第1話 恋人とは
三月の下旬。
ホワイトデーの後の日曜日。
「……お邪魔します。由弦さん」
「ああ、上がってくれ」
今までと変わらず、愛理沙は由弦の家にやってきた。
以前と変わらない調子で対応する由弦に対して……
愛理沙はどこか、そわそわとした様子だ。
「……どうした? 愛理沙。何か、気になることでも?」
落ち着かない様子で腰を下ろす愛理沙に珈琲を出しながら由弦はそう尋ねた。
すると愛理沙は僅かに頬を赤らめ、亜麻色の髪を弄りながら答えた。
「そ、その……私たち、本当の婚約者になったんですよね? その、恋人に」
「え? あ、ああ……まあ、そうだね。恋人になって初めてのデート、ということになるのかな?」
家デートをデートに含めて良いならば、今回は記念すべき日になるというわけだ。
もっとも、あまりそういうことを考えていなかった由弦は何も用意できていない。
「……記念にちゃんとしたデートがしたかった?」
「あ、いえ。別に全然、そういうわけじゃないんですけれど……」
少し心配になった由弦の問いに、愛理沙は慌てた様子で手を振りながら否定した。
「その……恋人になったからには、何か変わるのかなと……少しだけ」
「あぁ……なるほどね」
由弦は思わず苦笑した。
今まで由弦と愛理沙は偽りの“婚約者”だった。
しかし今は名実ともに本当の婚約者であり、そして恋人同士である。
……だが、今のところは肩書が変わっただけだ。
実際のところ、こうして想いを伝え合い、正式なお付き合いを始める前から由弦と愛理沙は十分、恋人らしいことをしてきた。
実態は今のところ、何も変わっていない。
「普通の恋人って……何をするんでしょうか?」
「何をって……手を繋いだり?」
「もう、してますよね」
「まあ、そうだね」
初めて手を繋いだのがいつだったか、由弦は覚えていなかった。
夏祭りの時に、自然な感じで手を繋いだことと……
正月に由弦の方から積極的に愛理沙の手を求めたことは覚えている。
(ハグ……も、もうやったな)
クリスマスの時に愛理沙を抱きしめたことを、由弦は思い出した。
とても暖かく、柔らかかったことを覚えていた。
手繋ぎ、抱擁の次は……
「……キス、とか」
ポツリと、愛理沙が呟いた。
そしてすぐさま愛理沙は自分の口を塞いだ。
一瞬で顔が真っ赤に染まる。
「い、いや、い、今のは、その……た、例えばの話であって、その、したいとか、そんなんじゃ……」
慌てた様子で自分の発言を否定する愛理沙。
そんな愛理沙に対し、僅かに顔を赤くした由弦は尋ねる。
「……したくないのか?」
「い、いや、その……」
「俺はしたいと、思っているよ」
由弦はそう言って愛理沙の手を取った。
そしてじっと、愛理沙の顔を見つめる。
真っ直ぐと自分を見つめる蒼玉の瞳に対し、愛理沙はその長い睫毛の奥で煌めく翠玉の瞳を僅かに反らした。
やや俯きながら、恥ずかしそうに視線を泳がせる。
「そ、その……そういうわけじゃ、ないんですけれど……」
「どっちだ?」
由弦は両手の力を強めた。
一方、由弦に迫られた愛理沙は逃げ道を探すように視線を右往左往させるが……
由弦に掴まれている以上、逃げ道はない。
「…………」
愛理沙は弱々しい表情で、僅かに視線を上げた。
上目遣いで由弦を見上げながら、その艶やかな唇を動かす。
「し、したい、です……」
二人はじっと、見つめ合った。
とても恥ずかしく、こそばゆく、目を逸らしたかったが……どういうわけか、互いの瞳から目を逸らすことができなかった。
沈黙が場を支配する。
時を刻むのは互いに激しく脈打つ、心臓の鼓動だけだった。
「……しても良いか?」
最初に口を開いたのは由弦だった。
その返答に対して愛理沙は……無言だった。
由弦はゆっくりと、愛理沙に顔を近づけた。
艶やかなその唇へ、自分の口を押し当て……
その直前で、由弦は動きを止めた。
愛理沙が両手で由弦の胸を僅かに押したからだ。
とても弱々しく、力は全く篭ってはいなかったが……
それは拒絶の意志表示だった。
「……嫌だった?」
心配になった由弦は愛理沙に尋ねた。
一方の愛理沙は顔を真っ赤にしたまま、首を左右に振った。
「い、いえ……嫌ではないです。嫌では、ないんですけれど……」
「けれど?」
愛理沙は僅かに顔を俯かせ、亜麻色の前髪越しに由弦を見上げながら答えた。
「は、恥ずかしくて……」
愛理沙はそう言って真っ赤に染まった顔を両手で隠し、プルプルと震えてみせた。
そんな愛理沙の態度に由弦は思わず、呟く。
「……可愛い」
「ふぇ!?」
「い、いや、何でもない」
思わず漏れ出てしまった感想を誤魔化しながら、由弦は内心でホッと息をついた。
少なくとも愛理沙が由弦のことを嫌悪していたり、性的な接触に恐怖感を抱いているというわけではないようだ。
「まあ、そうだね。……恥ずかしい、よね」
由弦は愛理沙の返答に共感するように口にした。
由弦自身の気持ちとしては、全く恥ずかしくないわけではないが……それ以上に愛理沙と触れ合いたい気持ちが優る。
とはいえ、愛理沙の意志を捻じ曲げて強引に事を進めるのは本意ではなかった。
だから愛理沙が由弦に気を使い、もしくは嫌われることに恐怖して、乗り気ではないのに由弦の接吻に応じる……
ということがないように、愛理沙の共感の意を示したのだ。
「あの、い、嫌では、ないんですよ? ただ、その……は、恥ずかしくて……」
一方、愛理沙は言い繕うように、言い訳をするようにそう言った。
由弦の機嫌を伺うような、そんな表情だった。
その翡翠色の瞳には不安と恐怖の色が浮かんでいた。
「うん、分かっているよ。大丈夫だ」
愛理沙の不安を打ち消すように、由弦は穏やかな声でそう言った。
そして優しく愛理沙の髪を撫でる。
すると安心したのか、とろんと目を蕩けさせた。
愛理沙は体の力を抜き、由弦の胸板に凭れ掛かった。
「……少しずつ、進めていこう。時間はまだあるからさ」
「はい」
ギュッと愛理沙は由弦の服を掴みながら小さな声で返事をした。
それから上目遣いで由弦を見上げ……
「その、練習……しませんか?」
そんな提案をした。
というわけで四章始まりです
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