第8章
・・・いや、夢かもしれない。
なぜなら、いつの間にか、どこか知らない場所に寝ていたからだ。
起き上がろうとするが、起き上がれない。
回りを見ると、家族もいない。
豪華な和室のようだ。
旅館みたいだな。
そうだ、ここは、泊まる予定だったとこじゃないか!
・・・ということは、あの怪しい老夫婦は、やっぱり夢だったんだ。
山奥に迷い込んだのも、そうかもしれない。
いやあ、とんでもない悪夢だったなあ・・・
・・・だけど、どこからが現実なんだろう?
少なくとも、渋滞に巻き込まれたところまでは、はっきりと覚えている。
そこから先が、まるで思い出せないのだ。
うむ。
とにかく起きよう。今は何時なんだ?
暗いな。まだ夜なのか?
しかし、やはり起き上がることができない。どうしたんだ?
何か、見えない力に押さえつけられているような・・・
すると、目の前に、浩介が現れた。
顔中が血だらけだった。
「どうしたんだ?お前!」
「うん。やっぱり、あのジジイとババアはさ、ムカつくからさ、ぶち殺したよ」
「え?」
「お母さんとお姉ちゃんと3人でね」
「まさか!」
「うん、僕も、やる時はやるんだよ」
「しかし・・・」
「ついでに、母さんたちも殺しちゃった」
「何だって!」
「よくあることだよ。物のはずみってやつ」
「正気なのか・・・」
「そんなこと、どうでもいいよ。父さんもすぐにあの世へ・・・」
浩介が巨大なハサミを振りかざしたので、私は激しく抵抗した。
無我夢中で、浩介の手をつかもうとすると、視界がぼやけてきた。
「お父さん、起きてってば」
浩介が激しく揺さぶってきた。そばに置いてあったメガネをかけた。
顔に血はないし、巨大なハサミも持っていなかった。
今いる場所も、依然として、あの老夫婦の家、壁の無い十畳ほどの和室だった。
暗闇の中で、浩介は必死の形相だった。
「やばいよ」と耳元で囁きながらも、悲壮な調子を帯びていた。
「どうした?」
「トイレに行こうと思って廊下に出たら、囲炉裏のあるとこから、明かりが見えたんだ」
浩介はそっと近づいて、襖の隙間から、中の様子を覗いたのだ。何と、老婆の頭に、もう一つ大きな「口」がぱっかりと開いていた。顔も真っ赤で、本来の口からは牙が生えていた。明らかに、人間とは思えない。「ゲゲゲ!今夜は4人も食えるぞ!」と言いながら、囲炉裏の鍋をかき回している。・・・いや、それは巨大な大鍋に変わっており、浩介くらいの子供なら丸ごと入りそうだ。異形の彼女は立ったまま、その大鍋に見合うような、これまた大きなお玉でかき回していた。重そうなお玉だったが、軽々と扱っていた。怪力の持ち主に違いない。老爺の方は、特段、変わったところはなかった。台所で、野菜か何かを切っているらしい。「おい、あんまり大声を出すと起きちまうぞ」「あん?オレはヤマンバ様だぞ!おまえみたいな人間なんか一発でぶち殺せるんだぞ!」とヤマンバは、お玉を爺さんの方に向けながら怒った。「ああ、わかったわかった。すまんなあ・・・」と哀れな老人は頭を掻いた。「気を付けろよ。雑用係で、便利だから、生かしてやってるだけなんだからな。あんまり図に乗ると、お前さんも食っちまうぞ!」と言うと、頭のてっぺんの大口がパクパクと動き、牙が光った。「すまねえ。許してくれ」と手を合わせて慈悲を乞うた。「おめえとは、もう10年くれえになるな。・・・そろそろ、新しい爺さんを見つけてくるか、え?」と赤ら顔に薄気味悪い笑みを浮かべた。「それだけは勘弁してくれ!まだ、死にたくねーよ!」と土下座した。「どうするかなあ・・・また東京へ行って、若い女に化けて、乞食を騙して連れてくるのも億劫だしなあ・・・」と言いながら、ヤマンバは、素早く浩介のいる方向に視線を向け「そこにいるのは誰じゃ!」と目にも止まらぬ早さで駆け出し、襖を乱暴に開けた。しかし、浩介も運動神経はあるので、素早く廊下の陰に隠れた。裸電球1個だけの薄暗い廊下、ヤマンバは注意深く、辺りを見回したが「ふん、気のせいか・・・」と茶の間に戻り、襖を閉めた。
・・・浩介の恐ろしい話は、以上だった。
冷や汗がダラダラと出てきた。
「どうしたの?しっかりして」
浩介が心配そうに言った。
落ち着け。冷静になれ。
とにかく、ここから逃げ出さねば!
「廊下の様子を見といてくれないか」
浩介に指示し、それから育子と理奈を起こした。
びっくりする女2人を、私は、口に人差し指を当てて静かにするよう制し、事情を説明した。
育子は比較的冷静だったが、理奈は今にも大声を上げそうであった。
「しっかりして。お父さんの言う通りにするの。荷物はいいから、さあ、早く逃げるわよ」
育子はそう言って、理奈を落ち着かせた。
私は、浩介のそばに行った。腹ばいになって、障子の隙間から監視している。
「どうだ?」
「大丈夫」
「左から逃げるしかないな」
右は、茶の間の方角。左は、廊下の突き当りで右に折れている。窓からでも、裏手に出られるはず。
雷鳴や雨音は聞こえない。嵐は過ぎ去ったようだ。
「でも、靴はどうすんの?」
「しょうがない。このまま、車まで走っていくしかないよ」
雨でぬかるんで、泥だらけになりそうだが、そんなのは問題にならない。
命が掛かっているのだ。
育子と理奈が、後ろに寄ってきた。
「いいかい?俺の後ろについて、一目散に車まで逃げるんだ。大変だけど頑張れ」
2人は、しっかりと頷いた。
襖を開け、静かに廊下に出て、右の方を見た。茶の間から明かりが漏れているが、話し声などは聞こえない。後ろの3人を手招きして、左に進み、廊下の角を曲がった。縁側らしく、雨戸が10メートルほど続いている。その内の1つを開けようとするが、固くて開かない。
「浩介、手伝ってくれ」
浩介が助太刀したが、びくともしない。
育子と理奈が加勢して、ようやく横にスライドし始めた。
外は、すぐそばまで、雑木林が鬱蒼と茂っていた。雨は小降りになっている。
よし、行くぞ!
すると、目の前に爺さんが現れた。
大きな斧を振りかざしてきた!
理奈の悲鳴。
「こらあ!勝手に逃げようたって、そうは行かないよ!」
縁側の向こうからは、ヤマンバが、牙を剥き出して鬼のような形相で叫んでくる。
たすき掛けの和服姿。手には薙刀を持って、こちらに向かって走り出した。
育子の絶叫。
「逃げろ!」
私たちは、元の方向に逃げ出した。
廊下を一目散に駆けた。
後ろからは、ヤマンバの不気味な声が・・・
「こら待てえ~逃がさんぞ~」
突き当りにぶつかった。
どっちに逃げるか?右は風呂場のはず。咄嗟に左の板戸を開けた。
そこは貯蔵庫のようだった。食料の。人間の。
何体もの人間が、逆さ吊りでビニールに入れられ、フックに吊り下げられていた。
今度は、浩介も私も、叫び声を上げた。
すぐ真後ろに、ヤマンバと爺さんがいた。
あっという間に、斧と薙刀の柄の部分で、我ら行方家は気絶させられてしまった。
暗黒から覚めた。そこは生き地獄だった。縛られていた。巨大な鉄製の鍋が目の前にあった。グツグツ煮えたぎっていた。
起き上がろうとするが、背中に、何か重い物が乗っているため、腹ばいの状態でいるしかなかった。
周りを見ると、隣に浩介、鍋の向こう側には育子と理奈が、同じように両手両足を縛られて寝かされ、そして背中には、巨大な漬物石みたいなものが乗せられていた。
皆、恐怖ですくみ上がっている。
ヤマンバは、これまた巨大な、石でできたまな板を抱えて、台所から茶の間に上がってきた。そして、それを床にドシンと置いた。
「おい、デカ包丁を持ってきておくれ」
爺さんは、流しの下から、藁に包まれたモノを取り出した。
「切れるかな」
藁の外装を取ると、刃渡り50センチくらいの、重そうな肉切り包丁が姿を現した。
「どれ、貸してみい」
ヤマンバは、じれったそうに言った。
「汁がちょうどいいか見てくれ」
爺さんが渡すと、大鍋を指さした。
「ふうむ・・・」
切れ味を、太くてゴツゴツした指で確認した。
「あんま、よくねえな。1か月前に使った時は大丈夫だったんだが」
「そうだったなあ。ホンマ、可愛い子だった。殺すのは惜しかったが・・・」
お玉で味見をしていた爺さんは、笑顔を見せながら言った。
「若いほどイキのいい肉だからな、ゲゲゲ!」
ヤマンバは、台所から砥石を持ってきて、包丁をゆっくりとしたスピードで研いだ。
「そうか?オレも少し食ったけど、どうも・・・」
「やっぱ、人肉は口に合わんか?」
「ああ・・・やっぱり普通の牛とか豚がいいなあ」
理奈の顔を見ると、目を大きく見開き、「声なき声」を上げているようだった。
私は決心した。
もはや、こうなったらイチかバチか。
どうせ、遅かれ早かれ、死ぬんだ。52年の人生、悔いはない。
何としても、この子たちだけは、無事に生還させなければならない!