義民の末裔 その一
『 義民の末裔 』
私は今、大きな石碑の前に佇んでいる。
秋の爽やかな風が松の梢を揺らし、涼やかな音を響かせて過ぎ去っていく。
風は、遠い昔に聴いた子守唄のように、私の耳の鼓膜も揺らし、過ぎ去っていく。
元文三年(一七三八年)九月、磐城平領内全土を揺るがした百姓大一揆が起こった。
龍ヶ城と呼ばれた磐城平城は数多の蓆旗を掲げた二万数千人の百姓たちに囲まれた。
城に籠った藩士たちの中には、百姓たちの竹槍の穂先にかかり、果てるよりはむしろ、切腹による潔い死を覚悟した藩士も居た、と伝わっている。
この一揆は後年、『元文磐城百姓大一揆』と呼ばれた。
一揆終息後、首謀者と目された十名の農民が打首・獄門となった。この者たちは『元文義民』と呼ばれ、いわき市内の鎌田山に顕彰義民碑が建てられている。
十名の内、八人が翌年の八月二十三日に処刑された。先立つこと、同年五月二十二日に一人、遅れて、十月二十七日に一人と、計十人がこの一揆の首謀者として処刑された。
但し、この『元文義民碑』には九名の名前しか記されていない。この石碑が造られた当時、昭和二十五年五月五日の時点では、相馬からたまたまこの磐城に来て、この一揆に関わり、首謀者の一人として処刑された荒田目村・伊三郎に関しては調査が行き届かず、碑文記載から洩れてしまったようだ。十人の中で、二人が死罪・獄門七日晒し、八人が死罪・獄門三日晒しとなった。元文は享保に次ぐ元号であり、時の将軍は八代・徳川吉宗である。
そして、江戸南町奉行として世上名高い大岡越前守忠相はこの一揆で処刑された一人と関わりを持っている。
十月に処刑された荒田目村・喜惣治と云う者は十一年前に江戸へ出て、藩の苛税を告発した文書を認め、目安箱に投書した。時の町奉行・大岡忠相はこの投書を一読後、焼却し、越訴であるとして、出府していた喜惣治を捕らえ、国許の磐城平藩に引き渡した。
磐城平藩はこの喜惣治を不届き者として、永牢(終身牢)に処した。生きて、牢から出ることは許さない、という重い処分であった。しかし、一揆が起こり、図らずも、喜惣治は牢から出ることができた。一揆衆によって牢が破られ、喜惣治がいわゆる『娑婆』に出たのは十一年振りであった。十一年前の入牢の際、喜惣治の年老いた父親も連座制により一緒に投獄されたが、この父は既に牢内で病死していた、と伝わっている。十一年振りに、一揆衆に救出され、牢を出た喜惣治の胸に去来した思いはどのような思いであったろうか。
佐藤という友人が居る。中学は異なっていたが、高校で同級となった。
早いもので、もう、五十年ばかり、昔の話となる。
隣の席ということで、入学当初からよく会話を交わした。結構、話が合った。
いわゆる、馬が合ったと云うのであろうか、すぐ親友になった。大学は別だったが、時々はお互いの下宿先に遊びに行き、泊り込んで、いろいろなことを語り合ったものだった。
或る時、お互いの先祖の話になったことがある。私が王子駅近くの佐藤の下宿に遊びに行った時のことだった。私は寝そべり、佐藤はギターをポロポロと弾いていた。
「俺の先祖は湯長谷藩の侍だった」
と、私が言うと、佐藤はニヤリと笑いながら言った。
「磐城平藩の分家の藩だろう。確か、一万石程度の藩かな」
「そうさ、一万石だから、城は持てず、湯長谷舘という舘だけが、下湯長谷にあった」
「武藤は武士の出か。俺は百姓の出だよ」
「佐藤の顔は百姓の顔には見えない。どちらかと言えば、俺より侍顔だよ」
磐城平藩は、元々は所領十万石の藩であったが、分藩して、泉藩二万石、湯長谷藩一万石をつくり、磐城平藩としては七万石の藩になった。
「もっとも、先祖は二、三十石取りくらいの下級武士だったらしい。幕末の頃、武士をやめて、酒屋を始めたという話だ」
佐藤はギターを弾く手を止めた。
そして、ふっと真顔になって、呟くような口調で言った。
「俺の先祖は打首・獄門になったんだよ」
私は驚き、佐藤の顔をまじまじと見詰めた。打首・獄門という言葉を聞いて、私は人殺しとか盗賊とかいった犯罪者を先祖に持つのか、と思ったのである。
私は一瞬言葉を失った。驚いた表情をした私を見て、佐藤はニヤリと笑った。
「武藤。君は元文の磐城百姓一揆を知っているかい」
佐藤が私に尋ねた。私は、元文の磐城百姓一揆、という言葉を聞いたことがなかった。
「いや、知らない。初めて、聞いた。何だい、その元文の一揆というのは」
佐藤は少し拍子抜けしたような表情で言った。
「そうか。やっぱり、知らないのか。まあ、知らないのも無理はないか」
佐藤は部屋の片隅にある本棚に近づき、数冊ほど取り出して、私に渡した。
全て、元文磐城百姓一揆に関する本であった。
「武藤。今夜はこのまま泊まっていくんだろう。どうせ、暇なんだから、読んでみなよ」
私は興味を惹かれ、数冊ある中で、薄手のものから読み始めることとした。
元文百姓一揆は元文三年に磐城平藩で起こった大一揆であった。当時の藩主は内籐政樹という徳川譜代の大名であった。政樹は六代目の藩主であった。十二歳で藩主に就任したが、この就任の際、松賀族之助という家老に毒饅頭で危うく毒殺されそうになったと云う逸話が残されている。父と同じく俳諧を趣味とし、和算にも通じた文化人でもあり、人情厚い人柄で領民から仁君、名君と崇められていたとも云われている殿様であった。一揆が起こった元文三年当時は、三十二歳という、まさに男盛りの時であった。
しかし、この殿様は一揆関係の本では、世間知らずの圧制君主とされている。
この一揆は、藩主内藤政樹の長年にわたる苛税取立に耐えかねた磐城領内の百姓が十八ヶ条の請願書を掲げ、二万数千人という集団となって磐城平城に押し寄せた一揆であった。
一揆を主導した指導者の大半は人望厚い名主であり、年齢も二十代の若者が多かったと伝えられている。正義感の強い青年名主たちであったのだろう。いつの時代でも、理の是非はともかく、青年の正義感は強く、激しい。一揆の結果、請願の主たる条項は藩によって容認されたものの、全面的な要求貫徹とまでは至らず、一揆を主導した頭取と目された者が十名、死罪・獄門(晒し首)となって、一揆は終息した。
打首となった十名中、九名が名主であった。