第7章
「これでいいでしょ」
彼は満足そうに私を見た。
しかし、残りの「課題」があった。風呂にびっしり、こびり付いているカビだ。
「そうですね・・・」
「まだ、ご不満か?」
「いえ、ただ・・・」
彼は少し苛立たし気に聞いた。
「うん?はっきり言ったらどうなの!」
「このカビなんですが」
該当の箇所を指さした。
「老眼でな、よく見えんが・・・」
彼は顔を風呂の側面に近づけた。「おう、びっしりカビがあるなあ!」
「ええ」
「で、これを何とかしろと言うわけか?」と彼は体を起こして顎に手を当てながら言った。
「はあ」
私はそのシワだらけの目をはっきりと見ながら頷いた。
「そうか。でもな、これ洗うの大変だぞ」
「そうでしょうか。簡単にササっとやっちゃいません?」とやんわりと急かした。
彼は溜息をつきながら言った。
「じゃ、洗うか」
私たちは、スポンジとデッキブラシで、ゴシゴシと洗った。
5分ほどして、老婆がやってきた。「どうした?何かあったの?」
彼は、汗を掻きながら「見りゃわかるだろ。掃除してるんだよ」と言った。
私は、ヒノキ風呂の中から立ち上がって「すみません。僕が無理を言ったもんで・・・」と弁解した。
「ああ」彼女は意外そうな顔をした。
「いやなに、風呂が汚いって言うんでな」年老いた夫が説明する。
「いえ、汚いって言いますか、そのう・・・」私は慌てて言った。
「ほう・・・そりゃあ悪うござんしたね。まあ、ここは旅館じゃないし、そんなこと言われても・・・」彼女は皮肉を言ったが、それを遮るように、彼が「な~に、若いお嬢ちゃんも入るんだから、綺麗にせんとな?」と私に確認するように言った。さらに「ここにずっと暮らしてるオレらとは違うんだから、そりゃいろいろ気になるわな、ケケケ!」と、少し険悪になりかけた空気を笑い飛ばしてくれた。
私は、流れてくる汗を手で拭った。ポロシャツを脱ぎたい気分だった。
彼女は、納得したように「なるほどね」と鼻を鳴らした。そして「あんた、いつまでも酔っぱらってる場合じゃないよ。今夜は長くなりそうなんだから、ちゃんとやりな」と意味深長な言葉を言って、戻っていった。
彼は深く頷いていた。
「さあて水も張ったし、後は、薪で火を起こすだけだ」
数分後、彼はそう言うと、少し目つきが険しくなった。
私は、薪で火を起こすのを見たことがないので、興味津々だった。
が、彼は言った。
「もう、オレ1人で十分だ」
「そうですか、でも・・・」
「ええから、あんたは戻って休んでればええ。疲れたろ?」
急に凄みのある声になった。
その迫力に気おされて、茶の間に戻っていった。
茶の間には、老婆が1人きりで、大きな包丁を研いでいた。
着物の袂を、たすき掛けで縛って、気合が入っている感じだ。
だが、その恍惚とした表情は不気味で・・・
「あのう」と声をかけた。
彼女は、ゆっくりと顔を私に向けた。
ポカンとした表情で見つめた後、目を細めて「あん?」
「えーと、子どもたちは・・・」
「ああ」
彼女は立ち上がり、付いてくるような仕草をして、廊下に出た。
右に曲がり、すぐ左側の部屋に入った。
十畳ほどの和室で、四方に、大小様々な段ボールが雑然と置かれていた。
物置代わりなのだろう。真ん中の空いたスペースに、育子ら3人が座っていた。
「布団がないから、あれだけども」
老婆が入口近くに立ったまま、言った。
天井からは、古い和式の傘でカバーしてある蛍光灯が下がっていた。
うす暗かった。
3人の家族は一斉に、明らかに不満そうな顔を向けた。
私は、とりあえず「大丈夫です。何とかなりますよ」と言うことにした。
「そうかい」
彼女は、そう軽く言うと、障子を閉めた。
育子の隣に座った。その畳は、湿っぽくて黒ずんでいた。
「ちょっと、ここで雑魚寝はきつくない?」
育子が聞いてきた。
「ムリだよ~車で寝た方がマシだよ」
理奈が不満を漏らした。
「それに、あの人たち・・・何か、怪しい感じ」
浩介が独り言のように呟いた。
部屋を見回した。入口以外の三方が、窓のない漆喰の壁だった。確かに、あまり居心地がいいとはいえない。
「じゃあ、車に戻るか」と言うと、理奈が力強く「うん!そうしよう!」と賛成し、育子と浩介も賛同した。
ふと、障子の外に人の気配がした。
私は立ち上がり、障子を勢いよく開けた。
老爺が立っていた。無表情で私を見つめた後、すぐ笑顔になった。
「風呂が沸いたから、入りなさい」
「はあ。・・・あのう、やっぱりご迷惑でしょうから、車の中で寝ようと思うんですが」
「へえ、何でまた?」
「いや、そのう・・・」
彼は皮肉な笑い声を上げた。
「ここじゃご不満かい?ケケケ!」
「そういうわけじゃ・・・」
優柔不断な私の態度を見かねてか、育子が出てきた。
「せっかくのご厚意で申し訳ないんですけど、ちょっとあまりにも・・・」
「なるほどなあ。いやあ、ここはずっと物置みたいな感じで使ってたからな。でも、車で窮屈に寝るよりはマシじゃないかい?」
「それはそうですけども、まあ、一晩だけですし・・・」
「・・・そうかい。ま、あんたらがそう言うんなら、好きにすればいい」
彼は突き放したように言った。
「すみません」
育子は頭を下げた。
「でもな、風呂だけでも入ったらどう?な、お嬢ちゃん?」
彼は、育子と私の間から覗き込むように、理奈に話しかけた。
「・・・はあ」
理奈は気乗りしなさそうに頷いた。
「そうね、せっかくの薪風呂ですものね・・・汗びっしょりだし」
育子が納得したように答えた。
「うむ」
私は戸惑った。
浩介だけは口を尖らせて不満の意思表示をした。
結局、育子と理奈が、先に入ることになった。
ヒノキ風呂にたっぷりと入れられたお湯。汗を流しながら掃除したんだ。快適に入浴していることだろう。
実際、風呂から戻ってきた育子は、いいお風呂だったと感想を述べた。
・・・が、理奈は、憤懣やるかたない調子で「覗かれたの!あの爺さんに!」
浴室には、木製の格子がついた窓があった。そこから、彼の声がしたという。「湯加減はどうだい?」
育子は、ちょうどいいと答えた。すると隙間から、湯気の向こうに顔が見えたという。「ケケケ。そうかね?」育子はたしなめた。娘もいるので、と。「そうだったそうだった!悪かったねえ、堪忍な。ケケケ!」
育子は、タオルで髪を拭きながら「そんな大したことじゃないのよ。大袈裟ねえ、理奈ったら」と苦笑した。
理奈は「えー、そうかなあ」と納得がいかない顔で答えた。
浩介が「やっぱり怪しいよ。気持ち悪いよ」と言った。
私が「まあまあ、落ち着きなさい。もう出て行くんだから・・・」と言いかけると、遠くの方で雷鳴が聞こえた。
「雷かしらね?」と育子が聞いてきた。
「うん」
程なくして、雨の降る音がしてきた。
「なんか、イヤな予感がする・・・」と浩介が不安な表情で言った。
「こりゃいかん。風呂に入ってる場合じゃないな」と私は立ち上がった。
「早く、車んとこへ行こう!」と浩介は小走りで入口へ向かい、障子を開けた。
さらに、大きな雷の音が轟いた。
「早く荷物を持って!」私は、キョトンとして座っている妻と娘を急かした。
私たち4人は、急いで荷物を持って、廊下を通り、囲炉裏のある茶の間に行った。
だが、そこには、老夫婦が、仁王立ちで立ちふさがる様にいた。
「どこに行くんだい?」
老婆が、私たちを舐めまわすように睨んで、言った。
「・・・いえ、やはり、ご迷惑だと思うんで車に戻ろうかと」
私は、恐る恐る言い訳を述べた。
「ほう~」
老爺は薄ら笑いを浮かべ、顎をさすった。
彼女は、無言で土間に駆け下り、引き戸を横に開けた。
土砂降りの雨と雷と嵐が、とぐろを巻くように、炸裂していた。
「これでもかい!」と勝ち誇ったように叫んだ。
私たち一家は、顔を見合わせた。
勝負あり。
こうして、再び、あの陰鬱な和室に戻り、雑魚寝をすることになった。
相変わらず、雷鳴と風の唸るような音がして、眠れなかった。
育子が呟いた。
「早く、朝にならないかしら?」
私は両手に頭をのせた。
「うん」
育子は寝返りを打った。
「浩介の言う通りかもね。あの人たち、何だか怖い」
理奈が嫌悪感を込めながら同意した。
「そうだよね~キモイよね」
浩介が皮肉な調子でぼやいた。
「今頃、気づいても遅いんだけど・・・」
私は、なぜか笑った。
「どうしたの?」
育子が怒気を含んだ声で聞いてきた。
「いや別に」
まさか、こんなことになるとは夢にも思わなかった。