9話 救世主はいつだって
「では御主人様、"ゆっくり"とお休みくださいませ」
「う、うん……」
パタリと寝室の扉が閉まり、数秒の静寂が部屋を包みこむ。
メルドン男爵はナツが寝ているベッドに腰掛け、申し訳なさそうに話しかけた。
「ご、ごめんねなんか……。カルマも根は悪い奴じゃないんだよ」
それは主人である男爵から見た彼であり、ナツにとっては怒ったハルバードよりも何倍も恐ろしい悪魔だと思った。
しかし、そんな反論をする元気も、気力も彼女からは失われていた。
黙って天井を見つめているナツに、男爵は彼女をなるべく怖がらせないように明るい声を出した。
「あ、あのね! 別に無理やり婚約させるとか、そんなことしないから安心して!」
「……?」
「カルマはああいってたけど、実をいうとぼくは王位継承なんて興味はないんだよ。
カルマもこの地位も父上が作り上げたものだし、ぼくはそれをただ引き継いだだけなんだ。
ああ、君に惚れたのは本当だけどね。あはは……」
「そう、なんですか……」
弱弱しく語るメルドン男爵を見て、徐々に彼女の緊張は薄れてゆく。
しかし、彼はこう続けた。
「でも……。カルマの言うことも一理あるかと思うんだよねぇ」
「え?」
声のトーンが変わった男爵の様子に、ナツの身体に冷汗が流れる。
恐る恐る視線を彼の顔に向けると、先程の弱弱しい声とは想像もつかないような顔をしていた。
「ぼくは王位継承に興味はないけど、君の事奥さんにしたいのは本当の本当。
君は今はぼくの事嫌がっているけれど、もしかしたら一緒に"寝たら"好きになってくれるかもしれないでしょ?」
なんとかしなければ、とナツは焦る。
このままでは、本当にメルドン男爵と共に一夜を過ごさなければならなくなってしまう。
「そ、そんなことあるわけ……」
「ないっていいきれるの?」
「い、いいきれます! 絶対にあなたを好きになんかなりません!」
「じゃあ君が正しいかぼくが正しいか、検証してみようよ」
しかしその焦りから出た煽りは逆効果で、メルドン男爵の"やる気"を出すだけだった。
メルドン男爵がナツの上に荒々しく跨り、ベッドが弾む。
ナツはとうとう悟った。
己の操をこの豚に捧げなければならないことを。
ナツとて成人した女性である。メルドン男爵が覆いかぶさってきた意味も、これから行われるであろう情事も大いに理解している。
先日のからかうようなハルバードの顔とは違う。
本気だ。彼は本気でナツを襲おうとしている。
「い、やぁっ」
もはや拒絶の言葉さえ、彼の興奮させる為の要因にすぎなくなった。
目を潤ませ必死に抵抗しようとするナツを見た男爵の息は荒くなり、期待に打ち震える彼の手は、ナツのブラウスの襟に固く結ばれているであろうリボンを、いとも容易くするりと解いた。
第一ボタン、第二ボタンを外す。少しシャツ開けば、彼女の白い肌が露わになるだろう。
しかしそれは最後のボタンを外した時に取っておこうとシャツは閉じたまま、太く短い指が彼女のちょうど胸の間にあるボタンに掛かった。
その瞬間。
「びゃっ!!」
丸々とした醜い塊が、ナツの上から消え去った。
一秒も立たない間に、壁がある方からドンッという音が響いた。
「な、何っ……?」
小さくつぶやいた彼女の声は誰にも届かなかったが、ぬぐぐぅ……と痛みに悶えるメルドン男爵に向かって低い、低い声が突き刺さった。
「ずいぶんとうちの盾に"イイ事"をしてくれているじゃないか、ええ? この豚野郎が」
ナツが声のする方へと顔を向けると、そこにはハルバードがバルコニーの入口でメルドン男爵を睨みながら立っていた。
その顔はいつもに増して険しい。
「はるばーど、さん……?」
ナツが声を振り絞ってハルバードの名を呼んだ。
ハルバードが声のした方を見ると、ナツがベッドの上に磔にされているのが見えた。
膝丈まであるスカートは腿までずり上げられ、シャツは肌蹴てしまい下着がちらりとその姿を覗かせていた。
泣き腫らした目の周りは赤く、それとは正反対に顔全体からは恐怖によって血の気が引き、青白くなってしまっていた。嫌だ嫌だと首を振っていたせいか、髪は乱れてぐしゃぐしゃだ。
それを見たハルバードは、眉間のしわをより一層深めた。
(チッ、余計なマネしやがって。にしても魔法の縄か? やはり、直接じゃなければ魔法はナツに対して干渉するのか……。あの豚がかけたとは思えないが)
ハルバードがベッドに手の平を向けると、ナツの身体を縫い付けていた縄が消え去った。
すると、彼女は急に身体が軽くなったような感覚がした。
「あっ……」
(動ける……!)
急いで起き上がり、ベッドから降りる。
そしてすぐさまハルバードの方へ駆け寄ろうとしたが、午前の出来事を思い出し、その足は進むことを躊躇っている。
そんなナツの様子を見て、ハルバードは短くため息をついた。そのため息に、ナツの身体はビクリと跳ねる。
(また、怒られる……!)
『や、さ、し、く!!!』
アキュレスの"命令"を思い出し、ゆっくりと一度瞬きをした後、ナツを見た。
彼女の目にはまたもこぼれそうなくらいの涙が溜まっている。本当はハルバードに駆け寄りたいが、その一歩が出ない。
ハルバードは小さく腕を広げ、ナツに向かって言った。
「……おいで、ナツ」
ぶわっと、ナツの目から涙が溢れた。
彼女は靴下のまま、ハルバードへと駆け寄った。どんっと彼の身体に体当たりするが、ビクともしない。
すっぽりと胸に収まったナツの頭を、ハルバードは優しく撫でた。ナツは何も言わず、ただただ安心したのかハルバードの腰に手を回し、その体ををぎゅうぎゅうと締め付けている。
ハルバードもどこか安心したように表情を緩めた。
「おやおや、ずいぶんと見せつけてくれるのですね」
甘い雰囲気を一掃するかのように、カルマの冷やかしの声が部屋に響いた。
その声に、ナツはビクッと身体を震わせる。
それを見たハルバードは、撫でていたナツの頭をぎゅっと自分の胸に押し付け、声の主を鋭く睨みつけた。
「誰だ、貴様」
「おや、これは失礼。私はメルドン男爵の矛、カルマと申します。以後お見知りおきを。
エイデン侯爵の"矛"、ハルバード様」
そうカルマが挨拶をすると、ハルバードがピクリと眉をしかめた。
(最近召喚された使い魔なら、我々の情報は知らないはずだが……)
「ああ、ナツ様と同じ反応をされるのですね。
なぜ私があなた様の事を存じ上げているのか?
と、疑問に思われているのでしょう」
「……」
「私は先代のメルドン男爵に召喚されたのです。ですので、あなたのお噂はかねがね聞いておりましてね」
(そんな話は一切聞いたことはない……が、まあいい)
「……行くぞ、ナツ」
ハルバードは少し考え、カルマに深く追及することはしなかった。
ナツからそっと離れ窓の外へと身体を向けた。ナツも慌ててハルバードに並ぶ。
「おや、ここは見逃してくださるのですね。お優しい」
ハルバードは振り返らず、静かな怒りを含めた声でこう言った。
「……これは、貴様らからの宣戦布告と見なす」
そんな言葉に怯むこともせず、カルマは大げさにリアクションをしながらも、いやらしく笑みを浮かべている。
「おやおや! そんなつもりはございませんでしたのに。……残念ですねぇ」
ハルバードはそれを無視し、ナツを自分の前に立たせようとした次の瞬間。
「ああ、忘れ物ですよ! 御嬢さんっ……!」
呼ばれたナツが恐る恐る振り返ると、片方の靴が彼女めがけて勢いよく飛んで来ていた。
「ひっ!」
彼女の顔に当たる寸前、バシンッと音が鳴った。ハルバードが振り向きもせず、裏手で靴を受け取ったのだ。
ナツはハルバードの顔を見上げるが、彼の表情は全く見えない。
「おや、さすがはエイデン侯爵の矛ですねぇ」
「……あまり調子に乗るなよ。ぶち殺すぞ」
ハルバードのあまりにもドスの利いた声に、縮こまり黙り込んでいたメルドン男爵と横にいるナツは、ビクリと体を震わせた。しかし、カルマは相変わらず飄々としている。
「おお、怖いですねぇ。普段からそんななのでしょうか?」
ハルバードはそれに答えず、さっさとナツを自分の前に立たせて言った。
「ナツ、しっかり掴まっていろ」
「え?」
どうしてですかと言う間もなく、ナツは横抱きにされた。
「ふぇっ!?」
(お、お姫様抱っこ!?)
そうするとハルバードはバルコニーの柵へと飛び乗り、そのまま柵を蹴り上げ三階から飛び降りた。
「ひ、ひゃぁぁぁぁ!」
顔を赤くする暇もなく、ナツは情けない悲鳴を上げた。
「残念でしたね、御主人様。大丈夫ですか?」
「う、うぅぅ。何あの悪魔みたいな男……」
「ふ、ご心配なく。争いが始まれば、私がきちんと始末いたしますよ。エイデン侯爵もろともね……」
「カ、カルマの方が怖い……!」




