第1話 プロローグ
「これはまさに、現代の怪奇事件と言っていいでしょうね」
訳知り顔のコメンテーターがテレビ画面の中でそう言った。
実のところ、かつらを被っているのではないかとまことしやかに噂される、その冴えない中年男性は、話を続ける。
「……そもそも、とてもじゃないが考えられない。白昼の高校で、一クラス分の生徒32人が何の脈絡もなく消息を絶ったなんて。どこかにみんなで隠れてるんじゃないですか?」
「しかし、授業を担当していた教師までいなくなって、連絡が取れないと言うことですよ。教師宅にも帰宅した様子はないと言うことですし……」
顔で採用されたとしか思えない美人女子アナウンサーが中年コメンテーターに言う。
中年コメンテーターは、女子アナの言葉に首を振りながら、
「その教師が主犯なんじゃないですか? きっと、言葉巧みに生徒たちを連れ出したんですよ。今はこんな風に話題になり過ぎてしまったから出てこれない、と」
「なるほど……だとすれば、早く出てきて欲しいものですが……」
「全くですな。ま、これで出てこなかったら、それこそ怪奇事件としか言いようがありません。警察の発表でも何の痕跡も見つかってないようですし、そちらの可能性の方がもしかしたら濃厚かも知れませんね」
自分で言いながら、全く信じてなさそうな様子でコメンテーターは鼻を鳴らした。
彼らが話している事件とは、大宮第三高校事件と呼ばれる、東北の公立高校で起こった生徒失踪事件のことである。
事件の概要は至極単純でありながら、きわめて奇妙で世間の耳目を集めていた。
それは、大宮第三高校の2年D組の生徒32人が、何の脈絡もなく、三時間目の国語の授業中であるはずの教室から、何の痕跡も残さずに失踪してしまった、というものである。
授業をしていたはずの教師も同じくいなくなっていて、全員で33人が失踪したことになる。
これに気づいたのは、お昼休みに隣のクラスの友人と話そうとしてやってきた別のクラスの生徒であったという。
初めはどこか、校庭などで体育の授業などをしているのかもしれないと思ったらしいが、その時間が国語の授業であり、しかもほんの十数分前までは確かにそこで授業が行われていることを見ていた者がいた。
それもまた生徒で、トイレに行く途中にその2年D組の前を通ったという。
つまり、どこかにいなくなったとするなら、その目撃したときから、お昼休みまでの十数分間の間にどこかに全員で出て行った、ということになる。
けれど、これもまた、ありえないのだ。
なぜなら、校舎の構造上、2年D組は隣にC組とE組があり、そのどちらかの前を通らなければ出て行くことが出来ない。
しかし、どちらのクラスの生徒も、D組の生徒が教室を出たところを目撃していなかった。
教室と廊下の間はモダンなガラス張り構造になっていて、どれだけ静かに通ろうとも、その姿を隠して通り過ぎることは不可能である。
にもかかわらず、2年D組の生徒は消えた。
完全に、跡形もなく、痕跡一つ残さずに、である。
これは、まさに現代の怪奇事件であり、その概要が明らかになるに連れて放送局各局がセンセーショナルに報道した。
なにも生徒をさらし者にしよう、というわけではなく、これだけ騒げばどこかに隠れているにしても出てこざるを得ないだろう、という意図もあって、警察も積極的に情報をマスコミ各社に提供した。
しかし、事件から一週間が経っても、生徒たち、また教師も含めて、誰一人としてその行方はわかっていない。
2年D組の生徒は、まさにこの世界から、完全に消失してしまったかのようだった。
ーーその日、登校していなかった、たった一人を除いて。
◆◇◆◇◆
「薫! 薫! 出てきて! 学校に通えなんて言わないわ! ただ、貴方まで消えてしまわないか、不安なの! 薫! お願いよ、出てきて!」
がんがん、と部屋の扉が断続的に叩かれている。
その度に聞こえてくるのは、舟山薫の母親である、舟山美紀の悲痛な叫び声だった。
たまに、扉を開けようとがちゃがちゃとノブが回される音も混じるが、薫の部屋の扉がその努力に応えることはない。
鍵は三つつけてあり、そのすべてが完全に閉められている。
ネジがゆるむ度にドライバーで直しているくらいだ。
開くはずがなかった。
饐えたにおいと細かく浮かぶ埃、そしてカーテンの隙間から僅かながらに差し込む光だけが部屋の中に存在していて、薫の心の平穏を保っている。
他の何物にも侵入させたくない、薫ただ一人の城。
それが、その部屋のすべてだった。
食事については、薫は両親がともに寝静まった瞬間をねらって冷蔵庫から食べ物を回収している。
その瞬間を捉えられて捕獲されたことも一度や二度ではないが、しばらくしたら自室への閉じこもりを再開するため、何の意味もない。
今では両親も無理矢理この部屋から出すことは諦めて、こうやって言葉で説得し、自らの意志で出てきてもらおうとしている。
しかし、それこそ無駄だ。
薫はこの部屋の外で生活する気は一切なかった。
永遠に、死ぬまで。
両親が死亡し、家が壊されるのならそのときは仕方がない。
死のう、と思っているくらいである。
だから、どんな説得も、薫には何の効果もない。
いつまでも埃と暗闇の支配する自室の中で、ただ、布団を被って生きていこうと思っていた。
薫がこうなった理由はいくつかあるが、そのうちで最も大きいのはやはり、学校でいじめられたことだろう。
高校に入り、初めのうちは楽しく過ごしていたのだが、なぜか気づいたときにはいじめの対象となっていた。
ハブられたり殴られたり、トイレに入れば水をぶっかけられ、お弁当を食べればひっくり返されてゴミ箱である。
それくらいならまだ耐えられたが、さすがに両親の財布から金を持ってこいと言われた日には勘弁してくれと思ったのだ。
もちろん、そんなことは出来ないと言ったのだが、それを許す連中ではなかった。
仕方なく、薫は家に籠もることにした。
金を持って行くつもりなどなかった。
ただ、永遠に彼らに会わなければ、なにもしてやる必要はなくなる。
そう思ったのだ。
実際、彼らは数日は我が家の前をうろうろしていたが、流石に薫の両親に金をよこせと直接言う度胸はなかったのだろう。
しばらくすると来ることもなくなったので、薫は自分の選択が極めて正しかったことを知った。
それから、薫は一度も学校には行っていない。
これからも行く気はない。
彼らが学校を卒業し、どこかに就職しても、外に出れば会ってしまう可能性もある。
したがって、外に出る気もない。
警察や学校に訴えればいいだろう、と言う話かも知れないが、鈍くさい自分がそれを成功させる自身もない。
そういう正当な訴えを正しく世に向かって出来るのは、信用と信頼を持つ、バイタリティのある人間だけだ。
それとは全く正反対な人間である薫に、それが出来るとはとてもではないが思えなかった。
おそらく、警察署に行く途中で彼らに捕まって殴られて殺されるか、警察署に行っても信じてもらえずに帰りの道で彼らに捕まって殴られて殺されるか、警察に行って信じてもらえて学校で問題になって彼らが退学になっても、その後に彼らに集団で暴行されて殺されるかのどれかだ。
そうとしか思えない。
そのどれでもない未来が欲しいなら、家の中でじっとしている。
それしかないのだ、と薫は心の底から信じていた。
だから、こうして部屋の中でじっとしている。
永遠に、永遠にこのままだ。死ぬまで。
先ほどまでがんがんと部屋を叩いていた母の声も、もう聞こえない。
いついなくなったのかはわからないが、一切返答しない薫に、今日のところは諦めたらしい。
母は、毎日こうして扉越しに何か叫んでくるのだ。
一週間前まではこんな風に毎日来ることはなかった。
せいぜい、三日に一度来るかこないか、くらいだったのだが、どうも母は随分心配性になったらしい。
その理由もわからないでもない。
ラジオで、薫の通っていた学校、それも薫のクラスである2年D組の生徒全員が原因不明の失踪をしたと報じていた。
薫が行っていたら、おそらくそれにも巻き込まれていただろう。
運良くこうして引きこもって登校拒否していたから、巻き込まれずに済んだわけだ。
しかし、母としては、薫が突然消えてしまわないか不安なのだろう。
今までですら、いつ自殺しないかと母は不安そうに叫んでいた位なのだから、その心配は痛いほどわかる。
が、そんな心配は無用だ。
自殺は生活が立ちゆかなくなるまでする気はない。
つまり、両親が健在なうちはするつもりはないし、仮に両親が亡くなった後なら、彼らは心配する必要などなくなっているのだ。
それに新しい不安であろう失踪事件にしたって、家の中にこんな風に閉じこもっている人間をいったいどういう手段でもって失踪させられるというのだろう。
薫は、学校での失踪事件にしたって、何らかのトリックに基づくものだと疑っていた。
人が、何の脈絡もなく消えることなどあり得ない。
なにかしらの手段があったはずで、学校にしろ警察にしろマスコミにしろあまりにも無能な故に解明できていないだけであると。
実際、自分がいじめられていることについても、学校も警察も一切感知することが出来ず、強盗としか言えないことをやっている彼らについて正当な罰を下すことも出来なかったのだ。
失踪事件を解決できないことくらい、さもありなんというところだろう。
とはいえ、どんな理由があったにしろ、"彼ら"がいなくなったことは薫にとっては朗報だった。
どこに行ったにしろ、死んでいたら嬉しいというくらいに。
他の、薫になにもしなかった生徒たちについては正直言って気の毒なことだとは思うが、こういう運命だったのだ。仕方あるまい。
薫が、いじめられる運命だったのと同じように。
そう、思って、薫は目を閉じる。
今は、深く眠ろう。
自分には関係のないことを色々と考えてしまって、無駄に体力を使ってしまったから。
どうか、自分に失踪した同級生たちのような不幸が及びませんようにと願いながら。
◆◇◆◇◆
ぴんぽーん。
インターフォンの音が聞こえて、薫は眠りから覚めた。
時計を見てみると、三時間ほど眠っていたらしい。
もう夜だった。
夜でも朝でも薫にとっては何の関係もないが、一応、時間帯だけは意識していた。
続いて、どたどたと母が玄関に向かう音が聞こえる。
どうやら、誰かを家にあげるらしい。
誰なのだろう……。
いかに自分にとっては何の関係もない、と思っていても、気にはなった。
それからしばらくして、その誰かと、母の声が聞こえてくる。
階段を上ってくる音もしている。
どうやら、薫の部屋に近づいているようだった。
「……ええ、ずっと、籠もりきりで……でも知らなかったわ。A組にあの子の友達がいたなんて。わざわざ来てくれて、ありがとうね」
「いえ、僕は薫が大変なときに、何も出来ませんでしたから。今更来てなんなんだと言われるかも知れませんが、一度、話をしておきたいと思いまして」
「いいえ、ありがたいわ。あの子、私や主人の話は全く聞こうとしないの、学校の友達の話なら違うかも知れないわ……」
どうやら、学校の同級生らしいが、その会話を聞き、薫は、はて、と思った。
A組にそんなに自分のことを心配してくれる友達などいただろうかと思ったからだ。
知り合いは確かにいなくはないが、その声には聞き覚えがない。
しかし、わざわざこうしてくるからには自分とは何らかの親交があったと考えるべきだが……けれどいくら考えてもわからなかった。
しばらくして、薫の部屋の前に二人が到着する。
母が、
「薫! お友達よ。私は行くから、安心して二人で話してね」
そう言って下に降りていく。
それは母の気遣いなのだろう。
薫とて、別に母が嫌いなわけではない。
ただ仕方がない事情で外部とは一切連絡を絶ちたいだけだ。
それから、母が一階の部屋に行き、扉が閉まる音が聞こえると同時に、薫の部屋の前にいるらしい人物が口を開いた。
「……さて、薫。久しぶりだな。俺のこと、覚えているか?」
驚いたことに、その声に、薫は聞き覚えがあった。
先ほどまでの母と話していた声とはまるで違う声。
それは、失踪していたはずの、2年D組の生徒の一人、風祭圭吾のものに他ならなかった。




