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年上の女・前編

上級生二人のお稽古。チャプターは同じですが、物語内の日付を跨ぐ関係で前編と後編に分割。

 紗和の部屋は京畳で六畳のゆったりとした空間だった。壁には川に集う鹿の水墨画と、淡いピンク色の房のような花弁を付けた馬酔木を、信楽焼きの花器である古信楽尺八という花入れに飾り付けていた。

 その空間はそれらにより春の小川が彷彿とされる。和良と真理奈と美弥はそこに正座して黙っていた。真理奈だけは幼少時に茶道の手ほどきを受けていたこともあって悠然と構えていたが、他の二人は緊張からそわそわと落ち着きがない。

 やがて紗和が襖を開いてお辞儀をすると、返すように真理奈もお辞儀をする。それを見ていた他の二人も慌てて見様見真似でそれに続いたが、本来ここでは上座に座る正客――真理奈だけが礼をすればよかった。しかし二人が初めてであるので紗和と真理奈は敢えてそのことを指摘するのは避けた。

 紗和は部屋に入って釜の隣に座ると、三人に向かって三つ指を突く。

「本日は生憎にも外は雨どすが、せめて皆はんの心がはんなりと過ごせるよう努めさせていただきます。どうぞ、ゆるりとお過ごしおくないやす」

 最後に礼をして部屋から下がると、次に水色の線が入った緑色の羊羹を織部菓子器に載せて紗和が出てくる。菓子器には懐紙と呼ばれるお菓子を載せるための和紙も載っていた。

 正客である真理奈の前に菓子器を置くと、菓子器の正面を真理奈に向けてから礼をして下がる。

 和良はその一連の流れをつぶさに観察してはいるが、沈黙が重い。

 紗和は最初に水差しを運んできて正面に置く。そうしてまた部屋から下がり、今度は右手に棗と呼ばれるお抹茶が入った器と、左手に茶杓が乗せられた茶碗を持って入ってくる。先ほど置いた水差しを頂点にしてそれらが三角形を結ぶように配置すると、繰り返し部屋から下がる。

 置かれた茶碗の中には茶巾と呼ばれる茶碗を拭く為の布巾と茶筅が仕掛けられており、和良の位置からもそれが見えた。

 そうして最後に建水と呼ばれる使った水を捨てる為の器に柄杓を載せて部屋に入り、振り返って建水を正面に置くと、襖を閉めてから建水を持ち直して再び立ち上がる。

 ゆったりと畳を進み、釜と水差しのちょうど中間が正面になるように座ると、建水を左手側の奥に置く。そうして柄杓を少し持ち上げると、建水の中に入れてきた蓋置という蓋を置く為の支えを取出し、柄杓を建水にまた置くと蓋置を建水と釜の中間に置く。

「カズくん、次に総礼があるから、しっかりと心の準備をしておくんだぞ」

「うん」

 紗和は建水から柄杓を取ってそのまま蓋置に載せると、果たして真理奈の言う通り指の先を畳に付けて軽く腰を曲げる。三人も予め真理奈が指示していたこともあって流暢にそれに返礼する。

 ようやく準備が終わり、建水を進めると、紗和は茶碗を右手で取って左手に持ち直すと、右手で持って自分の前に置く。そうして棗を取り、今度は茶碗と自分の間に置く。

 腰帯に挟んでいる帛紗を三つ折りにして取ると、それを手で広げて垂らし、左手で扱いて右手で折り畳むと、挟まっている左手を抜いて右手で持つ。

「帛紗さばきをしている女性の指に視線が行ってしまうのは性だろうか」

「マリちゃんってたまに訳の分からないことを言い出すよね」

「みいい~、足痛いよぉ~……」

 三者三様の反応に紗和はつい微笑んでしまう。

「ミィはん、足がお辛いんやったら崩して女の子座りしてもかまへんよ? カズはんも痛くなる前にあぐら掻いても大丈夫やし」

 美弥はうぅ~……、と呻きながら足を崩したが、和良は特に足を崩すでもなく平然と座っていた。元々、実家では食事中に正座をして食べていた為に少しくらいなら正座でいてもすぐに痺れるような事は無い。

 真理奈はその様子を見ながら、さりげなく足の指を曲げて足の痺れを回避していた。美弥のように足を崩したいところだが、紗和の手前そういうわけにもいかなかった。

 紗和は空いている左手で棗を取ると、帛紗で蓋の横を『こ』の字を書くようにして拭く。そうして茶碗があった位置に棗を戻すと、茶碗の上にある茶杓を取る。

 それも帛紗で拭いて清めると棗の上に置き、帛紗を建水の前に置く。そこで一息吐くと、三人の様子を窺った。

 真理奈は表面上は泰然とした表情で座っているが、和良と美弥は精神的に疲れていそうだった。さすがに初めての茶会で緊張してしまったのだろうか。

 紗和は気を紛らわせるために自分から話題を振ることにした。

「ミィはんはもう授業には慣れたどすか?」

「えー? ぼちぼちでんなあ」

 三人が一斉に『そこでなぜ関西語を使うんだろう?』と疑問に思いはしたが、敢えて気にしないことにした。きっと茶会では関西語を使うというルールがあるのだろう。普通は無いが。この空間においては特別にそれを認めてもいいような気がした。

 点前を続行しながら、その暗黙のルールを破りそうな和良に紗和は目を付ける。既にこの場は弱肉強食の世界と化していた。

「そぉやの? せやけどなんや寮にいなはるときは楽しそうやねえ? カズはんもそう思わん?」

 明確な悪意の意思が見えていたが、和良もそこまで愚鈍ではないので笑顔で応える。

「えっと、ワイもそう思うで」

「カズくんの関西弁ええなあ……」

 うっとりとする真理奈は無視して、更に状況を把握した美弥もそれに乗じることにした。一体この面子は何をしたいのか自分たち自身分からなくなってきているが、楽しいと言えば楽しいのだろうか。

「ほんにぃ? ミィはそんなつもりあらへんかったけどお、たぶんカズにぃちゃんがいるだけでミィは楽しいでぇ」

「カズはんはモテモテやねえ」

「そうやぁ……せやから、うちそればっかりが心配やん? カズくんこん通りの色男やし変な女付き纏ったら思うと夜もおちおち寝れへんわ」

 まさしく付き纏っている女が自分自身だと気付いていないのだろうか、と美弥は内心で黒い衝動を吐き出したくなったが喉元で止めた。さすがにこれを言ったら全面戦争に発展しかねない。紗和はそんな真理奈を見ながら恋は盲目という名言を思い出し、その様を可愛らしく思う。

「でも、中学でも高校でもマリちゃんの方がすごくモテたよね。男女両方に」

 人気という意味で解釈した和良を三人は見つめながら、同時に右手でアウトのサインを出した。最初に関西語を使わなかったのはやはり和良だった。

「ブー、罰ゲームはカズおにぃちゃん!」

 美弥が言い出し、他の二人もそれに賛同する。急に罰ゲームを設定されて和良は困惑するが、空気的にはそれに逆らうことはできそうになかった。

 紗和は棗の蓋を取って右横に置くと、茶杓でお抹茶を掬って茶碗に入れながら、思いついた罰ゲームを提案してみる。

「じゃあな、この三人のそれぞれ好きなところと嫌なところを一つずつ挙げるんはどお?」

「あ、それぃいー!」

「微妙にうちらの罰ゲームちゃうん? それ」

 好きなところはともかくとして嫌いなところまでを挙げてもらうのはどうか、と真理奈は思ったが、紗和は首を振る。

「カズはんにとってイヤなことを減らせるっちゅうことは好きなところを一個増やせるっちゅーことどすえ」

「ほなその罰ゲームで」

 あっさりと納得した真理奈が和良に向き直る。和良はそれに困りながらも、それぞれ考えてみることにした。

「マリちゃんの好きなところは…………耳かな」

「カズおにぃちゃん、それ好きな部分!」

 それでも嬉しそうに顔を赤らめる真理奈を紗和はいじらしく思いながら、嫌いなところも尋ねることにする。

「そんで、イヤなところは?」

「う~ん、マリちゃんは長髪より肩あたりまでの方が似合うよね」

「うち今からエクステ取りに美容室行くわ」

 立ち上がろうとする真理奈を慌てて和良と美弥が押し止めたが、それでも本人は席に戻るとやたらと髪を弄り始めた。

 その傍らで美弥が今度は和良の肩を叩く。

「何?」

「次はミィの好きなところと嫌いなところ!」

 言って! とせがむ美弥に和良は苦笑してしまう。それを知りたがる女の子の気持ちが男にはなかなか理解できないものがあった。

 それでも真剣に考えて答える。

「――ミィちゃんの声は好きかな。あと細い腕? 嫌いなところはマニキュアかな」

「これはネイルアートだもん!!」

 必死に美弥は弁明するが、和良にとってはマニキュアもネイルアートも同じだった。要するに爪を飾り立てたり伸ばしたりするのが嫌なので、特にそこに違いは無い。

 真理奈はニヤニヤと笑うが、紗和は笑っていない目で美弥を見ると、

「茶室ではネイルアートやイヤリング全般はお断りて、昨日あれほどゆうたよね?」

 鬼気迫る形相で睨んでくる。この後、見事に美弥は茶室を追い出されるのであった。ちなみに茶室は携帯電話と腕時計、指輪、その他一切の金属類は持ち込み禁止である。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 お菓子とお茶を二人が頂いた後、茶碗を清めて仕舞いの手順を踏んだ紗和が最後の挨拶の為に二人の正面で座った。

 その前には、拝見のための茶碗と茶杓、棗が置かれている。

 紗和が礼をすると、応じて二人も礼をした。

「そやったらこれにて本日の茶会は終わりとさせていただきます。何か質問があればどうぞ」

 すると、真理奈が手を付いてややお辞儀をする。

「本日は大変結構なお点前に快く過ごさせていただきましたが、どのような趣向でお招きいただいたのでしょうか?」

「まず、春ということで麗らかな小川を考えてお道具を用意させていただきました。茶碗は野々村仁清のしだれ桜、床の間に飾っている水墨画は横葉芸能専門女学院絵画科水墨コース二年生の藤咲久梨はんに頂いた小川、花は小川ということで山間部に自生しなはる馬酔木を用意させていただきました。春の穏やかな小川を歩くようにその心が和めば幸いどす」

「なるほど。確かに小川のさらさらとした音がどことなく聞こえてくるような……」

「雨の音じゃないかな?」

 和良を見ながら二人は納得したように頷く。確かに雨足は最初より強くなり、屋根を叩く音が強くなっている。窓の外では鈍色の曇天が広がり、目に見えて天気は悪かった。

 それでも、心なしかこの茶会の席では雨を気にすることなくお茶を楽しめた気はする。

「ところで、先ほどの和菓子は大変綺麗でおいしかったのですが、謹製はどこのものでしょう?」

「あれも横葉芸能専門女学院の和菓子学科練り菓子専攻を昨年卒業しはった逸早吉乃はんに、今日のため作っていただいた特別なもので、銘は伊豆どす。伊豆を訪れた際の緑溢れる景色を表現したそうどす」

 紗和の説明に感服した真理奈は礼をした。それを見た紗和は、何か質問はないかと促すために和良を見るが、初めての経験で緊張しているのか、和良は黙って正座をしていた。その表情はやはり硬い。

 その様を初々しく思いながら、紗和は最後に礼をする。

「以上を持ちまして拝見も終わりとさせて頂きます。長い時間、ようもお疲れさんどしたなぁ」

「こちらこそ今日は大変勉強になった。礼を言おう」

 応じて真理奈が答えるが、肝心の和良は固まってぎこちなかった。

 一息吐いた紗和は、拝見のために出していた棗を持って部屋から下がると、四角い赤色の帛紗挟みを持ってまた入ってくる。そうして今度は和良の正面まで進んで座った。

「今日は初回ということでこれにて稽古は終わりにするんやけど、次回からは本格的に始めるから必要なお道具を来週までに取り揃えておくんなし」

「はい」

 頷く和良の前に、帛紗挟みの中から懐紙と帛紗、それに出帛紗と菓子切り、扇子を広げる。

 最後に帛紗挟みを置いて、計六点が並ぶ。

「全部で九千円くらいやと思うんやけど、これだけは使い回しがきこへんから自分で揃えてな?」

「はい」

 真剣にそれらを見ながら覚えようとする和良に、そおの横で真理奈が笑う。

「いや、私が付いて行ってどれを買わなければならないか言うから無理に覚える必要はないぞ」

「うん、ありがとう。でも一応覚えれるだけ覚えておくよ」

「せやねえ。お道具はどれも使うし、覚えておいて損は無いなぁ」

 和良はおもむろに扇子を取ると、それをしげしげと眺める。頭の中で連想されるのは棋士や社長が自分を扇ぐために用いている姿だった。

 茶道でも自分を扇ぐためにあるのだろうか?

「扇子はなぁ、お客さんの時は使わんのやけど、お稽古では挨拶の時や床の間を拝見するときにつこてはるんよ。そやから、広げて使うわけやあらへんけど、欠かせない儀式の道具やす」

「ちなみに私はマイ・センスを持っているぞ!」

 ポケットから真理奈が扇子を出して広げると、、そこにはなぜか和良の写真が貼られていた。

 肖像権の侵害以前に、いつ撮影したかすら定かではない、中学時代の運動会での自分の姿がそこにはあった。

 和良と紗和は何も言えず、自信満々な真理奈を呆然と見つめるばかりであった。



 紗和の部屋を出ると、リビングには咲が黙々とソファの上で読書に耽っていた。咲は眼鏡をかけ、部屋着でゆったりとした服を着ている。

「あれえ? さっちぃはもう今日の授業終わったどすか?」

「うん」

 本から目を逸らさずに頷いた咲を見ながら、紗和はキッチンに入って割烹着を着用する。まな板を流しに置くと、煮付けに使うサバをさっと水で洗い、頭を切り落としてから三枚におろしてゆく。

 その横で和良もほうれん草と豆腐、にんじんを切ると、フライパンに油を熱してほうれん草とにんじんを炒める。野菜に火が通ったら豆腐を加え、そこに軽くこしょうを振って自分たちの部屋から持ってきた中華スープの素を入れると、更に料理酒と水も加える。

 一度煮立たせたら水溶き片栗粉を入れてとろみを出し、最後にごま油を混ぜたら飾りに三つ葉を散らす。菜羹の完成だった。

 一方、サバの味噌煮を作っていた紗和もあとは煮立たせるだけであり、すぐに晩ご飯の支度はできそうだった。

「明日はいよいよ弓道だが、最初は見取り稽古か?」

 ソファに同じくかけた真理奈は、咲を見ながら尋ねた。咲は読んでいた本をテーブルに置くと、断るように首を振る。

「ゴム弓」

「いきなりか? 一年掛けてじっくりとやっても射法八節まで身に付けることは難しくないと思うが……」

「素養次第。ダメなら見取り稽古」

 なかなかのスパルタ振りに真理奈は驚きながらも、先生として一任している以上は方針も咲に任せることにしたが、今週はなるべく稽古を見ていて全体的にまず芸の雰囲気に慣れる練習が多く、いきなり実践的な練習をする稽古は弓道だけだ。

 特に弓道は弓を扱う手前他の稽古よりも危険性が高く、基礎をしっかりと身に付けてから安全に練習をさせた方がいいのではとも、真理奈は思う。

 しかし咲はその点において譲るつもりはないらしく、再び本を手に取るとそれを読み始める。

 ふと、真理奈は咲が眼鏡をかけていることが気になった。この六人の中で普段から眼鏡を掛けているのは和良だけだが、どうやら咲もたまに眼鏡を掛けるようだ。

「軽度の近視なのか?」

 真理奈の問いに振り向いた咲が、眼鏡を少し下にずらす。

「伊達」

「伊達? ではファッションで掛けているのか?」

「見えてはいけないものを見ない為」

 無表情に言ってくる咲に背筋がぞわっと震え、真理奈は苦笑する。まさか、そんなものいるはずがない。

 そうとは思うが、眼鏡を少しずらした咲がじっとこちらを見てくるので無性に気になる。聞きたくはないが、どうしても気になる。

「……どうか、したのか?」

「肩、凝る?」

 咲の質問の意図が分からず釈然としないものの、真理奈はそれに頷く。最近、妙に肩が張って痛いのだ。もしかしたら何か霊的なものが関係あるのだろうか。

 まさか、と否定しているはずなのに、真理奈は胸中で胸騒ぎがして咲の瞳をじっと見る。黒い目には自分の顔が映り込んでいた。

「赤ちゃんがおぶさってる」

「はっはっはっは、まさか」

 笑いながら真理奈はソファから立ち上がると、茶碗にご飯をよそっていた紗和の和服の袖を引っ張ってトイレへと向かう。

 そのまま紗和をトイレに連れ込んだ真理奈はなかなかトイレから出て来ようとしなかった。

 疑問に思った和良は先ほどまで話していた咲に何があったのか聞いてみるが、咲は眼鏡を掛け直して肩を竦めるばかりであった。

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