第9章
私は、手を縛っているビニールのヒモを、何とか緩めることに成功した。
ヤマンバは、囲炉裏の火力が弱まっているのに気付き「もっと焚き木を入れんか」
「そうだな」と爺さんは台所に降りて、薪がストックしてある所に行った。「ありゃ?ねえわ」
「納屋にあるだろ」
「いや、あっちのは、風呂を焚くのに使っちまった」
ヤマンバは、爺さんのゆったりとした調子に苛立って「じゃあ、早く薪割りせんかい!」と怒鳴った。
「はいよ」と爺さんは平然と斧を担いで、ゆっくりとした足取りで外に出ていった。
「全くしょうがないねえ。人間を鍋でやる時には、強火でやらんといけないのにね」
ヤマンバは独り言を呟くと、「まな板の鯉」状態の私らを見た。
「ゲゲゲ!怖いか?そうだろそうだろ。もう少しの辛抱だからな。4人まとめて、あの世へ行かせてやるから、心配すんな!」
それを聞いた理奈は大声で泣き叫んだ。育子も同調したようにしくしく泣きだした。浩介は憔悴したように目を半開きにしてぐったりしていた。
ヤマンバは、再び、包丁研ぎに没頭した。
外からは、爺さんが薪割りをする音が聞こえてきた。
今がチャンスだ!
自由になった両手で、背中に置かれた漬物石をゆっくりと静かにずらしながら、床に置いた。そして、体を丸めて足のヒモを外した。
さて、どうするか?
ヤマンバは、こちらに背を向けている。
まずは、隣の浩介のヒモを解いて自由にし、2人がかりで、この化け物を抑え込み、囲炉裏の灰の中に顔を突っ込ませよう。両手両足を縛って動けなくし、そして、育子と理奈を自由にさせ・・・いや、その前に入口の戸を閉めた方がいいな。爺さんが気づいたら厄介だ。その後は・・・一目散に、裏の縁側まで走って脱出するか。
どうなるか分からんが、やるしかない!
浩介を小突き、注意を促した。息子は驚き、声を上げようとしたが、静かにと合図した。
手足のヒモを外してやった。そして、頭をヤマンバの方に振って頷いてみせた。
利発な浩介は、全てを悟ったように、了解の合図をした。
私たちは、一斉にヤマンバに襲い掛かった。
「ウギャ!なに・・・」
ヤマンバの頭を丸ごと、灰の中に突っ込んだ。
激しく暴れたが、浩介と2人で何とか抑え込んだ。
「よし、あの戸を閉めて、つっかえ棒をしろ」と浩介に言った。
浩介は、土間に駆け下りて戸を静かに閉め、つっかえをした。幸い、爺さんは薪割りに夢中で、気づいていない様子だった。
ヤマンバは、なおも手足をバタつかせていたが、次第に大人しくなってきた。頭の大口に大量の灰が入ってしまい、さすがの妖怪も、為すすべがなかったようだ。
「2人のヒモをほどいてやれ」と憔悴しきっている育子と理奈の方に首を振った。
浩介は、2人の体を自由にしてやった。
「あなた!」「お父さん!」母と娘は泣き叫んだ。
やばい!
「シーッ、静かにしろ」
しまったと思った。薪割りの音が止まったからだ。
戸がガタガタと鳴った。爺さんの怒鳴り声。ドンドンと叩く音。
「どうした?婆サマ!おい、返事しろや!」
「早く裏から逃げろ!」私は、ヤマンバの頭を灰の中に抑え込んだまま、叫んだ。
理奈と浩介は、一目散に逃げだしたが、育子は迷っている風にとどまっていた。
「どうした?」
「あなたはどうするの?」
「俺の事なんかどうでもいい!いいから逃げろ!」と鬼気迫った表情で怒鳴った。
入口の戸から、バリバリという音がした。斧で壊そうとしているのだ。
「ほら、早くしろ!」
「でも・・・」
すでに、戸は半壊状態だった。
私は、グズグズしている育子に本気で怒り、思わずヤマンバを抑えていた右手を放し、思いきり妻の頬をビンタした。
「死にたいのか!いい加減に・・・」
その時、ヤマンバの頭が、灰の中から出てきた。
赤い顔色が、さらに燃えるような色になっていた。
そして、口元の牙で、私の右手を思い切り噛んだ。
「あぁぁ!」
血がドクドク流れ、千切れんばかりにグチャグチャになった。
あまりの激痛に、私は仰向けに倒れた。
すぐさま、ヤマンバは体を起こし、立ち上がった。
さらに、頭の大口から、蛇のように舌が飛び出してきて、私の首に巻き付いてきた。
「うげっ!」
育子の絶叫が聞こえた。爺さんが戸を打ち破り、土間に駆け込む音が聞こえた。そして・・・
「この野郎!ふざけた真似しやがって!!こうしてくれるわ!!!」
ヤマンバは雄たけびを上げると、舌で、私の体を完全に持ち上げ、振り回し、大口の中に放り込んだ。
***
わたしは、無言になったわ。
主人が叫び声を上げ、婆ちゃんの大口に食われちゃって、そこから噴水のように血が飛んだから・・・
囲炉裏のある、その板敷きの場所は、血の海になったの。
すべての動きがゆっくりになった。
婆ちゃんの血だらけだけど満足そうな顔。爺ちゃんの襲いかかろうとする様子。
40数年生きてきて、こんな光景は初めて。あの震災だって、TVの中の出来事だったし。
でも、これは今まさに、わが身に起こっている現実なのよ。
そんな・・・こんなとこで死にたくない!
わたしは後ろを向いて、全力疾走で廊下に駆けだしたわ。
後ろからは「待ちやがれ!ぶっ殺してやんぞぉ~!!」との叫び声。
裏の縁側を目指して無我夢中で走った。でも、脂肪たっぷりの肥えた体では、スピードに限度があるの。
ああ、やっぱりダイエットするべきだったわね・・・
怖い、ホントに怖いの!誰か助けて!
あなた、どうすればいいの?
死んでしまうなんて・・・
いつもおっとりしてて、よく私に叱られてた、あなた。
あんな勇気があったなんて、思ってもみなかった。
それに引き換え、わたしはダメね・・・
家族を引っ張っていたのは、いつも、このわたしだった。
今回の旅行だって、わたしがお膳立てしたものよ。職場の保育園でも、姉御肌でリーダー格だったのに・・・
ハアハア、息が切れる!
「このクソ女め!」「待ぁ~てい!」まるでコーラスのように合わさって、追いかけてくる!
でも、もうすぐで外に出られるわ。
バタ!
うん?
振り返ると、2人とも折り重なるようにコケてしまったの。
チャンス!
「アイタタ!おい!何やってんじゃ!」と悔しそうな声が聞こえたわ。
何とか、助かりそう。
そして、ついに縁側に出たの!
雨は完全に止んでいて、理奈と浩介が待ってた。
え?何やってんの!
思わず叫んだわ。「早く!早く逃げなさい!」
浩介は、素早く行動に移したよ。雑木林の中に逃げ込んだの。
でも、理奈は、泣きながら突っ立ったまま。
わたしは、理奈の体を激しく揺さぶった。「しっかりして!」
後ろを振り返ると、廊下の奥には闇が広がっていて、そこから聞こえてくるの。
あいつらの足音が。
どんどん近くなってくる!ヤバい!
「さあ、早く!」
理奈の体を雑木林の方角に向けて、強く押したの。そしたら、ようやく走り出したわ。
わたしも後に続こうと思ったんだけど、もう、あいつらが縁側に来てしまったの。
「ガキどもは?どこ行きやがった!」
わたしは、理奈と別方向に逃げることにしたわ。右側の、小川が流れている方角にね。
「お!待てコラ!」
爺ちゃんが追いかけてきた。
婆ちゃんは、理奈を追いかけることにしたんだと思う、姿が見えなかった。
小さな裏庭を抜けると、ゆるい傾斜になっていて、そこを駆け下りたわ。真っ暗でよくわかんなかったんだけど、とにかく川の音がしたから、そっちの方へ逃げたわけ。
そして川べりに出た。
靴下のままだったんだけど、直感で川を超えることにしたの。
小さな川だから、難なく向こう岸に行けたんだけど、水が冷たいの何の!靴下はびしょ濡れだし、参っちゃった。
だから、余計にスピードが鈍ってしまったみたい。見る見るうちに、追いつかれそうになったの。
アイツは、頭にヘッドライトを付けていた。
その光が激しく揺れながら、前方を照らしていたわ。
それを頼りに、川沿いを逃げていったんだけど、もう息が上がっちゃって無理だった。
力の限り叫んだわ。「誰かぁ~助けてえ~!!!」
でも、聞こえるのは、あいつの荒い息遣いと不気味な笑い声だけ・・・
「ケケケ!大声で喚いても無駄だぞ!こんな山奥なんだからな!」
ハアハアハア、もうダメ・・・肩にがっしりと、大きな手がかかったわ。
「ギャー!!!放してえ~」
でも、無力だった。押し倒されてしまったの。
口に、落ち葉や土が入ってきて、思わず咳き込んだわ。
・・・そして、あいつの重さが物凄く感じられた。
鼻息が、ヨダレが、そして・・・ゴツゴツの手が、わたしのロングスカートをめくったのが感じられた。
「イヤあ~!!!」
「奥さんよ、あんたの大根足、なかなかのモンだなあ、ケケケ!」