第10章
わたしは呪った。
自分を、運命を、この世界を。
その後は、よく覚えていない。
考えるのを止めたからだろう。
おそらく、数分くらい「プロレスごっこ」をしたのかもしれない。
でも、年寄りのくせに、恐ろしく馬鹿力があって屈服させられてしまった。
そして・・・
「目的」を達成したらしいあいつは、もう用済みとばかり、仰向けになって虚空を見つめていたわたしの上に、斧を振り下ろしたわけ。
その時、川の向こう岸から、理奈の叫びが聞こえた気がした。
一部始終を見ていたのだろうか。
・・・まあいい。もう、サヨウナラ、なんだから。
***
アタシ、その時ね、思わず叫んじゃった!
だって、お母さんが、あんなジジイにヤラレちゃったんだもん・・・
そしたら、隣にいた浩介に「お姉ちゃんダメだよ!」って注意されたよ。
それで、ジジイは気づいちゃって、こっちの方を見たんだ。
ジジイのヘッドライトから出る光が、まぶしい!
「あん?ネエちゃんとガキじゃねえか。見てたのか?お母ちゃんが手ごめにされたの。ケケケ!」
そう言うとね、川をバシャバシャと渡ってきた!
「逃げるよ!」と浩介の手を引っ張る。
全力疾走で逃げ回ったよ。運動は得意だったから、アタシがリードしたんだ。
雨上がりの森の中はぬかるんでて、靴下や足を泥だらけにしながら・・・ホットパンツなんか、はいてくるんじゃなかったな。
・・・どこをどう行ったのか、分からない。
だって、暗いし、怖かったし、靴を履いてないから足が痛かったし・・・
それに、お母さんが・・・あんなヒドイ・・・倒れそう・・・ハアハア・・・とにかく・・・逃げることに集中しなきゃ・・・
とにかく、走りまくったことは確か。
そうすると、段々、ジジイのキモイ笑い声が小さくなってきて、しまいには、全く聞こえなくなったの。
アタシは、大きな木の陰に回って、様子を見たよ。ゼエゼエいいながらね。
浩介なんか倒れこんじゃって、もう死にそうだった。
アタシ「ハアハア、もう大丈夫だよ・・・」
浩介「あ~もうダメ!」
「しっかりして」と屈みこんで、浩介の背中をさすった。
そしたら「母さんが死んじゃった・・・」と泣きだしたの。
アタシも「うん」って泣いた。
「ボ、ボクのせいだね。わき道に入らなければ、こんなこと・・・」
「そんなの言ってる場合じゃないでしょ!」
確かに、あの時、Uターンしてれば・・・とは思った。でも、今は、ここから逃げることに集中するべきだ。
「だけど・・・」
「もういいから!その話は終わり!」
浩介は涙を拭きながら、今度は「・・・父さんはどうしたんだろう?」と聞いてきた。
「裏庭で、お母さんに逃げろって言われた時には、いなかったよね」
「逃げるのに精いっぱいで、それどころじゃなかったもん・・・」
その時、初めて思ったんだ。お父さんも殺されたに違いないって。
お母さんに背中を押されて、逃げた時を思い出した。
後ろから、あのババアが追いかけてきたの。ババアもヘッドライトを付けていて、その光で、真っ赤な顔や牙が見えて、とっても怖かった!どれだけ走ったのか分かんないんだけど、気づいたら声が聞こえなくなった。やっぱ、陸上で鍛えてるからかな?そしたら、上の方から声がして・・・浩介だった。木の枝から、顔がニュッと出てきたの。「姉ちゃん、早く登って!」慌てて、木の上に登ったよ。浩介が引っ張ってくれて助かった。だって、すぐにババアが来たんだもの。「ゲエゲエ・・・全く、逃げ足の速いムスメっ子じゃ!どこに逃げおった、クソガキめが!」そう怒鳴ると、駆けだして闇に消えたんだけど、その時に見たんだ。頭にでっかい口が、パクパク上下に動いていたのを。・・・その大口の回りは血だらけだった。何かを食ったみたい・・・人間を?お父さん!?
さらに大きな悲しみが襲ってきて、涙が止まらなくなった。
「・・・殺られちゃったのかな」
すると、浩介は自分に言い聞かせるように「そんなの分かんないよ!」と泣き叫んだ。
「静かに!聞こえちゃうよ」
「あ、ごめん・・・」
数分の間、お互いに無言だった。
とにかく、泣いても始まらない。
そんなのは、助かってから、好きなだけ泣けばいい。
お父さんは・・・やっぱり・・・ムリだと思う。
だから、浩介と2人だけで、生き残らなきゃいけない。
ようし!
さあて、どっちへ行こうか?
アタシは、首をふり回した。
その様子を見て、浩介は「あの川沿いにずっと下って行けば、町に降りられるよ。遠回りだけど、迷うことはないから」と言った。
「そうなの?」
「カーナビで見てたから大丈夫」
その自信ありそうな言い方に、初めて、浩介が頼もしく思えたよ。
「でも、川までどうやって行くの?」
「こっちに行けばいいんじゃない?」と右の小道を指さした。
「マジで?」
浩介は「姉ちゃん、方向オンチだもんね」と涙を拭きながら、微笑んだ。
「悪かったわね~」
アタシたちは歩き出した。泥だけの道を歩くのも慣れてきたな。
いつの間にか、月が出てきて、多少は見通しも良くなった感じ。
もちろん、アイツらがいないか用心深くだけど。
数分で、迷いもせずに小川に出たよ。
浩介は疲れを見せながら「あとは、下るだけだよ」
「うん。アイツら、どこ行ったのかな?声とか聞こえないね」
お母さんが襲われたのを思い出した。
アノ現場はどこだろう?暗くて、まるで分からない。
あの時、アタシと浩介は木の上から降りて、どうするか迷ってウロウロしていたんだ。2人とも、起きている事態を飲み込むのに精いっぱいだったんだと思う。絶望的な気分だった。そしたら、どこからか、お母さんの悲鳴が聞こえたんだ。急いで、声のする方向に向かうと、小川に出た。暗かったけど、向こう岸に、うっすらと、ジジイがお母さんに馬乗りになっているのが見えたの。
再び、悲しみと絶望が襲ってきた。
お母さんを探すのは止めよう。今はそんな場合じゃない。
体力的にも疲れが出はじめていたし、精神的にもとっくに限界を超えていた。
「もう歩けない・・・」
気づくと、浩介がしゃがみ込んで、顔を下に向けている。
アタシは励ました。
「頑張ろう」
「でも、靴がないと持たないよ」
浩介は、半ズボンから見える泥だらけの足をさすった。
「靴か・・・あの家に戻るしかないけど・・・」
すると、浩介は大きくタメ息をついて、ヨロヨロと立ち上がったの。
「だけど、トゲとか刺さっちゃうかもよ・・・」
「うん・・・でも、賭けだよね」
結局、靴を取りに行こうと決めたんだ。
再び歩き出して、やがて、前に通った木の橋が見えてきた。
遠くの方に、かすかに明かりが見えたな。
ババアたちの家だ。
そしたら、
浩介「そうだ。懐中電灯を取りに行こう。車にあるんだ」と小走りに駆けだしたの。
アタシ「ちょっと待って。カギがないでしょ」
浩介は、振り返って「石で割ればいいじゃん」
「う~ん、なるほどね」
ヤブの中に入り、そうっと車の所へ近づいた。
何の物音もしない。
ヤブのあいだから見てみると、誰もいない様子。
周りを警戒しながら、ゆっくりと近づいた。
アタシたちの車とアイツらの軽トラは、昨日と同じように止まっていた。
浩介は、周囲を見回してから、軽トラを指して「これで逃げようか!」と言ったの。
「え、運転すんの?」
「うん」
「こんな暗いのに?ムリだよ!」
それでも、浩介は、軽トラのドアを開けようとしたが、カギが掛かっていた。
運転席をのぞき込む。
「あ~カギがない。やっぱダメだ~」
浩介は、タメ息をつくと「しょうがないね。懐中電灯だけでも持っていこう」とアタシたちの車に近づいて、助手席のドアガラスを石で割って、開けた。
ダッシュボードに入っていた懐中電灯は無事だったよ。
「よし、じゃ行くよ」
アタシは、力強く言うと、浩介も深くうなずいた。
あの恐ろしい家に再び向かったのだ。