は? パンツ?
日曜日は一日、真理奈に携帯電話の使い方を教えるのに費やしてしまったが、それによりようやく真理奈も着信を受け取ることと受信したメールを見ることはできるようになった。小鹿が自力で立ち上がれるようになったくらいの進歩だが、真理奈にしてみれば偉大な一歩でもあった。
そうして月曜日。今朝は早くから起床すると、和良は昨日の夜に食べた肉じゃがが胃に残っている気がして具合が悪かった。味は料亭で出しても人気料理の一つになるだろうと思えるほど絶品だったが、何分量が多かった。
昨夜は真理奈が張り切って料理をした結果、力士部屋で作るちゃんこ鍋に匹敵するのではないかという量を生産され、急遽他の四人を招聘して消費したのだが、美弥と紗和はまったくの戦力外。意外にも男子と同じ量を食べた咲も哀しいかな、広大な砂漠にようやく見えたオアシス程度の規模しか減らせなかった。
有力株に思えた大志も健闘虚しく途中で矢折れ力尽き、和良だけが最後には孤独な戦いを繰り広げた。
何度も嗚咽を堪え、汁で無理矢理喉に流し込んだ末に、無事に肉じゃがを完食することはできた。しかし、その代償は余りに大きかった。
教訓として最後に、真理奈に大鍋使用禁止令を和良は発した。レストランで使うような一メートル以上もある寸胴鍋をどこから用意したのかは謎だったが、恐らく爺やさん辺りが怪しいだろうと目星を付けながら。
ベッドから起きた和良は衣装ケースからタオルを取ると洗面台へと向かう。顔を洗って目を覚ますと、今度はキッチンへ行って青いエプロンをかけた。
野菜箱からきゅうりとにんじんを取り出すと、それらを水洗いしてから半分に切り、そうして縦に切っていく。数分とかからずにスティックサラダが完成した。
冷蔵庫からマヨネーズを取り出すと、小皿に盛ってスティックサラダに付ける。ポリポリとにんじんを兎のように食べていく。
(今日はもうこれだけでいいんだけどなぁ……)
だが、今日は自分が料理当番であり、しかも月曜と木曜と土曜は大志が朝ご飯を食べに来る日だった。腹持ちと栄養素の両方を考えると、これでは到底食が進まないだろう。
キャベツの千切りとコロッケ、味噌汁、ひじきでどうだろうか。適当に献立を考えてみて、栄養素を鑑みるとそこまで悪くない気がした。これに目玉焼きを加えれば大丈夫だろう。早速和良は料理に取り掛かることにした。
じゃがいもを茹でている間にキャベツを千切りにすると、今度はひじきに取り掛かる。途中で起きてきた真理奈がトイレに向かう足を止めて、キッチンの脇に置かれているスティックサラダを見付ける。
きゅうりを一本取って口に銜えると、その反対側の先端を和良に向けた。
「…………マリちゃん、何してるの?」
真理奈は誤魔化すようにポリポリときゅうりを食べると、黙ってトイレに行くことにした。顔が熱かったが、鈍い和良はまったく気付いていないだろうと平然を装ってキッチンの脇を通り抜ける。
予想通り、和良は頭を傾げただけで特に何も言わず料理を再開した。
トイレに入った真理奈は一人になって落ち着くと急にさきほどのことが恥ずかしくなり、横の壁を平手で叩く。言葉は出なく、ただ恥ずかしさだけが込み上げてきた。
そうしてトイレを出てからスティックサラダを見ると、今度は別の方策が思い浮かぶ。即ち、胸の谷間に挟んで差し出したら食べてくれるのではないだろうか。
「カズくん、うちのここ食べてぇな」
「うん、とっても新鮮で食べ応えがありそうだね」
笑顔で頷いた和良が自分の胸に顔を近づけてパクリ、と先端を口に含む。瞬間、冷たい舌の感触が――――と妄想したところで玄関のチャイムが鳴った。朝食を食べに来た大志だろうと当たりを付けて、真理奈がキッチンから玄関へと向かいドアの鍵を開ける。
果たして客は大志だった。タンクトップにパーカー、短パンという格好は確かに大志に似合うものの、今日は和良が大志に書道を習う日なので真理奈の審査の目が厳しく光る。
「おはよう、タイシ」
「おう。――ん、いい匂いがすんな?」
「ん? ああ、コロッケを揚げていたからその匂いではないだろうか」
大志が満面に笑みを浮かべて口端には涎を垂らす。和良は意図したわけではないが、偶然にもコロッケは大志の大好物だった。大志は「うっひょおお!」と歓喜の声を上げると部屋に入ろうとして、真理奈にそれを妨害される。
玄関に立ち塞がっている真理奈を、不審そうに大志は睨んだ。
「どういうつもりだ、マリ? オレのジャマすんじゃねえよ」
怒気を孕ませて大志は言うが、真理奈は一歩も引き下がらない。当然だった。大志本人は気付いていないが、先ほど歓喜の声を上げると同時に両手を振り上げた大志のタンクトップの肩が微妙に片方落ちていた。このままではポロリが有り得る。
万が一にも大志がポロリをして和良の目が眩んだらと思うと、真理奈は気が気ではなかった。
「服を直すまではコロッケは食わせん!」
「コロッケを食うまでは服なんか直さん!」
互いに一歩も退くことなく竜虎相打つ。
虎と化した大志が四肢に力を込めてその発条により跳躍、噛み付くように真理奈へ踊りかかると、龍と化した真理奈は素早く旋回し天へと昇る。空中で激突した両者は龍が先手を打って虎の腰にまき付きジャイアントスイングのように振り回す!
虎はその勢いから抜け出るために上体を腹筋の力で曲げると、腰から下を捻ってネジの要領で龍のまき付きをすり抜け、同時に前足で地面に着地すると前転して勢いを殺す。
初見は五分と五分、否、龍の体格を生かした攻撃は虎にとって脅威と成り得るのは充分にその実感として得ていた。しかしそれでも譲れないもの《コロッケ》がある。
大志は鶴の構えをした。その雰囲気が変わったことを逸早く察した真理奈が警戒心から身構えるが、それこそが大志の狡猾な罠だった。野生は時として獲物を捕らえる為に狡知に長けることを、真理奈は思い知る。
「あっちむいてほい!!」
大志の右手の動きから自分の右側を指すと瞬時に判断した真理奈は咄嗟に左を向く。そうして右側を一陣の風がすり抜けた。
真理奈は自分の敗北に打ち震えるとがっくりと両膝を地面に付く。勝負に勝って試合に負けた女の姿だったが、それ以前に真理奈が服を直せば良かっただけのことに気付かないことこそ、真理奈が真理奈たる所以だった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「敗者はただ去るのみ…………」
意味深な言葉を吐き残してどこへともなく真理奈が消えた後、大志の朝食が終わるのを待ってから和良は話を始めることにした。
「今日から書道を教えてもらうことになってるけど、道具をまだ準備できてなくて……」
「ん? 道具なら別にオレのを使えよ。どうせどんな道具を使ったって、よっぽど壊れてない限り大差ねぇんだから」
満腹になったお腹をさすりながら大志が笑う。
「いやでも、道具は消耗品だし、なるべく自分で取り揃えようと思うん――」
「カズもいちいち細けーこと気にすんなよ。オレだってこーして飯食わせてもらってんだし、交換交換」
まるで取り合わない大志に和良も渋々承諾して、せめて来週までにはちゃんと道具を準備しようと心に誓う。
食器を片付けて洗うと、真理奈の分のコロッケを油取りしていたクッキングペーパーの上から皿に移し、ラップをして冷蔵庫に入れる。きっと真理奈なら気付いてくれるだろうが、念の為にテーブルの上に書置きも残してから大志の部屋へと向かう。
カードキーは相部屋ということで昨日もう一枚を合鍵として発行してもらっていたので二枚あるが、部屋を出て行った真理奈がカードキーを持っていっていないことに多少の不安を覚えた。
和良は二枚ともカードキーを抜くと、真理奈に大志の部屋にいる旨のメールを送る。それでなくとも今日は書道を教えてもらうと決めていたので、メールを見なくとも分かるだろうが念の為だ。
「準備できたか?」
「うん、それじゃよろしく」
「おう!」
大志の部屋に二人で入る。昨日も入って掃除や洗濯をしたばかりだが、今日見てみると早速床には服が数枚乱暴に捨てられていた。見覚えがあるそれらを拾うと、昨日大志が着ていた服だった。
「もしかしてお風呂入る前に部屋で脱いでる?」
「ん? 普通そうなんじゃねーの?」
何を馬鹿なことを? といった態で聞き返す大志に和良は苦笑すると、黙って服を拾うことにしたが、何かさらさらの生地を掴んだ。
シャツかな、と思って見れば、スパッツだった。スパッツは洗濯機が使えないので手もみ洗いをしなければならないのだが、昨日も十枚近く洗ったばかりなので今日はいいかと妥協する。
「そう言えば昨日洗濯してて思ったけど、タイシはパンツを自分で洗ってるんだよね?」
「は? パンツ?」
心底不思議そうな顔で尋ねてくる大志に、和良は一瞬固まった。自然に床に放り投げられている上に男の自分がこうして手に取っても大志がそれを気にする様子が無いので、スパッツは短パンからはみ出るパンツを隠すために穿いてるとばかり思っていた。しかし、大志の一言によって和良は別の可能性に気付いてしまった。
…………本来、スパッツは下着だ。つまり、大志はそれをそのままの意味で着用しているのでは?
手に持っていたスパッツを見て、まさか、と思い直す。あまりこのことは深く考えないことにした。
衣服を洗濯籠の中に入れると、大志に呼ばれて奥の部屋へと入る。つん、と墨独特の新聞紙のような香りが充満していた。
壁には三枚ほど作品が張られており、それぞれ『永』、『生徳』、『桜』と楷書で認められていた。
和良がそれらを見ていると、、大志は部屋の手前にある足の短いテーブルに座って、自分の隣を和良に勧める。
「まず書道に必要な道具は初学者なら毛筆と半紙と墨と硯。これだけ。筆には四徳があって、それぞれ尖・斉・円・健と呼ばれる筆の状態な。尖は字面通りに筆先が尖っていること。これは鉛筆でも言えんな。先っちょが丸かったりしたら字が書き辛いだろ。斉は筆の穂先が揃っていること。使い込んでいると一本や二本アホ毛みたいに飛び出すが、そいつはもう寿命だから使うの止めろ。んで、円は筆の腹んとこが丸くなっていること。割れていたりしたらそいつも寿命。捨てろ。終いに健。筆に弾力があること。腰のことだな。以上」
実際に毛筆を片手に説明する大志に相槌を打ちながら聞いていたが、ふと疑問に思った。
「墨を抜き取る場合はどうすればいいの?」
「例えばオレが使ってるこの筆は穂が固めてあるから水でちょいちょいと漱いで最後に半紙で揉まずに……う~んと、こう、柔らかく!」
手に半紙を持って押え過ぎず、かといって力を抜き過ぎずに水分を拭う。虫を潰さないように持つくらいの力だろうか、と和良は思う。
それほど力を入れずとも半紙が勝手に水分を吸収してくれるので揉む必要は無く、そっと押すだけで充分に水分は吸い取ることができていた。
「逆に穂を固めていない筆は根元まで、黒い部分が無くなるくらいしっかり洗わないとダメだぜ。そうしないと筆が割れて使えなくなっからな」
和良が頷いたのを見て、大志は筆を置く。筆に関する説明はこれで終わりだった。次に墨汁のボトルを手に取る。
「墨汁は安いやつでも何でもいい。たまに薄い墨汁も売られてたりすっけど、そういう場合は硯を擦れば濃くなっし、ひらがなを書くなら薄い方が味が出たりする場合もある。んでー……紙は半紙で基本的には間に合う。よっぽどのことがねー限りは、全紙っていう一番大きな紙やその半分の半切りは使わねーだろ。オレでさえまだ使ったこたねーし」
へえー、と頷くが、和良には全紙などがどれくらい大きいかはまったく分からない。全紙は幅七十センチに高さ百四十センチであるのに対して、半紙はたったの二十四センチ×三十三センチしかない。およそ四分の一のサイズだ。
更に半紙にも機械漉きと改良半紙の二種類が存在するが、改良半紙の方が墨による滲みが少なく美しく仕上がるので好んで使う人は多い。それでも初学者ならば最初は筆につける墨の量などを体得する意味で機械漉きの方がいいかもしれない。
そうしてそれらの説明を終えた大志が、最後に円硯と呼ばれる円形の硯を手にする。
丁重に扱うためかわざわざ両手で持ち、それを和良へと手渡す。
「それ端渓石っつー中国の石でできた八千円の硯な」
「えええええ!?」
「ウソだけどな」
「えええええ!?」
腹を抱えて笑う大志を本気で睨みつつ、和良は硯をテーブルへと戻す。
「硯は何でもいいぜ。プラスチックのでもいいしな。使えりゃなんだっていんだよ、書道は」
硯に墨汁を垂らし、筆を手に取ると穂先に液を滲ませる。
下敷きの上に半紙を乗せて、道端に落ちていそうな小石を文鎮代わりに置くと、姿勢を正して半紙に向き合う。
最初に斜めに入った一画目に続けて二画目もすらすらと書き、下まで筆を下ろすと撥ねる。そして少し間を置いてから三画目を書き、最後に四画目と五画目を書く。『永』という字が完成する。
そうして筆を置くと、指を動かして一画ずつ指してゆく。
「一画目は側と言って点のこと。次に二画目の最初が勒といって横線、下に下ろせば努といって縦線、ここで最後に撥ねさせて趯。ここで呼吸を置いて、三画目の最初が斜めに上がる横線で策、長い左払いが掠。四画目の短い左払いが啄。最後の五画目にいって、右払いが磔。この永字八法が習字の基礎にして修めないといけない技術」
即ち、基本。
「習字の楷書ではこれを重視してくから、今日は手始めにこの『永』の字をオレが良しというまでひたすら書き取りな」
「その前にどうしても試したいことがあるから、こっちのまだ使ってない筆を借りてもいい?」
「ん? ああ、いいぜ」
首を捻りながら大志が筆を渡すと、和良はその首筋をつーっとなぞる。
「ひ、や、め、ろ、よ、お」
「やっぱりそうなるよね。安心した」
背筋を伸ばして震えながら言う大志に和良は筆を返したが、当然ながら大志は烈火の如く怒った双眸を和良に向ける。
「何すんだよ!?」
「うんと、これには深い事情があって……、中学校の時にマリちゃんがクラスメイトの女子にイタズラで同じことされたんだけど、まったく何にも反応が無かったから」
「不感症なんじゃねーの?」
「言葉の意味を知ってて使ってる?」
「さあ?」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
黙々と『永』の字を和良は書き続けていたが、次第に大志も熱が入ってきて書いている途中でもダメなところを指摘するようになっていた。
酷い時では一画目の点が撥ねたという理由で書き直しと言われた。
それでも和良はめげずに、一画、一画を大切に書いてゆく。
最初に点を書くと、次に流れるように筆を運んで少し斜め下に筆を持ってくると、ぴたりと筆を付けて半紙に墨を馴染ませる。そうして右に水平に筆を運び、筆の尻を旋回させると垂直に落とす。最後にぐっと力を入れて、撥ねる瞬間に力を抜く。ここまでは何度書いても同じように書くことができるようになっていた。
問題は次だった。筆を撥ねさせて一旦離れた筆を、この三画目までの全体のバランスを見ながら再び紙に置かなければならないのだが、その位置が未だに上手く掴めない。そこで既に三十回近く引っ掛かっていた。大志曰く、間架結構法と呼ばれるこの全体のバランスを考えて書くことは、楷書にとって大事な造型らしい。
余韻を残しつつ考え事をしていたためか少し行き過ぎたと思い、慌てて和良は筆を僅かに戻して紙に置いた。隣からは何も指摘が飛んでこなかった。
安心して次に進み、三画目の左払いを終わらせ、墨が薄くなってきたことに気付いて硯で筆を湿らせる。
心持ちゆったりと構えながら四画目に入り、そうして遂に五画目に入る。通算五十三枚目にして、ようやくここまで来れたのだと実感する。その心の感動が体に現れたのか、手が震える。
五画目を書き切って右に払った時、筆に湿らせた墨がぴっと飛んだ。墨は見事に大志の短パンに着地し、そこに黒い斑点を作る。
「お?」
「あ、ごめん、タイシ。すぐに洗うから洗濯籠に入れておいてくれるかな?」
「おお、分かった」
和良が文鎮代わりの小石を寄せて完成した半紙を部屋の奥に広げられている新聞紙に挟めていると、
「カズー、オレのスパッツ知んねー?」
リビングから大志が尋ねてくる。昨日洗ったのはまだ乾いていないのだろうかと思ったが、かといって昨日穿いた洗濯籠に入ってるスパッツを使うわけにもいくまい。
パンツを穿いてもらう。そう思い口を開く。
「洗濯するから、別のパンツか何か穿いてくれないかな?」
「は? オレ、パンツなんて持ってねーよ?」
まさかのカミングアウトに和良は狼狽してしまうが、それでは今日は短パンの下に何を穿いているのかと考え思考が停止した。
短パンを脱いでスパッツを探したということはその下にスパッツは無い。そしてスパッツの下に穿くパンツも持っていない。導き出される結論はたった一つだ。
「なー、カズー……」
足音が近い。声もドアの向こう側から聞こえた気がする。ドアのノブに手がかけられ回った。動悸が激しくなり目を瞑るが、ドアは無情にもキイィと音を立てて開く。それが余計に動悸を早めさせる。
「結局このまんま着た」
見れば、スカートの裾にラインが入ったパーカーワンピを着ていた。それに安心した和良がほっと一安心する。
なぜ和良がほっと安堵したのか分からない大志は頭にクエスチョンマークを浮かべるが、特に気にしないことにした。
それよりも、最後に和良が書いていた書の方が今は気になって仕方が無かった。和良の隣に並んで屈むと、新聞紙に挟んでいた半紙を順番に見ていく。
五十三枚の軌跡を順番に見ていき、そして最後の一枚を見た大志は満面の笑みを浮かべた。それに和良もようやく合格したのだと思い笑顔になる。
「惜しいな!」
最後の右払いが力を込められずにそのまま流れてしまっていた。
通算六十二枚目にしてようやく大志は合格を言い渡した。和良は半紙を新聞紙に挟むと、んー、と背伸びをする。
「それじゃこれから片付けのレクチャーを始めんぞ」
「はい!」
元気良く答える和良に驚きながらも、大志は硯と筆を手に取り、未使用の半紙を一枚だけ持って洗面所へと向かう。
まず蛇口を捻って水を出した大志はそれに筆を打たせて、後はその筆を半紙で包むと脇に置く。
そして硯を持つと、こちらは先ほどと異なり丁寧に洗い出した。
「硯はできれば綺麗に洗った方がいいな。洗わなくてもそれでどうなるもんでもねーけど、気分的にな」
そう言って硯を洗う大志を見ながら、和良は優しく笑った。
「スパッツもちゃんとそうやって綺麗に洗ってね、自分で」
「うっ!?」
(その後)
部屋に帰ってきた真理奈が最初に目撃したのはコロッケを揚げている和良とそれをできた順に食べている大志だった。
「なぜ晩ご飯までお世話になっているのだ、タイシ?」
「教えんのに夢中で気が付いたら四時過ぎてたからよ、ついでにカズに作ってもらった」
おいしそうに食べる大志を見て、一つ真理奈は気になったことがあった。朝に見た大志の格好はタンクトップに短パンだったはずだ。なぜワンピースに着替えているのだろうか?
邪推する真理奈は頬を歪める。
「朝と服が変わってるようだが?」
カレーコロッケを口に頬張っていた大志がそれに頷く。
「カズが張り切ってオレの服に液を飛ばしたから着替えるハメになっちまったよ」
「カズくんのバカ――――ッ!!」
「マリちゃん!?」
明後日の方向へ全力疾走する真理奈を、この後和良は懸命に追いかけるのだった。
【悩む女】
お風呂を上がってタオルを体と髪に巻いた美弥は、昨日買ったばかりの新品の体重計に浮き浮きしながら乗る。
デジタル数字が音を立てて画面に表示された。二キロ増。その数値を見て美弥はごしごしと自分の目を拭いてもう一度見る。二キロ増。
次にバスタオルを取って乗ってみる。一・八キロ増。試しにバスタオルだけを乗せると、0・三キロ増。0・一キロはどこに消えたのか? 謎である。
「にゃ……にゃんで、にゃんで太ってるのぉ~!?」
悲愴な叫びをして、服を着る。お腹周りを気にしながらも靴を履いて外に出ると、九時を過ぎた夜に半月が浮いていた。
F号室のインターホンを鳴らして待っていると、すぐにダークブルーのナイトシャツを着た真理奈がドアから現れた。
「こんな夜にどうしたんだい? ミィ」
「一日で痩せる方法教えて!」
「毎朝必ずトイレに行くことだな」
出せば減る。当たり前のことにも関わらず、なぜか自信満々に言う真理奈に愛想を尽かした美弥は別の人を頼ることにした。
「じゃあね」
手を振る美弥を、腑に落ちない真理奈が手を掴んで引き止めた。
「なぜ?」
「そんな生理機能に頼った方法じゃなくて、一夜で効果が出そうなダイエット方法を聞いてるの」
「ミィはん、ダイエットしとはるん?」
声に気付いて二人が見ると、玄関先にタッパを持った紗和と、その後ろに咲が立っていた。四人は互いにこんばんはと挨拶するが、紗和だけはおばんどすと挨拶をした。
「おばんどすとは夜ですという意味になるが、京都の人が夜に挨拶をする時にわざわざ夜ですというのは変じゃないだろうか?」
文化的な解釈ではなく言語的な解釈をする真理奈に、一同も思わず確かにと思ってしまう。
「そやけどなぁ、こんばんわも京都では大多数の人がつこぅてはるよ。年配の人がたま~に使うくらいどす」
「年配……」
「さっちぃの方が上どすえ?」
下級生二人の反応に注意する紗和を見ながら、本題からそれてしまっていることを咲は紗和が持っているタッパを指差すことで教える。
それに気付いた紗和が慌ててタッパを真理奈に差し出した。
「これなぁ、京都の実家から届いたお漬物どす。多かったさかいお裾分けします」
「これはどうも。京野菜の漬物ならさぞ美味しいだろう」
喜んで真理奈はタッパを受け取ると、上級生二人はそれじゃと帰りかける。
「あ、待って」
美弥が不意に呼び止めるので、二人が振り返ると、切実な顔をしてこちらを見ていた。何か困りごとでもあるのだろうかと、二人は改めて美弥と向かい合う。
「どないしはったのお?」
「えっとね、二人は何かダイエットとかしてるぅ?」
「さっきもそないな話しとったねえ、そう言えば。ダイエットどすか……う~ん、あてはお肉はなるべく食べとりまへんなぁ。そのまんま脂肪になりはるし」
「既にある脂肪を落としたい場合は?」
更に尋ねてくる美弥に、後ろから咲が出てその胸を掴んだ。ひわっ!? と美弥が驚く。
「C」
小さく呟いた咲に美弥が目を丸くする。まさしくその通りだった。それを見ていた紗和がおかしそうに笑う。
「さっちぃなあ、増えたんは胸やあらへんのかて言いたいんよねぇ?」
「うん」
咲の同意に悩む美弥はそうかなぁ? と自分の胸を揉むが、そんな気もしないことはないのでにっこりと笑う。
「そう思うとなんか自信に溢れてきたよ!」
満足気に笑った美弥が誇らしげに胸を張ると、咲は今度は紗和の胸を掴んだ。
「ひゃわんっ!?」
「F」
がっくりと地面に膝を付けて意気消沈した美弥を紗和が慰める横で、自分の胸を触って確かめる真理奈を見た咲がその胸を掴むと、ぴしりと固まった。
それに気付いた二人が不思議そうにそれを見遣る。
「Dなのに、ブラをしてない」
「ホンマぁ!?」
「何でブラをしてないのにそんな形がいいの!?」
三人はそのことに驚愕を隠せない。真理奈はそれに微笑を浮かべた。
「カズくんへの想いがはちきれんばかりに詰まってるからな」
三人は凍りながら、それ以上は何も言えず泣く泣く自室へと戻っていった。
(その後)
部屋に戻った咲は、男子と同じく欠片も膨らんでいない自分の胸を育てるべく今日も牛乳を飲むのであった。
紗和と咲と美弥が学校の授業で出せなかったので夜の部として【悩む女】を追加。