第3章
山に近づいていく。
人家も少なくなり、道幅も狭くなり、街灯もなくなっていく。
誰もが無言だった。浩介までもゲームを止めて、外を見回していた。
カーナビの無味乾燥な音声だけが響いていた。「いよいよ入るぞ」と自分を鼓舞するように、ワザと大きな声で言った。
「慎重にね」
と育子は、前をまっすぐ見ながら言った。
そうして、暗闇の中を登って行った。
細く曲がりくねり、ガードレールもないので、ハンドルさばきが大変だ。
崖から落ちないよう、ヘッドライトだけが頼り。
どれくらい走ったのだろう・・・1時間くらいで着く計算だったが・・・依然として暗黒の奥深い森の中であった・・・
理奈が寒いと訴えてきたので、エアコンを弱に調節した。中央コンソールの上部の小さなデジタル時計の青い光が、20時過ぎであることを知らせていた。
え?マジかよ!そんなに経っていたのか!参ったなあ~
真夜中になるかも・・・もはや、美味しい料理は見果てぬ夢と化してしまった・・・仕方ない・・・今は運転に全集中するべきだ。事故でも起こして、あの世へ旅行先変更なんてシャレにもならん。時速を30キロくらいに落とし、慎重に運転した。
やがて、舗装された道路が途切れ、砂利の混じったそれとなり、振動が大きくなっていく。
「なにこれ、酔っちゃうよ~」
理奈が悲鳴を上げる。
「大袈裟だな!こんなの大したことないじゃん」
浩介が半ば興奮している。
「4WDなら、どうってことないんだが」
私はハンドル操作に追われる。
「今さら遅いでしょ!運転に集中して」
育子が左上のバーをしっかりと握る。
10分ほど行くと、
分かれ道にぶつかり、
車を止めた。
すると、カーナビ画面が突如として乱れだした。車内灯をつける。オレンジがかった暖かい電球色だ。
「うん?おかしいぞ」
育子は、不安そうな表情で「どうしたの?」
理奈は、泣きそうな調子で「故障?」
浩介は、嬉しそうな眼で「電源ボタンを消して再起動すれば?」
再起動したが、ついに画面は真っ白になり、「現在地は登録されていません」との音声ばかりが流れてきた。
私は苛立たしげに「マニュアルを出してくれ」と言った。育子が、ダッシュボードから出してきた。あちこちのページをめくっては、カーナビに視線を移し、あちこちのボタンを押したが、駄目だった。冷や汗が出てくる。
浩介も「貸して」と助太刀してくれたが、やはり画面は真っ白なままだった。「おかしいね」
「壊れちゃったの?」と育子。「え~どうすんのよ!」と理奈。
私は顔を歪めて、
「参ったな」目を上げてガラス越しに真っ暗な外を見ながら、「よりにもよって、こんな時に・・・」と溜息をついた。
カーナビがダメなら・・・そうだ!「地図帳があっただろ。出してくれないか」と妻に頼んだ。育子は無言で再びダッシュボードを開けたが、いくら探しても「ないよ」「ない?おかしいな、よく探したか?」
体を助手席の方に動かして、中を覗いた。車検証などを出して探したが、ないものはなかった。運転席に体を戻しながら、「う~ん、困ったな」
理奈は、溜息ばかりつく父親を非難するように「マジで?やばくない?」
・・・待てよ。
「そういえば、去年の大掃除の時、捨てちゃったんだ」と言った。「何でよ!」と理奈が詰問した。「だいぶ古いやつだったからね」とバックミラー越しに、険しい目つきをした娘を睨みながら、「カーナビがあれば十分と思ったんだ」と言って軽く目を閉じた。「そんな~信じらんない!」左から育子の、落ち着いて、という声が聞こえた。
私は目を開け、深呼吸した。そうだ、落ち着け、一家の主は冷静沈着になるべきだ。
呼応するように、車内はいつの間にか静かになった。理奈は腕を組んでふくれっ面だった。育子はエアコン吹き出し口の前に顔を近づけて手で扇いでいた。浩介だけはこの状況を楽しんでいるかのようにニヤついていた。
「右に行くか左に行くか、二つに一つか・・・」と独り言のように言った。
暗闇に沈み、全く見通せなかったが、どちらも鬱蒼とした森の中を行く感じだった。
理奈の表情が、まるでこの世の終わりが来たかのような深刻さだったので、今まで静観していた育子が、強い調子で「もう引き返しましょ」と主張した。「どうしようか・・・」
「どうしようじゃない。戻るの」後ろの理奈をもう一度見てから、「もう無理よ!」
私は顔を歪めた。浩介が身を乗り出して、「方角的には右なんじゃない?」
「そうだな」
「いいから、あんたは後ろに引っこんでなさい」と育子は息子の体を押しやる。浩介は母の手を払いのけて、「何すんだよ。教えてあげてんじゃん」
育子は、顔を私の方に向け「さあ、早くUターンして」
「ダメだよ。今から戻るなんて・・・もうだいぶ、山道を上ってるんだから」と浩介。「何、言ってるの!ほら見なさい」と育子が娘の方へ顎をしゃくりながら、「泣いてるじゃない!」
「泣いてなんかいないよ」と理奈は涙を手で拭った。
女性陣の抗議に、私は観念して「分かった分かった。戻ろう」とギアをバックに入れた。
しかし道が狭いので、方向転換しようにも難しかった。浩介が「ああ・・・かえって危ないよ」と膝を立て後ろを見ながら。私は「よく見えん。崖から落ちたら一たまりもないぞ」とギアをまたドライブに。理奈が「ええ~どうすんのよ!」とヒステリックに叫ぶ。育子も「困っちゃったな~こうなったら警察に電話しましょ!」と声を張り上げスマホを。私は「止めなさい。大袈裟な」と手で遮る。「放してよ!もう、あなたに任せてられない!あら?」圏外表示が無情にも出る。「圏外だって。ちょっと、あんたのはどう?」と娘に。理奈は「私のもダメ!」とスマホを見ながら叫んだ。今度は息子に「あんたは?」と。「ないよ。買ってくれなかったじゃない」と浩介は席に座り直しながら皮肉めいた調子で。「そうだったわね・・・じゃ、あなたは?」
ズボンのポケットからガラケーを出した。圏外表示はなかった。・・・が、電池の残量が切れかかっていた。
「大丈夫そうだが、電池が・・・」と言い終わらない内に、育子がひったくるように、私のガラケーをもぎ取った。「何するんだ!」「ごめん。待ってられないの」
育子はガラケーの操作をした。耳に当てる。「どうかお願い、つながって」
理奈と浩介も身を乗り出し、顔を覗かせた。
「もう、早く出てよ!」
私たち3人は、息を殺して、育子に視線を集中させた。
しかし、「ああ、電池が・・・」
私のも使用不能になってしまった。育子は「クソ!」と吐き捨てて、ガラケーを私の方に放り投げた。
さすがに温厚な私も、怒鳴り散らしたい衝動に襲われたが、これ以上、事態を悪化させるわけにはいかない。何より、私が原因を作った以上、この混迷した状態を収束させる責任がある。
「・・・とにかく落ち着こう」一呼吸おいて、「何か・・・そう、なんか方法がある筈だ」「何があるっていうのよ!」「いいから、静かにしてくれないか」「こんな道を通るから、こんなことになったんじゃない!」「すまん、オレが悪かった」
浩介が、
「もう~ケンカしてもしょうがないよ。8時過ぎてるし、早く進もうよ!」と言いながら黄色いリュックサックからチョコ菓子を取り出し、「腹、減った」とパクパク食べ始めた。
「オレにもくれないか」と手を差し出した。
「わたしも頂戴」と理奈。
育子だけは、窓に肘をつきながら、前方の暗闇を凝視していた。「ほら、お腹空いたろ?」と菓子を勧めたが、育子はかぶりを振って拒否した。
パクパク、グシャグシャ、パクパク・・・
菓子を食べる音と包み紙を丸める音。
子供たちは500mLのペットボトルを取り出す。
キュルキュル、ゴクゴク、プハー・・・
私も飲みたい。浩介に、水筒を出してくれ、と頼んだが空だった。他に飲み物はないの?と聞いても、ないよ、という返事。
大きなため息が漏れた。
育子だ。
「もう、ないのね」と、さっきよりは小さな落ち着いた声で言ってきた。
「うん・・・」妻の疲れたような微笑を見ながら、「何とかしないと・・・」
「このまま止まってれば?一晩くらい何とかなるよ」
すると、浩介「それはダメでしょ」理奈は当然のごとく賛成。「その方がいいかも」
私が、せっかく旅館に、と言いかけると、「もう旅館も何もないでしょ!非常事態なのに!」と育子がまた興奮し始めた。
「まあまあ、落ち着けよ。そんなにガミガミ言ってもしょうがないだろ」
育子は「もういいわ。なら歩いて戻るから」ときっぱりと言ってから、後ろの理奈を振り返り、あんたも行く?などと聞いた。
「え?」
私「なにバカなことを。こんなに暗いんだぞ」
育子はダッシュボードを開けて、「懐中電灯があるでしょ」と中をゴソゴソ探した。私は彼女の手を捕まえて「やめろって言ってるだろ!」「ちょっと放してよ!」理奈も身を乗り出し「え~止めた方がいいよ。無理だよ~」と母親を翻意させるべく、肩を揺すって加勢した。
3人の小競り合いに、浩介もさすがに心配顔。
抜け出したのは育子だった。「あった、あった」と誇らしげに懐中電灯をかざして見せた。間髪入れず、懐中電灯とハンドバックを手に「じゃ、行くから」と車から出ようとする。
私は「そうはさせるか!」とロックボタンで助手席側のドアをロックした。
「ちょっと!外してよ!」と育子は叫んだ。
「気でも狂ったのか?こんなトコで、歩いて行けるわけないだろ?」
「そうだよ!」と浩介。
「お父さんの言う通りだよ!」と理奈も。
育子は苦虫を噛み潰したように肩を落とした。
そして泣きだした。「じゃ、どうすりゃいいのよ?」
私は大きく溜息をついてから、
「とにかくだ、このまま、ここにいてもどうしようもない。それだけは確かだ」
育子は涙をハンカチで拭いた。
私は続けて「だから、あの分かれ道・・・右だっけか?」と浩介に聞いた。
浩介は頷いた。
「よし、行くぞ」と幾分強い調子を込めて言った。
「う~ん・・・」と理奈は言いかけたが止めた。表情を見ると疲労の度が増したようで投げやりな感じになっていた。あるいは、こんな真っ暗闇の山の中で一晩過ごすことに不安な気持ちが芽生え始めたのだろう。クマでも出たら厄介だ・・・
車内灯を消しアクセルを踏んだ。気が変わらない内に行くしかない。車は右の道を進んだ。