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年上の女・後編

 翌朝。インターホンが鳴ったので和良が玄関へ行き鍵を開けると、ドアの前には咲が立っていた。

 白筒袖に袖を通して帯をし、黒袴を着用した一般的な弓道衣の出で立ちだった。手にはカーキ色の手提げ鞄を持っている。

「着替える」

 差し出された鞄を和良が受け取って見ると、中には同じく弓道衣が入っていた。

「これはさっちぃが買ってきたの? その、費用とか……」

「クリーニング」

 咲の弓道衣をクリーニングに出してきたのかと和良は思ったが、実際に鞄から出してみると咲が着るには随分と大きく感じられた。恐らく他の人のものだろう。

「あ、先輩が着古したもの?」

 咲がそれに頷いた。先輩に大きくなったら着るように貰ったのだろうが、咲の成長はその先輩が思っていたよりも芳しい成果を挙げなかったようだ。

 自分が着替える間、咲を玄関に待たせるのは失礼なのでリビングに案内してオレンジジュースを出した。咲がソファにゆっくりとしているのを確認した和良は自分の部屋に行って鞄から弓道衣を取り出す。

 鞄には白筒袖と袴、腰帯、それに白い足袋が入っていた。和良は服を脱いで胴衣を羽織って袴を穿くと、足袋を履いて腰帯を巻くが、どうにも違和感があった。腰帯がおかしい。

 懸命に咲の姿を思い出して、腰帯が袴の上ではなく、胴衣の腰部分にあったことに気付き、袴を脱いで腰帯を締める。袴を穿くとこれでいいのだろうかと悩みながらリビングへ行く。咲は出てきた和良をソファから見ながら指差してきた。

「死んでる」

「え?」

 あまりにも咲が無表情に言うので、自分は幽霊だったのかと某第六感映画的な悟りに達するが、足を見ても消えてはいないので安心する。幽霊では無いようだ。

 では死んでるとは何を指したのか? 和良にはまったく分からない。

 咲はソファから立つと和良の前へと進み、その雁字搦めの腰帯を解くと、右側が上になっている衿を左側を上にして正す。要するに、先ほどまでの着方では死に装束となっていたからだ。

 それに気付いた和良が礼を言おうとした矢先、腰帯が力一杯ぎゅっと締め付けられ息が一瞬止まる。

「――――さ、さっちぃ、キツぃ……」

 押し殺した声を何とか出すと、咲は頷きながらもそのままぐるぐると腰帯を巻いていく。和良の着方があまりにも杜撰であったために、自分が初回は着付けをすることにした。

 帯を右回りに三周させると、最初に上に持っていた帯の端を巻いた帯の上から下にやり、それに巻き残しの端を重ねてクロスさせる。ちょうどリースツリーに飾るリボンのような形だ。

 そこから、重ねた巻き残しの端を巻いた腰帯の上から通して引っ張り、両端を上下にぎゅっと引っ張った。再び和良は圧迫されて息苦しくなるが、懸命にそれに堪える。

 最後に上にある端を腰帯の中を通して垂直に下ろすと腰帯は締め終わった。次は袴だ。

 適当に後ろで蝶結びされている紐を解いて後ろで交叉させながらぐるりと腰を一周し、咲が体を和良の背中に密着させて体の前で両端を交叉させながら最初に巻いた紐の下を通す。

 和良は咲の柔らかい体が密着することに意識が行ってしまい、気が気ではなかった。背中全体に神経が集中し、そのなだらかな感触にどぎまぎしてしまう。

 咲はそうとも知らずに紐をまた後ろまで回し、体が自然と離れる。それでも和良の背中には咲が温もりが残っている気がした。

 後ろに回した両端を花結びにすると、咲はそれを小さく纏めて下げていた帯に丸めこむと、それらを帯と体の間に巻き込む。最後に見た目を調整してヘラなどを帯の中に隠すと、馬子にも衣装というべきか和良も少しは逞しく見える。

 咲は内心でその完成度に満足しつつ、表面には無感動を装う。

「変じゃないかな?」

 和良が心配そうに尋ねてくるので首を振った。確かに筋肉の無い体は道着を着ても着せられてる感が拭えないが、それでも普段よりは男らしく見えるから不思議だ。主に道着に対する日本人の先入観が大きいとは思うが。

 咲が否定するのでそれを信じた和良は、今日はもうこれだけでいいような気持ちも無いことはない。

「射場に行く」

 咲が先導するようにリビングから歩き出したので、怠惰な心を戒めた和良が応えてそれに続く。

 玄関を出るときに和良は壁のカードフォルダーからカードキーを抜き、外に出ようとしたところで咲が眉根を寄せて玄関に振り返ったので立ち止まった。

「マリ」

「……え? ああ、マリちゃん? 今日は美容室に朝から行ってるから午前中はいないよ」

 こくりと頷いた咲は再び歩を進めるが、昨夜は自分のつまらない冗談で真理奈を酷く恐がらせたことを詫びようと思っていたこともあって僅かに残念に思った。

 幽霊が時折暗い場所で見えるのは事実だが、あの眼鏡は伊達ではなく軽度の遠視用の眼鏡だと昨夜説明するのを忘れていたからだ。

 ちなみに真理奈の背中にいる赤ん坊は真理奈に母性を感じるから憑いているのであり、甘えているだけだと説明するべきかどうかは検討中だ。

 昨夜のいざこざを知らない和良は黙って咲の後を付いていく。

 射場があるのは横葉芸能専門女学院の高層ビル十四階であり、予め咲からそこで稽古を行うことは聞いていた。

 エレベータで降りてロビーを出ると、咲は携帯電話で横葉家敷地内に常駐しているタクシーを呼ぶ。

 和良もその存在は真理奈から聞いていたが、実際に使うのは今日が初めてだった。なぜなら、六台しかないタクシーを横女の女子生徒を差し置いて男子の自分が使うのは気が引けたし、そもそも外出するのは日用品などの買い出しのときくらいなので、実質的に使う機会が無かったこともある。

 今日は咲もいるのでたまに使うくらいならいいだろうと免罪符ではないが思う。車で十分近くかかる距離は女子には中々疲れるだろう。

 そう思いながら寮の玄関の前でタクシーを待っていると、数分して咲が倒れた。忘れていたが、咲は貧血を起こし易い体質だった。

「さっちぃ!?」

 慌てて介護のために咲の体を助け起こすが、二十キロの米袋と大差無い軽さに和良は愕然とする。

(もっと精のつくもの……そうだ、今度焼肉に行こう!)

 そんなことを考えながら寮のロビーに戻ってソファに咲を寝かせた。



 横葉芸能専門女学校の高層ビルは外見がガラスウォールと近代的だ。中は廊下に絵画を飾ったり、特殊な造形の壁時計や所々に黒電話などが置かれていた。

 十四階までエレベータで上がった咲と和良は四角い回廊を進んで奥の射場に入る。中は高校や弓道の教室にある射場と変わらない広さであり、今日一日貸切というのは少し贅沢な気がした。

 和良がそう思いながら射場を見回すと、奥に既に一人だけ先客がいた。

 その女子生徒はポニーテールを赤いゴムで束ねており、薄く日焼けした小麦色の肌が特徴的だった。女子は相当集中しているのか、二人が入ってきたことに気付かず的だけを見据えている。

 右手に持った矢を引き絞りながら、自然、肩より高い位置にあった弓はちょうど矢が肩と水平な位置にまで下がり、同時に左手に持つ弓は的へ向かって僅かに体から離れる。右腕は弦の張力に引かれて肘が上がる。

 女子の動きが止まると、空気が止まったような錯覚を覚えた。否、空気だけではなく、時間も止まっているのかもしれない。

 物音一つしない静謐の中で、女子の胸当てが小さく上下した。呼吸を図っているのか、規則正しい呼吸に合わせて瞬きを数回行う。

 唇を小さく開けて息を吸い込んだかと思うと、唇をきゅっと引き締めて静止する。瞬間、鋭い音が部屋に響き、数秒後にこつんと的に当たる音がした。的場を見れば、的の中心から左下にずれた位置に矢は立っていた。

 両腕を水平に伸ばしたままその状態を保っていた女子は、両腕を腰に戻して顔を正面に向けると、見学していた二人に気付いて目を丸くした。余程驚いたのか、姿勢を崩して後ろに数歩仰け反るように下がる。

「lpこじふgyftdrせあw!?」

「落ち着いて」

 咲の言葉に女子はガクガクと首を縦に振りながらも射場の奥、片隅へと逃げ込みぶるぶると体を震わせている。その光景はどこか恐がりなウサギを連想させる。

 咲は女子のところまで歩くと、そのお尻をペシンと叩いた。

「ひゃうっ」

 恐慌から回復したのか、女子はようやく何とか立ち上がり、今度は咲の両肩を掴んでその背中に隠れながら和良を見てきた。中腰で怯える様はウサギそのものだった。

「こっちは小田和良。こっちは野暮リト」

「こんにちは。リトって漢字は何かな?」

 和良は恐がらせないように穏やかな笑みで近付いたつもりだったが、リトは恐がって咲の肩を引っ張りながら後ろへとずり下がる。

 咲は呆れたように鼻で息を抜きながら、和良に立ち止まるよう手で制止をかけた。

「ロシアと日本のハーフ。男性恐怖症」

 ああ、ハーフなのかと納得した和良は、更に続く男性恐怖症で事態を把握した。人見知りではなく、自分の存在自体が彼女にとって恐怖なのだ。

 リトと距離を離すと、和良は頭を下げた。

「その、ごめんね。男性恐怖症って知らなくて、恐い思いさせちゃったね……」

 こくこくと咲の後ろでリトが頻りに頷くので微妙に傷付くが、男性恐怖症なのだから仕方あるまい。そういう可能性を考慮しなかった自分も悪いのだ。

 和良は弓道場の入り口まで戻ると、咲がそれに続く。リトはそのまま射場の片隅に残った。

「ゴム弓」

 咲が懐からゴムが付いている木の棒を二つ取り出した。一つを和良に渡すと、残った一つを左手に持って両足を揃える。

 両肘を曲げ、両手を腰まで持ち上げると、咲は左足を広げてから右足を上げて後ろへと開く。体勢が整ったところで腹の前にゴム弓を持ち、右手でゴムを握る。

 顔を左に向けると、両手を平行に保ちつつ肩の上まで両手を上げる。そこからは先ほどリトがやっていた動作と同じだった。

 左腕を返して的に向かい伸ばすと、右手に持ったゴムを引きながら弓が肩の位置まで下がる。

 その状態を数秒維持するが、リトのそれよりも空気がピリピリと痺れるような妙な緊張感があった。それは咲が持っているのはゴム弓なんかではなく、本当に弓と矢ではないかと錯覚するほど鋭い気配が集中していたためであった。

 空気が俄かに凪いだ瞬間、ゴムが撥ねて空気を切り裂いた。

 すぐにゴムは木の棒によって制止され下に垂れるが、咲の視線は依然として的を射ている。

 やがて両手を腰に付けると顔を正面に戻し、両足を揃える。そうして両手を自然に下ろした。

「終わり」

 簡潔な実演を見せた咲は、今度は目で和良を促す。

「えっと、最初は的に向かって横を向くの?」

 和良の質問に咲は頷いた。体が的に向かって垂直になるように立った和良は、両足を揃えてゴム弓を腹の前まで持ってくる。

「早過ぎ」

 咲の手が和良の手を抑えて、腰骨のところで止める。順番を途中抜かしていたことを思い出した和良は、頷いて左足を広げると、右足も後ろへと下げる。

 そうしてゴム弓を腹の前まで持ってくると、今度は咲の手が自分の手を持って臍の下まで持っていく。大体これくらいの位置ということだろうか。

 和良は左手に持っているゴム弓のゴムを右手に持つと、それをなるべく力を入れないようにして肩まで持ち上げる。ここまで来れば二度も見ていたので頭の中では所作を覚えてはいる。

 しかし実際にやろうとしてみると難しかった。まず、右手でゴムを引きながら両手を下ろすのだが、どこまで下ろせばいいのか分からず咲に指示してもらう。更にゴムがぎちぎちと張り詰めるほど強く引いているので右手がぶるぶると震える。リトや咲のようにぴたりと止まることができない。

 そうして半ば弓の張力に負けるようにして右手を離すと、棒を持っていた左手の親指の付け根にバチンと当たった。

「~~~~~~~~~~!!!!」

 絶叫しそうになるのを必死に堪え、和良は右手で左の手首を必死に押さえる。

 その後ろでは咲とリトも痛そうな顔で自分の左手を摩っていた。

「あれを経験すると右手が下に下がっちゃうよね!」

「…………」

 リトの言葉にばつが悪そうに顔を逸らした咲が無言で頷いた。



(その後)



 全部で何回自分の左手に当てたかは知らないが、左手は青紫色に腫れていた。

 咲が持ってきた濡れタオルで冷やしながら、ふと和良はリトの方を振り向いた。なぜか自分が練習している間ずっと射場の片隅に蹲っていたのだ。

「リトさんは練習しないの?」

「あの、帰りたいんですけど、あなたが入り口にいて出られないです……」

 和良はようやく得心した。リトが帰るには自分の後ろを通って射場から出なければならない。しかしリトは男性恐怖症で自分に近づけない。これでは帰ることはできまい。

 タオルで左手を押さえたまま、和良は立ち上がった。そうして的場に向かってしばらく歩き、ここなら大丈夫だろうかというところで振り返った。

「ここなら邪魔にならないよね?」

 確認のために尋ねると、リトがそれに満面の笑みで頷いた。


「できればもう二度と私の視界に入らないで下さい」


 石化した和良はこの後まったく練習が捗らなかった。

男性恐怖症で(男性に対してのみ)毒舌な野暮リトさん、今後も出るかは不明。

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