせながらそう言った。
「あぁ……可愛いです」
アレクサンダー(秋田犬)を撫でながら愛理沙は顔を綻ばせた。
近くに由弦がいるからか、それとも愛理沙のことを覚えているのか。
アレクサンダーは大人しく愛理沙に撫でられている。
しばらくアレクサンダーを撫でていると、嫉妬したのか、ハンニバル(スパニッシュ・マスティフ)が愛理沙を小突いた。
「あ、ちょっと……分かってます。今、撫で撫でしてあげますからねぇ」
愛理沙はアレクサンダーを撫でるのをやめて、ハンニバルに手を伸ばした。
その大きな頭や首の下を撫でる。
「大きくて、もふもふしてて、抱擁感があります。猫ちゃんは猫ちゃんで可愛いですが、ワンちゃんはワンちゃんでいいですね……」
ハンニバルに抱き着き、顔を毛並みに埋めながら愛理沙は感慨深そうに言った。
目は蕩け、口元はへにゃりと緩んでいる。
由弦にもこんな顔はあまり見せてくれない。
「来世は犬が良いなぁ……」
愛理沙に飼われたい。
由弦は他二頭――イングリッシュ・マスティフのスキピオと、ジャーマン・シェパードのピュロス――を撫でながらそんなことを思った。
「どうせなら、猫ちゃんになってください。そうすればいっぱい、可愛がって……っきゃ!」
「あ、愛理沙!?」
気が付くと、愛理沙はアレクサンダーとハンニバルの二頭にじゃれつかれていた。
二頭に圧し掛かれ、顔を舐められている。
「あぁ……ちょ、ま、待って……」
「うーん……これは……助けた方がいい?」
襲われているようにも見えるため、助けなければいけないような気もするが……
しかし愛理沙も喜んでいるようにも見えた。
それに二頭が人を噛んだりしないことは、飼い主である由弦も良く知っている。
「そ、それは……少し悩ましいところでは……あぁ! やっぱり、助けてください。だめ、そんなに舐めちゃ……」
「はいはい。こら、離れなさい。離れなさい……離れなさい!」
由弦は強い口調で二頭を制止しながら、強い力で押すようにして愛理沙の体の上から犬を退かした。
叱られたことに気付いたのか、二頭はしゅんとした様子で項垂れる。
「ほら、大丈夫か? 愛理沙」
「は、はい」
由弦は倒れ込んでいた愛理沙を引っ張り上げた。
何とか愛理沙は起き上がる。
怪我をした様子はない。
しかし泥まみれ、毛まみれ、そして犬の唾液まみれだった。
「夕食の前にお風呂に入った方が良さそうだ」
「あはは……そうですね」
愛理沙は苦笑した。




