第6章
台所を注意深く見ていた私の背後から育子が囁く。
「おいしそうだね」
「うん・・・」と力なく答えた。
煙がモクモクと出ている。
煮えたぎった鍋。
婆さん、「よっこらしょ」と両手で持ちながら、青いサンダルを脱いで囲炉裏にセッティング。
「いい匂い~」と育子。2人の子供も腹がペコペコだからか、興味深そうに鍋を見つめている。かく云う私も空腹には逆らえず、一旦は警戒心を解除することにした。
「まあ、大したもんは作れねえけど、腹いっぱい食えや」と老婆は鍋の汁をかき回す。味見をする。「う~ん、ちいと薄味やね。あんた、味の素持ってきておくれ」「あいよ」と爺さん。濡れた手を小汚い手拭いで拭く。引き出しを開ける。小さなガラス瓶を取り出す。こちらに持ってくる。
「囲炉裏の火はどうなっとるかな?」と火箸で灰をかき回した。すると火の勢いが強くなり、満足そうな表情を浮かべた。
婆さんが「さあさあ、遠慮せんと」と勧める。
私たち、すぐ椀を手に取る。味噌煮込みうどん。かきこむように食べる。
婆さん「残りもんだからアレだけど、汁は美味いやろ」
確かに、うどんや具はイマイチだったが、汁は格別だった。
2人の老人は囲炉裏の反対側に並んで座り、一心不乱に食べている私たち家族を、にこやかに眺めている。
「お茶を入れるか」
爺さん、戸棚から紙コップが重ねて入っている袋を取り出す。急須でお茶を入れる。
熱いお茶の入った紙コップ。ゴクゴク飲む。生き返った感じだ。
彼らは、自然と共に暮らす素朴な夫婦なのではないか。
確かに、婆さんは不気味で怪しい感じは拭えない。
爺さんは助平ではある。しかし、それは許容範囲ではなかろうか?おそらく、若い娘を目にすることなど滅多にないのだろう。都会暮らしとは違い、こういう所に住む人間は、アケスケというか、ストレートに感情を表現するのかもしれない。
若い娘か・・・そういえば、この老夫婦に子供はいるのだろうか?
後で聞いてみよう。
浩介がお茶を飲んでから、私に耳打ちしてきた。
「ご飯はないのかな?」
その様子を見ていた老婆が、急に眼光鋭くなり、聞いてきた。
「どうしたね?」
私は答えた。
「いや、あの、ご飯がないかと」
「・・・生憎と切らしちまってるんだよ」
浩介に目で合図しながら同意を求めた。
「そうですか。いえ、大丈夫です、な?」
その意図を察知した浩介は返事をした。
「うん」
坊主頭が妙にテカっている老爺は、ステテコの中に手を入れて、足を掻いた。
「月に一回、町に買い出しに行くんだけど、ここんとこ大雨でなあ・・・」
「大変ですね」
老婆は、年季の入った湯呑でお茶をすすった。
「でもないけどな。やっぱ、この山ん中が落ち着くってことだわな」
老爺は、その言葉に相槌を打った。
「まあね。体に合うっていうか。テレビもラジオもないけど・・・」
私は当然のように言った。
「ああ、ないんですか」
老婆が口を挟んだ。
「必要ないからね」
老爺は少し不服そうにした。
「うむ・・・お嬢ちゃんの持ってるような、それな、スマホっていうのかい?それもないわ」
「そんなもん、ここで役に立つと思うか?毎日毎日、畑仕事だろ。それから、狩りに行ったり釣りしたり、忙しいだろうが?」
「ああ。日が暮れると、疲れてバタンキューで、すぐ寝ちまう」
私は聞いた。
「電気はソーラーだそうで」
老爺は今度は頭を掻いた。
「おう。前はな、ガソリンだったんだが、あれは大変よ。補充すんのに、頻繁に町に降りなきゃなんないからな」
「パネルを、藁葺き屋根の上につけたわけですか?」
「ちょっと工事が大変だったけど、まあ何とかな」
「でも、冬なんかは晴れないでしょう」
「裏の倉庫に、一杯、蓄電池があるからな。まあ、そんなに電気は使わねーし、問題ねーよ」
「こんな山奥で生活しようなんて、まともな人なら考えない。あんたらだったら、1日と持たないだろうって」
食事が終わった。
老婆が台所で洗い物をしようとすると、育子も土間に降りた。
「手伝います」
老婆がにっこりした。
「そうかい。悪いねえ」
布製のふきんで皿を拭く育子。
理奈はスマホを取り出して、ネット接続を試みようとするが、やはりダメだった。
浩介は眠そうになりながら、姉がスマホゲームをするのをぼんやり眺めていたが、時折、風変りな老夫婦の様子を窺っていた。
老爺は、手で酒を飲む仕草をした。
「あんた、これ、やるのかい?」
私は苦笑いをした。
「そうですね・・・まあ、そこそこですけど」
「そこそこかい、ケケケ!どうれ、久しぶりに一杯やるか」
老爺は重い腰を上げて、土間に降りた。
下駄の音が軽快に聞こえた。
カランコロン。
冷蔵庫のドアの開く音。
「悪酔いするよ」と老婆の声。
「な~に、たまになら問題なかろうよ」と老爺のかすれたような声。
「ウフフ」と育子の笑い声。
日本酒の入った瓶の音が近づいてくる。
私は、ついさっきまで抱いていた、警戒と不信のない交ぜになった気持ちが、すっかり解消されたことに驚いた。どこか懐かしい感じがした。酔いが回ったのだろうか。
・・・そうだ、子供がいるか、聞いてみよう。
老爺は答えたくなさそうに言った。
「そんなもん、いねーよ」
その時、台所にいた老婆が、一瞬、キツイ目でこちらを見たような気がした。
しばらくの間、会話は無言となった。
何か事情がありそうだったが、深入りするのはやめよう。たった一晩、仮の宿ではないか・・・
洗い物を終えた育子と老婆が、茶の間に上がってきた。
老婆が手を拭きながら言った。
「さあて、風呂を沸かすか」
酔っぱらっている老爺は、キョトンとした表情だ。
「ほら、あんた!ぼうっとしてないで、風呂を沸かして!あたしゃ、この人たちの布団の用意するから」
「あ~分かった分かった。ヒック」
私は、フラフラと立ち上がろうとする老爺に不安を覚えた。
「大丈夫ですか」
「ああ、問題ねーよ、ヒック」
老婆が注意した。
「ダメじゃない!危ないよ」
老爺が倒れそうになったので、慌てて、受け止めてあげた。
「ほら、言わんこっちゃないわ」
老爺は、私に寄りかかりながら、赤ら顔で諭すように言った。
「あんた、ヒック、うちの風呂はな、薪で沸かすんだよ」
私は、生暖かい目で彼を見た。
「そうですってね。大変ですねえ」
育子と理奈も、その様子を見て、ニヤニヤしている。
ただ1人、浩介だけは、相変わらず、警戒の目つきで見ていた。
老婆がお願いしてきた。
「悪いけど、一緒に行ってやってくんない?」
「そうですね」
老爺は、私の首に手を回した。
「そうか、行ってくれるか。悪いね。ヒック、せっかく遥々と来てな・・・どこだっけ?」
「名古屋です」
「おお、名古屋か!行ったことはないけども、名古屋城は一度はな、見たいねえ!ヒック」
私は、老爺を介助しながら、茶の間から出た。
廊下には、小さな裸電球が1つ、弱弱しく光っているだけで、薄暗かった。
「こっちよ」
彼が左を指さしたので、そちらへ歩を進めた。
突き当りを右に曲がると、すりガラスの部屋があり、そこは洗面所兼脱衣場だった。
ガラガラと戸を開け、蛍光灯を付けると、チカチカ点滅した。1畳ほどで、かなり狭苦しい。
さらに、向こうの、木枠の入ったガラス戸を開けようとするが、中々、開かない。
「これはなあ、ヒック、長年の湿気でやられたんだろうな。よし、オレがやろう。コツがあるんだ」
彼は、私の首から手を放し、ガラス戸を絶妙の角度で持ち上げるようにして、横に開けた。
風呂はヒノキ製で、洗い場を含め、そこそこの広さだった。だが、その肝心のヒノキ風呂は、カビがびっしり生えており、ヌルヌルしていた。
「どうよ、すごいだろ?」
「はあ・・・」
彼は、少し訝しげに私を見た。酔いが覚めたらしく、赤ら顔が少し戻っていた。
「どうした?」
私は少し後ずさりをした。
「いえ、別に・・・」
背中にタイルが当たった。黄ばんだタイルだったが、元は白かったのだろう。天井を見上げると、大きな蜘蛛の巣が張ってあった。
彼は、私に近づいて、顔を覗き込むようにした。
「うん?ああ、蜘蛛の巣か・・・気になるんか?」
「まあ・・・そうですね・・・娘もいますし」
彼は、合点がいったように、手を叩いた。
「な~るほど!それは気づかんかった。よし、取り払おう」と浴室を出た。
しばらくすると、ホウキを持ってきて、蜘蛛の巣を除去した。