第18話
時が過ぎること、約一か月。
「今日のお弁当、どうですか?」
「うん、美味しい」
由弦と愛理沙は二人で弁当を食べていた。
愛理沙の手作り弁当を食べ終え、そして愛理沙が自分の弁当を食べ終えたところで……
由弦は自分の鞄から、小さな包みを取り出した。
「……愛理沙、これ。受け取ってくれ」
「ホワイトデーのお返し、という認識でいいですか?」
そう、今日はホワイトデー。
男子が女子にプレゼントのお返しをする日だ。
「ああ、まあ、そんな感じかな」
「ありがとうございます。開けて良いですか?」
愛理沙の問いに由弦は少し緊張しながら頷いた。
愛理沙は丁寧にリボンを外し、包みを開ける。
「おや……?」
愛理沙は少し驚いた様子で目を見開いた。
そこから現れたのはクッキーだ。
もちろん、クッキーはホワイトデーのお返しとしてはさほどおかしなものではない。
問題はそのクッキーそのものだ。
少し不格好な形の物が、一つ一つ丁寧に透明な袋にラッピングされていたのだ。
その市販品というよりはむしろ、手作り感の強い雰囲気のクッキーを目の前にした愛理沙は、目を何度かパチクリとさせた。
そして由弦に問いかける。
「由弦さんの手作り、ですか?」
「あ、あぁ……まあ、そんな感じかな」
それは由弦が手作りしたクッキーだった。
味はプレーン、チョコレート、抹茶の三種類だ。
それぞれハート型……に見えなくもない形に切り抜かれている。
「食べてみてもいいですか?」
「どうぞ、どうぞ。……感想を教えて欲しい」
「では、早速」
愛理沙は頷くと、プレーンのクッキーを一つ手に取り、口に運んだ。
ゆっくりと味わうように咀嚼する。
「……どう?」
愛理沙が飲み込んだのを確認してから、由弦はそう尋ねた。
「そうですね……」
愛理沙は少し考え込んだ様子を見せてから答えた。
「バターの風味が効いていて美味しいです」
「そ、そうか。それなら良かった」
由弦はホッと胸を撫で下ろした。
料理の感想を聞くのは緊張するのだと、由弦はこの時初めて学んだ。
愛理沙は由弦に料理を振る舞うたびに似たような緊張を感じていたのだ。
「あえて付け加えるのであれば……」
「……あえて?」
安心したのも束の間、由弦は愛理沙の不穏な言葉に思わずドキっとした。
「生地の厚みは均一にした方がいいですよ。あと、ちゃんと冷やしてから焼いた方が形も崩れにくくなります」
「そ、そうか、なるほど……参考になる。いや、しかし、凄いな」
クッキーの形と味だけで、由弦が生地を冷やさずに焼いたことを見破ってみせた愛理沙に、由弦は感嘆の声を漏らした。
一方で愛理沙は首を左右に振った。
「いえ、私は作り慣れていますから。……由弦さん、クッキーを作るの、初めてですよね? それを踏まえれば上手に作れていると思いますよ」
愛理沙の言葉に由弦は思わず苦笑した。
「あぁ……いや、まあ、いくつか失敗はしたけどね。一番良くできたのを君にプレゼントした」
ちなみに失敗した物については、亜夜香たちに渡している。
もちろん、失敗といっても生焼けだったり、黒焦げになっているといったような、体調に問題が生じそうな物は渡していないが。
「そ、そうなんですか。なるほど、これが一番……」
愛理沙は少し困惑した表情を浮かべた。
しかしすぐに首を左右に振った。
「いえ……最初はみんな、上手くは作れないものですから。気にしなくても大丈夫ですよ」
「……そ、そう?」
「いえ……」に含まれているであろう愛理沙の本心について由弦は非常に気になったが……
知らない方が幸せだろうと判断し、深くは聞かないことにした。
「ところで由弦さん。予備校……春期講習ですが、どうされますか? 私は受けたいと思ってますが……」
「俺も受けるよ」
「あ、そうなんですか?」
「……そんなに意外かな?」
由弦は思わず苦笑した。
もちろん、由弦は決して勉強が好きと言うわけではない。
しかしやらなければならない時にはしっかりやる。
そもそも受験や試験というものには一定のテクニックが存在する。
それは独学や学校の授業だけでは身に付かないものだ。
それがどの程度、効果があるかまでは分からないが……
試しに春期講習に通ってみるという選択肢は、費用対効果を考えてもそこまで悪くはない。
「いえ、でも……ほら、由弦さんはその、ご家族で旅行に行かれるのではないかなと……」
「あぁ……確かに去年はそうだったね」
高瀬川家では春頃に海外へ、家族旅行に行くのが恒例行事になっている。
去年はそれが理由で愛理沙とはしばらく会うことができなかった。
「去年は?」
「今年は行かないよ。……一年間は勉強に集中しようと考えている」
由弦も家族旅行に行くか行かないかで合否が変わるとは思ってはいない。
要するに覚悟の問題だ。
「なるほど、そうなんですね!」
愛理沙は嬉しそうな声で手を叩いた。
春季休暇の短い間とはいえ、由弦と会えないことは愛理沙にとっては寂しいことだったのだ。
「では今年の春休みは……一緒に過ごせますね」
愛理沙は嬉しそうな表情でそう言った。
夏季休暇では多くの時間を由弦と一緒に過ごし、半ば同棲するような形になった。
それは愛理沙にとってはとても幸せなことであり、そして春も同様に過ごせるのは喜ばしいことである。
「あぁ……そのことなんだが……」
しかし愛理沙の反応に対して由弦は頬を掻いた。
気まずそうな表情を浮かべる由弦に対して愛理沙は首を傾げた。
「えっと……何かご予定が?」
「予定はないよ。さっきも言った通り、勉強に集中したいから……そう、そのことなんだが、春休みから一人暮らしをやめようと思っているんだ」
由弦の言葉に愛理沙は目を大きく見開いた。
「それは……あぁ、そうでしたね。元々、ご実家からでも通おうと思えば通えるんでしたよね。勉強に集中するならその方がいいですよね」
由弦が一人暮らしをしていたのは、「一人暮らしがしたかった」からだ。
そんな我儘を通すための条件が、生活費はアルバイトをして稼ぐことだった。
当然のことだが、労働時間分だけ勉強時間は減る。
受験に集中するなら、アルバイトはしない方がいい。
「となると、アルバイトもお辞めになるということですか?」
「そうだね。まあ、すぐにはやめないけど……勝手で済まない」
由弦はそう言って愛理沙に軽く頭を下げた。
愛理沙も今は由弦と同じところでアルバイトをしている。
それは由弦へのプレゼント代を稼ぐためというのもあるが、由弦と一緒に働きたいという理由もあった。
由弦がやめてしまえば、愛理沙もあえてレストランで働く理由はなくなってしまう。
「いえ、大丈夫です。勉強の方が大切ですし……そうですね。私も……はい、正直なところ、三年生になってからも続けるべきかは悩んでいました」
二人ともアルバイトをやめるという結論になりそうだった。
申し訳ないという気持ちは当然あるが……
そもそも由弦と愛理沙が高校生であり、三年生になったら受験に集中するためにやめる可能性が高いことは雇用先も承知の上のはず。
何より、二人はそれを理由に自らの人生において重要な時間を放棄するつもりはなかった。
「でも、そうですか。となると……由弦さんと過ごせる時間は減ってしまいますね」
「そうだね。……来年度はそうなるかな?」
同じ予備校に通えれば一緒に過ごせる時間は変わらない。
と、二人は一瞬だけ思ったが、口には出さなかった。
一緒に過ごしたいという理由だけで予備校に通うほど、二人は受験を舐めてはいなかったのだ。
「……来年度? 春休みはご実家で過ごされるのでは?」
そのため愛理沙が気になったのは、由弦の“来年度”という言葉だ。
来年度とは、今年の四月以降を差す。
しかしながら春季休暇は三月……今年度だ。
「あぁ……そのことなんだけど、そのさ。……良かったら、うちに来ないか?」
由弦の言葉に愛理沙は大きく目を見開いた。
「もちろん、家族には相談済みだ。その、いきなり愛理沙との時間が減るのは寂しいし……特に家族が海外に行っている間は、俺、一人になっちゃうからさ。その……もちろん、君が嫌でなければの話だけど、その、どうかな?」
「ぜひ!!」
愛理沙は目を輝かせながら由弦の手を取った。




