7 裏話 12
「……わ、」
「わ?」
「わ、わらひのっ……」
………噛んだな。 何が言いたいのかは分からないが、思いっきり噛んだな。
……本当にどうしたんだ、らしくないぞ。
「私の、」
わたしの?
「私の名前は、ファータ・クロニカ だ」
…………………………………………え。
「その、いつかの……だな…………」
待て。
「その、だから……」
待て待て。
今、え? 今の幻聴? 俺頭おかしくなった?
今、彼女は名前を言ったか?
「げほっっげほっけほっ……」
「おい、大丈夫か?」
いつの間にか彼女はむせていた。
「大丈夫だ……」
何だよ一体どうしたんだ?
「その……いつかの、保留にしていた答えを」
いつかの、って、もしかしなくても……あの?
……いや、それしかないよな。
『保留』にいしていた答えって彼女は言ったんだ。
「ああ」
……様子が変なのはそのせいか。
「その、あの……」
離れていても分かるくらいの緊張感と、それに隠れて伝わってくる尊敬に、ちょっとした懺悔。
……ちょっと待て、懺悔って何だ!? とってもとっても良くない響きだ!
果てしなく限りなくとてつもなく嫌な予感がする。
『すまない、やはり私は愛する師匠の事をここでずっと待っていたいのだ。申し訳ないが、その好意に応えることは出来ない……』
とか。そんなふうに言われちゃう気がしてきたぞ?! だからこれからも良いお友達でいて下さいとか言われたらどうしよう。
……俺ちょっと帰りたくなってきた……『あ、少し腹が痛いので帰ります』的な。
……今さら無理か。
あーあ……どうしたものか。
――好意――
……………………え。
え、ちょっと待って、今の何?
「……無しだ」
ナシ? 何が?
「え、いや、無しって、おまえ……」
「無しだ、今のは無しだ! 良いからそこで私の話を聞け」
「え、う……おお」
ちょっと待て、落ち着け俺。
確かに彼女からは好意的な感情が飛んできた。
だがしかし。
もしかしたらこれはお友達的な好意かもしれない。
今すっごい浮き足立ったけど、彼女は少し天然な所がある。真面目な顔して俺の思考の斜め上を猛ダッシュで駆け抜けるのが彼女だ。感情そのままに受けとると、後で大きなショックを受けるかもしれない……。
ここはひとまず、大人しく話を聞いておこう。
「その、まずは……謝罪から、だな……ずいぶん、待たせたと思う。すまなかった」
「え、ああ……いや、別に」
まぁ、確かにあれから一年ちょっと経ってるしな。
でもいいよ。ちゃんと考えてくれてたんだ。
「あと、トマト……あれは……後々、少し反省した」
「…………ああ、まぁ、別に痛くなかったし……ネタになったからいいさ、気にすんな。……こっちも心配かけて悪かったな」
おまえ、そういうの多いよな。 後悔するならやらなきゃ良いのに、衝動で動くから……まぁ、そんなところも可愛いと思ってるんだけど。
ほら、今も反省しながらちょっと縮こまってるし。
結果として数ヶ月前の話で、俺も忘れかけてた話を蒸し返してでも謝るような真面目なところも、お兄さんは好きです。
「それと……私の話を信じてくれた事、感謝する」
「それはお互い様だ、俺も嬉しかったよ。俺の話を信じてくれたこともだけど、気持ち悪がったりしなかったこと」
隣にいることを、黙って許してくれたこと。
人の気持ちが分かるのは恐くないのかと、慮ばかってくれたこと。
そんなふうに考えてくれるなんて、思いもしなかった。
「あと、いつも……その……甘いもの……ありがとう」
「どういたしまして、喜んでもらえて何よりだ」
お菓子食べてるときの、あの幸せそうな顔が見れるなら、いくらでも。
その顔を見ていると幸せな気持ちになるだなんて言ったら、恥ずかしがるかな?
「いつも……客の相手を……ありがとう、あれは助かる」
「あー……あれはだな……」
いや、あれは客って言うか何て言うか……ははは。
何だ、その。
「何より」
そう言った後、彼女は少し黙ってしまった。 静まり返った店の中で、彼女の緊張に呼応するように心臓が鳴る。
ああ、俺も緊張してんのか。
「……先程も言ったが……私の名前は、ファータ・クロニカ……だ」
いつか、忘れろと頼まれた名前。さっきのは聞き間違いじゃなかったんだ。
「つまりだな、その……私は……貴さ……あなたに……その……」
言葉に詰まりながら一言ずつ。
良いよ焦らなくて。
ゆっくりで。
どんな言葉でも、きちんと考えて出してくれた答えなら、それだけで嬉しい。
「こ、交際をだな!……申し込みたいと思うっっ」
……ああ、もう。
「の、だが……なんだ、その……」
モゴモゴ言いながら彼女は顔を赤くして俯いてしまった。
少しだけ、後悔。
その後に膨らむ羞恥心。
けれどそれを上回る達成感。
彼女は言いたいことをちゃんと言ったんだ、言葉にして。
つまりこれは、彼女の本心。
「ファータ・クロニカ」
いつか忘れろと言われた名前を口にする。
「……近くに行っても良いか?」
「……ああ、どうぞ」
彼女が客に向ける愛想笑いを、俺にだけ向けなくなったのは、いつからだろう。
いらっしゃいの言葉を言わなくなったのは、いつからだろう。
店を訪ねてくる客に、例外無く向けていたものを俺にだけは向けない。
そんな些細なことに優越感を感じていたと言ったら笑うか?
一歩ずつ、近付いて。
作業台の奥に立つ彼女の元へ。
近付けば遠ざかると思っていたその距離は、ちゃんと縮まってたんだ。
持っていたケーキを作業台の上に置いて、彼女のすぐ傍へ。
「ファータ」
彼女の名前。
「……」
「自己紹介されたってことは、名前呼んでいいんだよな?」
「……ああ」
恥ずかしがって全然顔をあげてくれない、彼女の髪を掻き分ける。
そんなに俯いてちゃ、何も見えないだろ?
「一年待った」
長かったような、短かったような。
「一年前にその言葉を貰っていたら…………」
彼女は俯いたまま顔をあげない。
そんなんだと、いつか大切なものを見落とすぞ。
例えば今、俺が喜んでる顔も見えてないだろ?
だからそんなに後ろ向きな感情しか伝わってこないんだ。
後悔なんて今、必要ないんだ。
後ろや下ばかりを見るな。
邪魔な髪をあげて前を見ろ。
ただそれだけで、見える世界は変わるんだ。
「きっとこんなに感動しなかったんだろうな」
「……え?」
キョトンとした顔。彼女は目を丸くしながら顔をあげた。
……顔を向けられたら向けられたで、何か恥ずかしいな。
「や、たぶん嬉しいは嬉しいんだろうけどな、うん」
もう笑うしかない。そう、嬉しいんだ。
「……また何か勘違いしてるだろ……おまえもうちょっと自信もて」
何を後悔してたのか知らないけど、この顔を見る限りはろくなこと考えてなかったな。『やっぱり言わなきゃよかった』とか、『気まずくなって店に来なくなるかも』とか、そんな感じか?
「ファータ」
この名前を一番最初に呼んだのは、彼女が店で眠っていた時。
飛び起きた彼女は『師匠』と嬉しそうに叫んでいた。
待ってたんだもんな、ずっと。
でもさ、今日は俺を待っててくれたんだろ?
俺が店の扉を開けるのを、ここで待っててくれたんだよな。
「俺の名前はクロム・ルーザーだ」
何度も自己紹介してるのに、全然呼んでくれないから、もう一度。
「その申し出、とても嬉しく思う」
本当に。
「喜んで受けよう」
俺がそう言うと、彼女は目を丸くしながらポロポロと涙をこぼし始めた。
頭の中に響いてくるのは喜びと安心感。
嬉しいのはこっちだ。
「泣くなよ……」
泣きたくて泣いてる訳じゃないんだろうけど。
掻き分けていた彼女の髪をその耳に掛け、後ろに流し、この手を離す。
まるでこれまで一度も泣いたことが無いかのように、ただポロポロと涙を流す彼女にあと一歩近づいた。
前はここまで近づくと、彼女がその分、一歩後ろに下がっていたけれど。
今は近づいた分だけ距離が縮まる。 それが嬉しい。
ここまで来て、抱き締めて良いかなんて聞くのは野暮ってもんだ。
ゆっくりと手を伸ばして。
一人で泣いている彼女の細い肩に、背に、そっと。




