瑞穂の国神話 ヤマタノオロチの誕生
それは、一匹の小さな、白い蛇であった。
太さはせいぜいが人の小指ほど、長さは高々人の子の腕の半分にもならぬほどに小さな、それは本当に小さな蛇であった。
見るからに弱弱しく、頼りなさげなその小さな蛇は、穢れのない真っ白な体にどこまでも澄んだ晴天の様な青い瞳をしており、時折りよく動く小さな赤い舌を出し入れしながら、青く輝く瞳に映る世界をどこまでも突き進んでいた。
その蛇には、不思議な力があった。
不思議と、水のある場所や雨の降る時間がわかり、そして何よりも少量の水であれば意のままに動かすことができた。
と言っても、操れる水はせいぜいが、人でいう所のお椀の一杯程度。水のある場所がわかるといっても、右か左かどっちか近いかの勘が働く程度。けして凄すぎる力というものではなかった。
水と相性のいい蛇は、そのまま何となく水の近くにある場所で過ごすようになり、小さな清流や澄んだ池の近くに出没するようになった。
時折人の目に映るうちに、水を操り、雨や沢がわかるこの小さな蛇は人によって水神と呼ぶものが現れるようになった。
こうして蛇は、小さな山奥の中の村で、水神となった。
※※※※※
蛇が水神と呼ばれるようになってから、十数年が経った。
子供の腕程度しかなかった長さもそれなりに大きくなり、太さもそれなりに大きくなったものだが、白い鱗と青い瞳は相変わらずに美しく、いかにも立派でそれなりに水神らしいようにも見えた。
しかし、不思議な力は相も変わらず何となく程度の勘と、少ない水を操る程度の力しかなかった。
そんなある日、蛇は退屈しのぎに縄張りにしている森から抜け出して、ちょっとした冒険心で森から一番遠い水源まで散策を始めた。
そうして、昼頃までゆっくりと腹這いで散策した蛇が見つけたのは、蛇が今までの生涯で見た中で一番大きな川だった。
とはいえ、その大きさは人の目から見れば大したものではない。
深さはあるといっても大人の腰ほどまでしかなく、対岸までの距離もせいぜいが一丈、3メートルくらいまでしかない。流れも特に強いということもない、取り立てて変わったところのない川だった。
強いて言えば、ところどころに葦が生えているのが見えるのが特徴と言えるほどであろうか。
そんな特徴と言えるほどの特徴もなく、ただひたすらにありふれただけの風景でも、初めて見る蛇の目にはとてつもなく雄大な光景のように思えた。
蛇にとってのはじめての冒険は、驚きと新鮮な喜びを蛇の心に刻み付け、これに満足した蛇は、少しだけ乾いた喉を潤そうと川べりに近づいた。
そして気づいた。
蛇が飲もうとしている川の上流には一人の男神が憔悴した様子で立ち尽くしており、やがて着ていた衣服を脱ぎ棄ててゆっくりと川の中に入り始めた。
不思議なこと、人に似た姿をしたその人影を見て、蛇にはすぐにそれが人ではなく神であると理解した。
それだけの力を、その人影はその身に大きくまとっていた。
当時の蛇は知らぬことではあったが、それは伊邪那岐という神であり、瑞穂の国の礎を創り出した創世の神の一柱であった。
彼は、伊邪那美という死んだ妻に逢う為に黄泉の国へと一度降り、そしてイザナミから受けた黄泉の瘴気を祓う為に禊を行う為に阿波岐原の川に赴いていたのだった。
蛇は、葦の葉の間に隠れて、そっと伊邪那岐の様子を伺うと、伊邪那岐は川の中ほどまで歩み入り、そこでゆっくりと川の中に身を沈めだした。
やがて、阿波岐原の川の水には泥水の様に濁り、やがて凝えた水の中からは二柱の神が生まれた。
伊邪那岐が落とした穢れから生まれたのは、大禍津日神と八十禍津日神という神であり、災禍を引き起こす神であった。
邪悪な気配を漂わせ、此の世の全てを憎むかのようなその神々は、暴風と共に去って行った。
禍津日神の姿を見た伊邪那岐が、黄泉の穢れの凄まじさに茫然としていると、伊邪那岐の髪の毛から滴った雫が穢れた水の中で上澄みとなり、その上澄みからは穢れを癒すための神である、大直毘神と、神直毘神と、伊豆之亮の三柱の神が生まれた。
先ほどの神々とは違い、正常な気配を漂わせているその神々は、清涼な風と共に颯爽と立ち去った。
直毘神の姿を見た伊邪那岐は、此の世を癒す神々の姿に希望を見出すと、最後に、左の眼を洗って天照大御神を生み、右の眼を洗って月読命を生み、そして鼻を洗って素戔嗚尊を生んだ。
伊邪那岐は、太陽と光を司る天照大御神には、天津神の王として天上の世界である高天原を治めるように言った。
次に伊邪那岐は、月と闇と司る月読命には、妖怪達の王として夜の世界で妖怪を監視するように夜之食国を治めるように言った。
そして最後に伊邪那岐は、破壊と暴力を司る素戔嗚尊に、伊邪那岐と共に服ぬ神々を治めるべく、滄海原を治める様に言った。
そして、禊を澄ました伊邪那岐は、三柱の最も尊き神々と共に阿波岐原の川を立ち去ったのだった。
やがて、神々が立ち去ったのを確認したその蛇は、余りにも強い力がこの場立ち去ったことに安堵し、乾いた喉を潤すべく、黄泉の穢れを孕んだ水を飲んだのだった。
異変はすぐに起こった。
蛇は、突如として体内から焼け落ちるような激しい痛みと、全身が爛れ落ちる様な焼ける苦しみに、喉の奥からはしゅうしゅうと音にもならぬ声を鳴らして、その場をただただ延々と苦しみのたうった。
ただひたすらに死ぬような苦しみの中で、生きることを諦めたくなるような痛みの中で全身をのたうたせたその蛇は、地面に強く全身を打った所為で傷だらけで血に染まり、その血が乾いて黒く染まった不吉な色へと変貌していた。
その瞳は、今までの空を思わせるような青ではなく、天を焦がす炎のような、鈍く乾いた血の様な、黒く濁った赤だった。
これが、後の世に言う悪神『八岐大蛇』の始まりだった。