第6話 匙加減
六月の初旬ごろ。
由弦の通う高校ではいわゆる「体力テスト」が行われる。
学校から近い場所にある競技場・体育館を借り切り、全校生徒分の一日使って記録を取るのだ。
……と言っても、別に面白い行事ではない。
敢えて言うならば、学校の授業がなく、ついでに特別感を少し味わうことができる程度だろう。
あと、一応運動をすることになるので少し疲れる。
……これはマイナス面だが。
もし、一つ付け加えることがあれば、去年は怪我の影響で不参加だった由弦にとっては、初めての体力テストになるという点か。
もっとも内容は小中学校で行われたものと変わらない。
つまり、由弦にとっても愛理沙にとっても、別に何でもない行事と言える。
もっとも……
一人では何でもない行事でも。二人揃えばまた少し話は変わる。
「君のお弁当は今日も美味しいな」
由弦は自分の横に座っている女の子にそう言った。
それに対して体操服を着ている金髪の少女は、箸を動かしながら何でもないという風に答える。
「そうですか。それは良かったです。……まあ、いつもとそう、変わりはありませんけどね」
由弦の婚約者、雪城愛理沙は澄ました表情でそう答えた。
もっとも、彼女の白磁のように白い肌はほんのりと色付いていることから……本当は照れていることが伺える。
いつもと変わらず、分かりやすい婚約者様だった。
「……お味噌汁、お代わりいりますか?」
「まだ残っているなら」
由弦がそう答えると、愛理沙はそれに答えず……
無言で魔法瓶を手に取り、由弦のカップへと注いだ。
「どうぞ」
「これはどうも」
味噌汁は根菜を中心とした具がたっぷりと入っている。
いつも通りの愛理沙の味……ではあるが、運動をした後ということもあり、いつも以上に美味しく感じた。
「体力テスト」の昼休憩。
由弦と愛理沙は二人で昼食を共にしていた。
丁度、空いていたベンチに二人で腰を掛け、愛理沙が作ってくれた弁当を二人で食べている。
周囲に人はいない。
そういう場所を選んだからだ。
「……終わったら、一度、由弦さんのお家に寄っても?」
「もちろん。……何なら、泊まっていくか?」
愛理沙の問いに心良く答え……そして逆に提案する。
五月の連休の時、愛理沙は由弦の部屋に泊ったことがある。
実はその時の“お泊りセット”のうち、いくつかが由弦の部屋に残されていた。
そのため……泊まろうと思えばいつでも泊まれるのだ。
さて、そんな由弦の提案に愛理沙は少し考えた様子を見せてから答えた。
「いえ……さすがにそんなに頻繁にお泊りするのは良くないと思うので……あ、でも、シャワーを貸していただけると嬉しいです」
「お安い御用だ」
いくら仲睦まじい婚約者といえども、そう頻繁に泊まるのは世間体的にあまり良くないということは由弦も理解している。
……それにチャンスはいくらでもある。
「……」
「……」
ほんの少しだけ、由弦は自分の体を愛理沙の方へと近づけた。
触れるほどにまで近かった肩が、ぴったりと触れ合うまで近づく。
「……」
「……」
それからゆっくりと、自然に……愛理沙の手を握った。
すると愛理沙もまた、握り返してくる。
婚約者の手は柔らかく、そして暖かかった。
そして……
(……それにしても、焦らず、じっくり、チャンスを逃さないようにってのは……具体的にはどうすれば良いのだろうか?)
由弦はバイト先の上司――広美――の言葉を思い返していた。
由弦は少し、愛理沙との関係に行き詰まりのようなものを感じていた。
五月の連休中に距離は縮まり、唇までの接吻はできるようになったが……そこから前に進まないのだ。
その先があまりに遠く、壁は大きく感じる。
(いや、そもそも、そういうことに焦りを感じる時点で……焦っているのか? 良くないのだろうか?)
変に焦り過ぎてしまい、空回りし、愛理沙を恐怖させてしまうようなことになれば本末転倒だろう。
ここはじっくりと、慎重すぎるくらに進めるべきか……
(でも、男として、リードするべきなのか? ……俺があまり積極的ではないのも、それはそれで、愛理沙が不安に思ったりとか……)
決して真に受けたわけではない。
が、しかし広美は由弦にとって人生の先輩だ。
少なくとも倍の人生は歩んでいる。
蔑ろにするべきではない。
愛理沙が由弦からの愛に不安を感じている可能性……それを考慮に入れると、由弦があまりに慎重すぎるのは、それはそれで愛理沙を不安にさせるのだ。
(む、難しいな……)
どうすれば良いのだろうか?
と、思いつつ……取り敢えず、由弦は愛理沙の肩に手を回してみた。
華奢な肩先が由弦の掌にすっぽりと包まれる。
体操服の生地はほんの僅かにだが、しっとりと湿っていた。
「……」
「……」
由弦が手を回すと、ワンテンポ後れる形で、愛理沙は由弦に対して体重を預けてきた。
気付くと、愛理沙の頭が由弦の肩の上に乗っていた。
さらさらとした亜麻色の髪が由弦の頬を擽った。
シャンプーと制汗剤、そしてほんのりとした汗の匂いが由弦の鼻先を擽った。
とても良い香りだった。
由弦は自分の理性が蕩けていくのを感じた。
「……愛理沙」
彼女の名前を呼び、強めに抱き寄せる。
そしてその顔に触れ、唇を奪おうとし……
「あ、その……」
僅かに愛理沙の手が由弦の胸板を押した。
由弦の動きがピタリと止まる。
「い、一応、授業中……と言えば授業中、ですし、その、お外は……」
やんわりと、拒絶された。
由弦は少し傷ついた。
もっとも……
今は学校行事の最中。
それに青空の下で……もしかしたら、誰かに見られるかもしれない。
そう考えると愛理沙の言い分は尤もである。
これは由弦の“焦り過ぎ”というやつだろう。
「そうだね。……すまない」
この程度で婚約者は自分のことを嫌いになったりはしない。
そう言い聞かせながらも、由弦は少しだけ愛理沙から距離を取ろうとする。
が、そこで愛理沙がギュッと由弦の服を掴んだ。
そして由弦をじっと見上げる。
翠色の潤んだ瞳で、僅かに紅潮した表情で愛理沙は言った。
「帰ったら、その、しましょう……その、だから、それまで……」
「分かった。我慢しよう」
由弦は帰るのがとても楽しみになった。
押せばいいのか、引けばいいのか分からないゆづるん




