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息子さんを私に下さい!

 進学校を卒業した三月の記憶もまだ新しい四月。

 小田家の二階にある和良の部屋で、母親のかほりが眉を顰めて通知を眺めている。

 通知の冒頭は桜散るの名文で飾られていた。

「むむむむむ…………」

 窓の外を見れば桜は今が咲き頃で、今週末がピークを迎えるとニュースキャスターは言っていた。なぜ自分の息子だけこんなにも早く桜が散ったのか。

 悩ましい頭を抱えながら部屋から出て階段を降りる。グラタンの甘いミルクの匂いに釣られて居間からキッチンに向かうと、青いエプロンをした小田和良がサラダボールにレタスやルッコラ、春雨を入れてそれにサラダドレッシングを絡めていた。横には最後に飾りとして置くのだろう三つ葉が用意されている。

 和良はかほりに気付くと眼鏡を右の二の腕で掛け直して柔らかく笑った。

「もうすぐ晩ご飯の支度ができるから箸を用意してくれる?」

「はーい」

 かほりは和良に頼まれて食器棚の箸差しから和良と夫と自分の分の箸を抜くと、軽快な足取りでテーブルに向かい箸を並べた。

 更にいつも通り茶碗も抜かりなく準備すると、大人しく居間に座ってテレビを点ける。

 ちょうど時刻は六時を回ったところで、夕方のニュース番組では地元の高校の入学式の模様が放送されていた。

 初々しい高校生が一人一人名前を呼ばれて起立する姿は、懐古心を呼び起こして息子の和良の時もこうだったなあ、と感慨に耽る。

「お待たせ。サラダとビシソワーズは冷やしてるからいつでも大丈夫だけど、グラタンはあとオーブンの中で焼いて少し焦げ目を付ける必要があるからお父さんが仕事から帰ってきたらみんなで食べよう」

「うん、分かった。いっつもありがとね、和良」

「もう日課みたいなものだから」

 笑って答える和良にかほりは心底感謝しながらも、脳裏には先ほどの入学式の様子が離れない。

 かほりは姿勢を正すと、真向かいを指差して和良を見つめる。

「ちょっとね、お母さん話があるから座って」

 和良は小首を傾げて「何だろう……」と小さく呟きながら正面に正座で座る。

 かほりは息子の顔を見つめながら頭の中を整理すると、おもむろに口を開いた。

「お母さんね、和良は料理もしてくれるし洗濯もしてくれるし日曜大工だってしてくれるからすっごく助かってる。助かってるんだけどね、さすがに大学受験に落ちても何気なく主夫をやってちゃ、いけないと思うの」

 毎日朝も夜も家事で忙しかったから昼の勉強に身が入らなかったのではないか。

 かほりはそんなことを思いながらある重大な決意をした。

「だからね。和良はこれから一年間しっかりと勉強に専念して、代わりに家事はお母さんが」

「やらないでくださいお願いします」

 即答で和良が土下座をすると、かほりもそこまで強気で家事をやるとは言えない。

 弁護士として普段は仕事でとても忙しく、家事をやっている時間が無いのも事実ではあったが、それ以上に小田家には暗黙の了解があった――――かほりが家事をすると家が崩壊する。

 料理をすればなぜか新進気鋭の印象派の画伯が描いたようなぐちゃぐちゃのよく分からない食べ物が出てきて、挙げ句それを食す者は翌日トイレから出ることができなくなる。

 洗濯をすればどんな服も真っ白になるが、プリントされている絵柄や刺繍によるレースなどがなぜ綺麗さっぱり消えてしまうのか未だ解明はされず、小田家の七不思議の一つに入っている。

 掃除など建て前でしかなく、掃除という名の戦争の現場を不幸にも目撃してしまった夫の遼は、後日息子に悲しい戦争体験として『電灯は揺れ、壁には皹が入っていた。ぼわー、ぼわーっとコンロが炎上して、あー、もうお父さんこれまでだなって……』と語って聞かせた。

 そんな悲しい歴史を顧みて決められた暗黙の了解を、かほり自身も自覚していた。

 それでも和良の未来の為を思ってかほりが食い下がろうと口を開いた時だった。玄関のインターホンが鳴った。

 回覧板かしら、と思いながらかほりが玄関に出てドアを開けると、スーツ姿に伊達眼鏡をかけて、後ろにメイドを侍らせた女の子が立っていた。

 エクステされた茶髪や薄い化粧で一瞬かほりには誰なのか分からなかったが、首にかけている貝殻のペンダントを見て判然とする。

「あら、もしかして真理奈ちゃん?」

 かほりが息子の幼馴染みの名を口にすると、真理奈と呼ばれた女の子が斜め四十五度に腰を曲げてお辞儀をする。

「ご無沙汰しておりますお母様」

「そんな改まらなくってもいいのに~。それに高校では生徒会長を務めてて忙しかったんでしょう? 和良から話は聞いてるわ」

 かほりの言葉に頬を赤らめた真理奈が、いえ、と首を振る。

「浅学ながら学校の良き指導者として生徒の規範となれるよう努力はしましたが、至らぬ点も多く己の未熟を思い知りました。ですが、同時にとても貴重な体験もできて私は一段と成長することができたと思っています」

 頬には笑窪を作り自信に満ちた表情を覗かせる。

 かほりは真面目な真理奈の気質に好感を持っていた。二年ぶりに会って更に女らしく綺麗に育ちながらも、その生来の気質が衰えるどころかなお一層の磨きがかかっていることに頼もしさを覚える。

(こんな子が和良のお嫁さんだったら――)

 何事にも消極的な和良をぐいぐいと引っ張ってくれる姉さん女房の役割を果たしてくれるだろう。そんな想像をしながらも、まさかと自分でそれを否定する。いくらなんでもこれほどの娘にうちの息子では不釣合いだろうと思い改める。

 勝手な想像を振り払うと、かほりは来訪の理由を尋ねることにした。

「……それで、今日はどうしたの?」

 真理奈はそれを聞くと素早く玄関に正座をしてくる。その余りの早業にかほりが唖然としていると、


「息子さんを私に下さい!」


 近所にも聞こえんばかりに大きい声で言う真理奈に、かほりは目を白黒させて驚いている。家の中ではがしゃんと皿が落ちて割れる音がした。恐らく珍しいことに和良が落としてしまったのだろうが、さすがに今回ばかりはそれも納得だった。いきなりこんなことを言われたら誰だって驚くだろう。

 真理奈は頭を上げると真摯な瞳でかほりを見つめる。

 かほりは混乱する頭で状況を整理しようとするが訳が分からない。

 そもそも婚約とは民法にその規定がなく判例によれば使用賃貸契約と異なり諾成契約なので口約束でも法的拘束力が生じることを認めているがかといって双方に婚姻の意思があるかどうかが一番の問題であり――

「そうよ! 婚姻における要件は当事者双方に婚姻の意思があるかどうかだけ!! 真理奈ちゃん、もし息子がほしいなら息子を説得すればいいわけで私に言うのは意思の錯誤で契約無効よ!」

「確かに!」

 衝撃を隠せない様子で目を見張る真理奈を見て、勝ったな、とかほりは口元に笑みを浮かべる。主に心理的な威厳か何かで。

 痛恨の失態にほぞを噛む真理奈は、すっと立ち上がる。

「ではお言葉通りに息子さんを説得するためお邪魔させて頂きます」

 靴を脱いで玄関を上がろうとする真理奈をかほりが立ち塞がって邪魔をする。

 真理奈はそれを胡乱な目で見たが、すぐに脇を通り抜けようとして再びかほりの妨害を受ける。

 バスケットボール選手のように腰を屈めた真理奈は、フェイクを上手く入れて右と見せかけ左を抜けようとするが、両手を大きく横に広げたかほりが懸命に妨害工作をしてくる。

「お母様、どういうおつもりですか!?」

「婚姻のために和良を説得する前にまず、和良に会うために真理奈ちゃんが我が家に入ることを私に納得させてみなさい!」

 胸を張って威張るかほりに、真理奈は一歩たじろぐ。だが、その肩を後ろに侍ていたメイドが支えた。

「お言葉ですがマダム。あなたは一人の女性と一人の男性との会話を妨害しています。その妨害行為は国民の幸福追求権を著しく阻害しかつ、あなたのその行為は権利の濫用に当たるのではないですか?」

「私は良心の自由からこんな夜遅い時間に女の子が男の家に上がりこむのは良くないと思うわ。また日を改めてお昼にでも出直してきなさい」

「夜六時二十二分五十二秒を早いか遅いかで鑑みると、日本の一般的な職業である会社員の統計学上の帰宅時間は夜の七時から十時が全体の三分の一を占めていて最も多いはずです。ここから推察するに六時二十二分――失礼、今は二十四分ですね――は日本人の三分の一の人間から見てまだ就業時間である可能性が高く、よってこの時間を夜遅いと表現するのは些か誇張に思われます」

 メイドの指摘にかほりはにっこりと慈母の如き笑顔を向ける。

「学生はもう学校が終わってる時間よ?」

 空気が凍った。最初からかほりはメイドと真正面から戦う意思などなく、単純に最初の意地で何としても相手を言い包めたいだけだった。要するに、最初に障害として立ち塞がった手前、本心では中に入れても構わないが負けを認めるのが嫌なだけだった。まったく子供である。

 それでもメイドは必死に反駁を試みる。

「ですが――」

「いや、もういいんだ、レイカ。私は自分の非を認め、また後日改めよう」

「真理奈様!」

 よろりと後退する真理奈の肩をメイドはしっかりと支えるが、その主人は既に生気を失い蒼白な顔をしていた。

 熾烈な戦いの末に勝利を収めたかほりはちっぽけな自尊心が満たされ、悠々と屋内に凱旋をしようとして、居間のドアから冷めた目でこちらを見つめている和良の姿を認めた。

「えっと……話済んだ? さっきお父さんからメールがあって遅くなるそうだから、先に食べててくれって。二人ももし晩ご飯まだなら入って食べていったらどうかな?」

「カズくんがそう言うのなら私は喜んでお邪魔させてもらおう!」

 和良の申し出に嬉々として真理奈とそのメイドであるレイカが玄関へと入ってくる。

 健闘虚しく二人の来訪を許してしまったかほりは玄関に座りこむと灰色に燃え尽きてしまった。

 その姿に哀れを感じたのか、レイカがかほりに手を差し伸べた。

「ナイスファイトでしたよ……、お・ば・さ・ま?」

「まだぴっちぴちの四十三じゃっーい!」



 ビシソワーズとサラダは元々多めに用意していたこともあって四人分用意することができたが、グラタンはそうもいかず、客人だからと遠慮した真理奈とレイカが二人で一つを半分ずつ頂くことになった。

 四人で頂きますと唱和してからめいめいが箸やスプーンを取って食事を始める。

 最初にスプーンでビシソワーズを口に含んだレイカが微笑しながら目を細める。

「とてもなめらかでしっかりとじゃがいもが溶け込んでいます。基本に忠実な、ですがとても優しい味です」

「えっと、ありがとう……?」

 褒められているのかいまいちよく分からず礼をすると、レイカは小さく返礼をした。

 普段は両親と自分しか食べないからかこうして味の品評をされるということがなく、何とも不思議な気分だった。

 一方のかほりは平素と変わりなく黙々と食べている。

 そんないつもの光景に和良が安心すると、和良の向かい側に座っている真理奈が笑いながらこちらを見ていた。

「どうしたの?」

 気になって和良が尋ねると、真理奈が持っていた箸を一旦テーブルに置いて姿勢を正す。

 食事の前に伊達眼鏡は外してレイカに預けてあり、整った顔立ちを和良へと向けて真剣な表情で口を開く。

「カズくん。私のために毎朝味噌汁を作ってくれないか?」

「あ、ごめん。マリちゃんはスープより味噌汁派だったよね?」

 笑いながら謝る和良を三人は見ながら、鈍すぎだろうと心の中でツッコミを入れる。

 本人はどうやら真剣らしく、確か味噌を使って作るビシソワーズもあるよ、とまったく関係ない話を始める始末だった。

 本格的に息子の将来を危惧したかほりはスプーンを皿の縁に置くと、体を傾けて真理奈の方へと向き直る。

「さっきの話だけどね。一年、和良が花婿修行をして互いに婚姻の意思がある時は、二人が婚姻届を提出するのはどうかしら?」

 突然のかほりの提案に和良は驚くが、それを聞いた真理奈はかほりに向き直って土下座した。

「お母様、私たちの関係をお許しいただきありがとうございます!」

「えっと、あの、何の話を――?」

 戸惑う和良の横で、メイドがおもむろに立ち上がった。居間から出て行くと、すぐに巨大なスーツケースを持って戻ってきた。

 和良とかほりは何なんだろうかと訝しい目でそのスーツケースを見ていたが、真理奈が目で合図するとレイカはスーツケースを開けた。中には福沢諭吉が印刷された紙幣が大量に詰め込まれていた。

 その余りの額に二人は目をぱちくりさせる。

 真理奈がにっこりと笑った。

「支度金の五百万円です。正式に結婚が決まったわけではありませんが、とにかく心ばかり用意させていただきました」

 かほりはそれを見てスーツケースを押し返すと、真理奈に笑い返す。

「要りません。うちはお金には困ってません」

「ですが、家事には困りますよね。優秀なメイドはどうですか?」

「――だから、……?」

 しつこく食い下がる真理奈にかほりは呆れながらも断ろうとしたが、それより早くレイカがかほりの前に出る。

 レイカはぺこりと頭を下げると、メイド服の裾を抓んで上品にお辞儀をする。

「このレイカは横葉家が雇っているメイドの中で最も優秀なメイドで、家事は勿論、日本語、英語、ラテン語、中国語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、アラビア語と十ヶ国語を修得している上に数々の国家資格、加えて各種運転免許と調理師免許、船舶免許、危険物取扱者免状まで取得しています。そして何より、現代人に嬉しい機能としてマッサージ師免許を持っています!」

「よし、よろしくねレイカちゃん!」

「――――ええっ!?」

 あっさりと承諾した母親に和良は頭が痛くなりながらも、ずれた眼鏡を掛け直して真理奈を見る。

「えーっとさ、本当にぼくと結婚することになるんだよ? マリちゃんは嫌じゃないの?」

「何を言う? むしろそれは私の望むところだよ」

 はっはっはっ、と大らかに笑う真理奈にそれ以上は無駄だと察した和良は、仕方なく先ほどの話に乗って花婿修行をすることにした。昔とまったく変わっていない真理奈のことだから最後には意地でも我を通すと、和良は実体験を通じて分かっていた。

「それで――ぼくは具体的に何をすればいいの?」

「横葉家で一年間同居をしよう! それでもしカズくんが私に気に入らないところがあったら婚約は破棄ということで」

 どうだろうか?

 真理奈の申し出に今さら否やは無かった。

 和良はそれに同意をすると明日からの転居を確約して、その日は二人に一旦引き取ってもらった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 BMWに乗って到着した先は、大豪邸だった。

 白い塀の上には有刺鉄線による鉄条網が張り巡らされ、犬を連れた青い制服の正義の味方が散歩しているなど、厳戒な警備体制が取られている。

 鉄格子の門を抜けた先には噴水付きの広大な庭があり、その舗装された道を車は進む。

 あまりの豪邸に和良は車の窓から外を眺めてただただ驚くしかない。

「マリちゃんの家って初めて来たけど、すごいおっきいね」

「ああ、地図無しでは丸一日迷うかもしれないな」

 笑えない冗談に和良が蒼褪めていると、真理奈が正面を指差した。

「あそこが本家手前の別館だ。あそこにこれから二人で住むことになる」

 どれどれと和良が見れば、そこには高校の校舎ほどもある巨大な洋館が建っていた。

 外見は普通のコンクリート住宅だが、窓辺に出窓や一階にバルコリーなどが付いており、脇には体育館のようなものまで建っている。

「二人で暮らすんだよね?」

「そうだが……もしや不満があるのか? 言ってくれれば至急手配するが」

「不満じゃなくて、むしろその逆で大きすぎるんじゃないかな、と」

「む、そうか。では代案としてだな、横葉財閥が運営している寮に入るのはどうだろう?」

 寮ならばこれほど大きくは無いだろうし、何よりそこには少なからず他にも何人か住んでいる人がいるだろう。

 そう思った和良が頷くと、真理奈は運転手の爺やに目的の変更を指示した。

 爺やは畏まって車の進路を変えると、行く手に大きな高層ビルが見えた。

 本当にここは私人所有の土地なのだろうかと和良は疑問を隠せない。ビルに近付くにつれ、周りには服飾店やコンビニまでもがあるのが見えた。

「ねえマリちゃん。ここってマリちゃんの家だよね? 普通にお店があるんだけど?」

「あれは横葉財閥が法人として営業している専門学校に通う生徒のために営業許可を発行した正式な支店だ」

「あ、もしかしてさっき言ってた寮ってそこの?」

 合点がいった和良が言うと、真理奈がそれを首肯した。

 そんなこんなで車は専門学校を通過し、その奥にある十五階建てのマンションの前で止まる。

 マンションの横には立体駐車場まであり、広いその面積に贅沢にも二台だけしか停められていなかった。

 車は二人を降ろすと立体駐車場の方へと進んでいくが、本来なら二百台は収まるはずのスペースに車が三台しかない光景はどこか寂しかった。

 和良は真理奈に続いてマンションのフロントに入ると、受付にいた女性が頭を下げて礼をしてくるので慌てて返礼する。

「新しい入居者の小田和良と横葉真理奈だ。相部屋で構わないから一部屋貸してもらえるかな?」

「真理奈お嬢様の為でしたら至急十五階をすべて空き室でご用意いたします」

「いや、新婚生活にはご近所付き合いも重要だと聞く。構わないからそのまま空いている部屋を貸してくれ」

「はい、畏まりました」

 二人のやりとりを傍から見ていた和良は黙ってロビーで待っていたが、後から中に入ってきた女の子のために道を開けた。

「あ、ありがとね、おにぃちゃん! ――って、あれ? 男の人?」

 金色のツインテールを揺らしながら釈然としない表情で女の子は和良を見上げてくるが、和良は何がおかしいのかまったく分からない。

 女の子はじろじろと和良を見て回っていたが、やがてくんくんと和良の体を嗅ぎだした。

「わ、何を?」

「おにぃちゃんじゃなくて実は男装のおねぇなのかなって思ったけどそんなことはなかったのだー!」

 ばばーん、と口で効果音を足してから言う女の子に和良は苦笑を禁じ得ない。

 独特な愛嬌のある女の子で話しやすそうだからか、先ほどのことを尋ねることにしてみた。

「ぼくは男だけど、ここに男がいたら変なのかな?」

 女の子は八重歯を覗かせてにこっと笑う。

「うん、すっごく変だよぉ。だってここは横葉芸能専門女学院に通う生徒に与えられてる寮だから」

「横葉芸能専門女学院?」

 首を傾げる和良に女の子は驚きの表情で和良を見返す。

 信じられないと言わんばかりだった。

「横葉財閥が運営している芸能の専門学校を知らないの? ぬぬぬ、解せぬ――というわけでミィが特別におにぃちゃんに解説してあげる!」

「ご丁寧にありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる和良に、「いえいえー」と女の子が手を振る。

「横葉芸能専門女学院は日本の伝統を護るために芸能諸般を教育し技術を受け継がせてゆくことを目的とした横葉財閥の法人学校でありながら国によって正式に認められた教育機関でもあるというとにかくスゴイ学校らしいのだあ! ただし女に限る」

 早口で捲し立てる女の子の説明を聞いて、ようやく納得がいった。

 先ほどの高層ビルがそれであり、あそこに通う生徒は女学院なので当然の如く女性である。そしてその生徒に与えられている寮には女子生徒が住んでいる。そこへ男の自分がいるのは甚だ変だ。

 すべてを理解して、和良はやっぱりここに住むのは止めようと思い真理奈に言おうと振り返るが、ちょうど受付の女性が真理奈から受け取った契約書類を受理したところだった。

「これで今日からカズくんと同棲が始まるな」

 和良の正面まで戻ってきた真理奈が満面に笑みを浮かべて言うが、和良は笑えない。

 代わって今度は隣に立つ女の子が受付にポケットから出した書類を提出する。

「今年入学の音楽科琴専攻の鴨野美弥です。家の都合で寮生活を希望したんですが、手続きに不備があって足りない書類を持ってきました」

 女性は女の子から書類を受け取って確認するが、申し訳無さそうに眉根を寄せて頭を下げる。

「――えっとね、この書類だと申請期間がもう過ぎていて部屋の貸し出しは……」

「え…………」

 表情を固めて立ち尽くす女の子に、和良は可哀想な気持ちになって受付のところまで歩いて行く。

 受付の女性は和良に気が付くと、不思議そうに視線を向ける。

「あの、マリちゃ――真理奈さんとぼくの部屋をこの子に譲ることってできませんか? ぼくたちは別のところに住むので」

 最初に紹介されたあの学校みたいな大きい邸に住めばいい。そう思って進言してみたが、突然後ろから真理奈が抱き付いてきた。

「相も変わらずごっつ優しゅうて、うち、カズくんのそういうとこ好きゃねん!」

 柔らかい感触が背中に当たり、和良は顔が熱くなりながらその手を振り解く。

 つれへんわー、と唇を尖らせる真理奈に和良はどきどきしながらも諌めることにした。

「マリちゃん、また地が出てるよ」

「え、ホンマや!? ――んっ、こほん。とにかく、私からも受付の君にお願いしたいんだが、いいかな?」

「あ、いえ、真理奈お嬢様からの要請とあらば特別に部屋をご用意させていただくので心配はなさらないでください」

 慌てて電話をかけて何事かを忙しく手続きし始めた受付の女性を見ながら、和良はこれで一安心だと肩を下ろした。

 受付の前にいた女の子が、そんな和良と真理奈の前に歩み寄って頭を下げる。

「あの、本当にありがとうごいます! お陰ですごく助かりました」

 ひまわりのように明るい笑みを浮かべて言う女の子に、和良は頭を下げた。

「あ、いや、最初に色々と教えてもらってお世話になったのはこっちだし、だからお相子だよ」

 笑って言う和良に女の子は驚きながらもくすりと笑った。

「おにぃちゃんってとってもいい人だね。ミィ、惚れちゃった」

 それを聞いた真理奈が反射的に和良を抱きしめ二人を引き離すと、鋭い目を女の子へと向ける。

「ははは、惚れるのは勝手だが泥棒猫はよくないぞ?」

「ミィは猫じゃないもん! それにぃ、おにぃちゃんにだって恋愛の自由はあるよ、ねー?」

「うん、まあ……」

 曖昧にお茶を濁しながら隣の真理奈を窺うと、ふるふると唇が震えていた。

 まずい。

 直感的に和良は真理奈を宥めようとしたが、遅かった。真理奈が大粒の涙を流す。

「えーん、ややー! カズくんはうちのじゃなきゃ、ぃややあー!」

 泣き喚く真理奈に唖然とする女の子を見ながら、前途多難な四月に、和良は気が重くなる一方だった。



(その後)



 泣き喚く真理奈の背中をさすったり頭を撫でたりなどして落ち着かせた和良は、白い目を向けてくる受付の女性からカードキーを受け取って新居の部屋へと向かっていた。

 エレベータを出て十五階に着くと、六部屋ある内の一番奥、15-Fというプレートが掛けられている部屋へと進んでゆく。

 ドアの前まで来るとちょうどエレベータがまた上がってきて、和良が音に振り返ると先ほどの女の子が出てきた。真理奈が反射的に邪魔するように間に立つ。

 和良は苦笑しながらも女の子を見る。

「あれ、君もこの階なんだ?」

「うん、15-Dだよ。おにぃちゃん」

 明るく笑う女の子に癒されながら、和良は真理奈の横に進み出て手を差し伸べて握手を求める。女の子がそれに応じて手を握る。

 真理奈はわなわなと震えていたが、懸命に自己を押し殺して堪えているようだった。口元は笑っているが、目はまったく笑っていない。

「ぼくは小田和良。和良が長かったらカズでいいよ」

「ミィは鴨野美弥だよ。ミィって呼んでね、カズおにぃちゃん」

「うちもカズおにぃちゃんって呼ぶんやぁー!」

「えっ!?」

 対抗心を燃やして叫ぶ真理奈を宥めるのに更に十五分の時を要したのはまた別の話である。

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