僕の屍を超えてゆけ!
今日を乗り越えれば、幾らかマシな自分になれるはず。停滞した今を切り開く、何かを掴めるはず。
そう信じて、バスに揺られていた。
車内には、まばらに話し声が聞こえる。しかし、エンジン音でくぐもっていて内容までは聞き取れない。
周囲を見やると、ニット帽・着ぶくれするほどのウェア・スノーブーツ、厚着の乗客ばかり。車内の暖房が眠気を誘うのか、何人かは居眠りをしていた。
じろじろ見るのもよくないと、視線を真横の窓に移す。
窓の外には見渡す限り、枯れ木のはげ山が広がっていた。
真っ白な雪山のような秀麗さはなく、ブラウンの土の面に中途半端に白い雪が積もっている。
しかし自分の目にはそれが、ガトーショコラのように見えた。
遠くにはまだ登り切っていない太陽があって、山々の稜線をうずうずと超えようとしている。
その逆光が、山頂部を真っ黒に塗りつぶしている。
そんな窓の外の風景が、またバスに揺られている自分自身が、なんだか自分ごとには思えない。
山景色など見慣れているはずなのに、見知らぬもののように見える。つい数年前まで毎日のように乗っていたのに、今バスに乗っていることに実感が湧かない。
車窓の景色は、後ろへ後ろへと、流れていく。
手元のスマホで時刻を確認する。あと15分ぐらい…。バスを降りてすぐに走っていけば、間に合うだろうか。
微かに鼓動が高鳴り始める。
勾配が激しくなってきて、背と背もたれがずっしりと密着する。
バスは、急カーブのS字道を登っていく。道幅が狭く、この巨体では対向車が来たら通れるかわからない位だ。
左側の山と、右側の崖。それに押しすくめられる、この道。バスがゆっくりと進んでいく中、その閉塞感に心臓が更に早くなった。
"もし、反対側から車が来たら、時間通りに到着できないかもしれない。遅刻厳禁と書かれていた。いやとにかく、対向車が来なければ大丈夫だ…"。
悲観的な声にキリキリとしていると、しばらくして、ふわっと背もたれから解放される。
どうやら、勾配を登り切ったらしい。身体の力が抜けて、息をつく。
窓の外は、一面の雪景色になっていた。広大な平地に敷かれた、足跡一つもないなめらかな雪の絨毯。
いつのまにか太陽も山頂を超えていて、朝焼けに照らされたはげ山が、収穫期の小麦畑のように黄金色に輝いていた。
雪と朝陽の壮観さに、見入る。
「次は、裏次郎。裏次郎。」
車内アナウンスが響き渡り、ビクリと身震いをする。周囲では、眠りこけていた人も目覚めて、ノビをしていた。
時刻を確認する。あと5分。ドキドキと、先ほどよりも早く心臓が鳴る。
運賃は事前にポケットに入れているし、グーグルマップも目的地に設定して開いているし、忘れ物がないか、座席も点検した。
足元のリュックサックを膝の上にのせて、ぎゅっと抱きしめる。
"第一歩目、頑張ろう"。
肩ひもを片側に通して、すぐに席を立てるようにして、今か今かと、バスが止まるのを待ち構えた。
プシューッ。
停車するのと同時に通路に出る。前方の座席の人が立ち上がるよりも先に、降車口へ一直線。車掌さんに感謝の言葉を告げて、ぴったりの金額で運賃を支払う。
バスから降りると、冷たい外気にブルリとした。遠くでは流行りのウィンターソングが聞こえてきて、前方にはリフト乗り場の大行列が見える。
しかし、その冬の景色に感じ入っている余裕はない。
くるりと後ろを向いて、マップが示す方へと駆ける。雪を踏みつける時の、シャクシャク・ギュッギュという音が足元で鳴る。
車でごった返している駐車場。泥水を吸った茶色い雪、黒いタイヤの跡、まばらに露出した砂利道、ガソリンの匂い。
白い息を吐きながら滑らないように、しかしできるだけ早く走る。シャーベット状の雪を踏むとペショッとする。つるつるの道に気を付けながら、シャクシャク・ギュッギュ...。
駐車場から道路に出ると、すぐに"そこ"は見えた。
すこしくたびれた白い建物。辺りに積もる真っ白な雪が、その年季を浮き彫りにしているようだった。
一面白色の中で、正面に大きく印字されたその名前だけが緑色に浮かび上がっている。
”ホテル サンアルプス"
入り口付近は丁寧に除雪されていて、微かに荒くなった息をそこで少し整え、足裏の雪をトントンと落とす。そして、その自動ドアの中に入った。
玄関口に入るや否や、すぐにスリッパに履き替える、時刻を確認する。あと2分。よし、ぎりぎり間に合った。
すれ違うお客さんたちの存在がやけに気になって、まだ従業員ではないはずなのに見られている気がしてしまう。
挙動不審にならないよう、背筋を伸ばして、再度息を整える。そして、フロントにお客さんがいなくなった時を見計らって、飛び出した。
「おはようございます!タイミーから来ました川崎です。本日はよろしくお願いします!」
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始業5分前、僕は早速ピンチに直面していた。
貸与されたエプロンの結び方がわからなかったのである。生まれてこの方、肩にかけるタイプしか着たことがなかった。
結び方を聞くべきか。いや、それすら知らない世間知らずだと呆れられてしまうかもしれない。しかも説明を理解できなければ、他人に結んでもらう羽目になる。それはあまりに恥ずかしかった。
目の前には、これから業務を共にするであろう、強面のおじいさんと、同年代ぐらいの若い男性がいる。
沈黙が流れているが、声をかけた方がいいのだろうか。もしかしたら、挨拶の流れで結び方を聞けるかもしれない。ちらりと二人を観察してみる。
おじいさんは腕組みをして、しきりに腕時計を確認しながら、片足で貧乏ゆすりをしている。ダメだ、怖い。聞けるわけがない。
若い男性は、僕と同じように結び方がわからずに、エプロンの紐に四苦八苦している。しかし僕は、同胞を見つけることができた安心感よりも、鏡を見ている気になった。はたから見ると自分もこんな風に情けなく見えるのか、と。
心なしか、おじいさんは僕たち二人を怪訝そうな目で見ているように思える。
とりあえず、彼の疑いを逃れようと、安直に首の後ろで蝶々結びをしてみた。背中で、紐がものすごく余っていることがわかる。
しかし、正面からの見た目は取り繕えているだろう。おじいさんを欺いているうちに、結び方を自分で模索するしかない。
そうして、両手を後ろでごそごそとしていると、エプロンを着たご婦人軍団がやってくる。そのほとんどは60〜70代ぐらいに見える。
彼女たちは談笑に花を咲かせながらやってきた。気まずい静寂が吹き飛び、場が一気に賑やかになる。
まもなくフロントで受付をしてくれたスーツ姿の女性もやってきて、みんなで近くの和式マットに移動し輪になって座ると、彼女は話し始めた。
「まだ少し早いですが、ミーティングを始めます。本日はよろしくお願いします。」
「よろしくお願いします。」と会釈を返す中、僕の意識はエプロンのことでいっぱいだった。
業務の説明に相槌を打ちながら、内容は半分も入ってこない。ただ、自分の名字を呼ばれた部分だけは、一字一句聞き逃さないように神経を注いだ。
僕は、浴場清掃に割り振られた。今日、一緒に行動するメンバーは3人。"田中さん"という30代ぐらいの女性。そして、もう一人はあの強面のおじいさん、"山崎さん"。僕の指導係は彼らしい。
一通りの説明が終わると、皆マスクを装着し、いよいよ業務が開始された。
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山崎さんと田中さん、二人の後ろについていく。彼らは、迷いのない足取りでズンズンと館内を進んでいく。その間も、僕は背中の紐と格闘していた。
二人の背を見てみる。彼らの背中には、エプロンの紐が”バッテン”の字でクロスがされていて、それから腰辺りで蝶々結びになっていた。
そのバッテンも、腰のチョウチョ結びも、やり方が全く持ってわからない。
僕の首にぶら下がった布は、さながら赤ちゃんのよだれかけだ。歩くたびにそれが、上下左右にパタパタと振りまわる。
しかしよだれかけでもこのエプロンを着ている間、自分はこのホテルの従業員で、客に扮することはできない。すれ違うお客さんに、このみっともない姿を見られたくなかった。
紐をいじる手を忙しなく動かし、”移動の合間に急いで結んでいます”感を出しながら、行きかう彼らに会釈をする。
そうやってパタパタとしていると、ふいに固くて冷たいものが手に掠る。なんだろう、と腹の両側にあるそれらをつまんで見てみると、合点がいった。
紐を通す金具だ。
もしかして、紐をここに通せば…?
光明を見つけた矢先に、備品室に到着してしまう。僕は最後尾をキープしながら入室したら。
そこで、長靴に履き替えビニール手袋をする。バスマットやデッキブラシなど、必要なものを抱えると両手がふさがってしまう。
やきもきしながら、浴場へと移動した。
まずは男湯の清掃。山崎さんが中に入って、お客さんがいないことを確認すると、田中さんと一緒に中へ入る。田中さんは脱衣所を、僕と山崎さんは浴場で担当することになった。
お風呂場はこじんまりとしていた。シャワーは、石造りの湯船の周りに左右で5個ずつ配置されている。
ピンクがかったベージュのタイルは湯気越しでも目視できるほど、ところどころに欠けや傷がある。館内に暖房が効いているとはいえ、お風呂の中の方がもわんとあたたかい。
「今日初めて?」
ジッとこちらを見つめて、山崎さんが聞いてくる。その眼力に、目を逸らしたい思いに駆られながらも、”やる気はありますっ”という声音で、「はいっ!」と返事をする。
彼は、「じゃあ、ちょっと見とけ。」と言うと、水道にホースをとりつけて蛇口をひねった。
「まず、水洗い。ジャーっとな。」
彼はホースの口をつまんで、タイルを高圧洗浄していく。
「それから、洗剤をまいて…。あっ、あんまり使いすぎないように。ちょっとずつな。」
そして、少しケチに思えるほど、ちょび、ちょび、と洗剤を撒いていく。ほのかに塩素の匂いが鼻を掠める。
山崎さんの手際は手早いもので、ここの清掃に慣れていることが窺えた。
「ほれ、やってみ。」
彼からホースと洗剤を渡される。
山崎さんがやっていたように、まずホースの口をつまんで、シャーッ!とタイルに噴射し、洗ったところに洗剤をまばらに撒く。使いすぎないように、とのことなので本当に少量にした。これで足りるのかと心配になったが、こちらを見ている山崎さんからは、特に何も言われない。
「よし。じゃあ、いま洗剤つけたところをブラシで洗って。俺は桶とか洗ってるから。」
そういうと、彼は僕に背を向けて桶洗いを始めた。
紐を結ぶチャンスだ。
しかし、ブラシの音がないと怪しまれるかもしれない。彼が桶洗いを終わるよりも先に磨き終わらせて、結んでしまおう。
浴場の奥側から入り口側へとジリジリと後退しながら、デッキブラシで"W"の字を書くようにジグザグと磨いていく。
小気味いいブラシの音が、お風呂場に響く。洗剤は泡立ち、水しぶきがはねる。
中腰の姿勢のまま擦るのは、思った以上に消耗した。ブラシ掃除は、過酷な全身運動だった。汗だくの額を腕で頻繁に拭う。湯気と呼吸で、マスクの中がびちゃびちゃになっていく。
前後に身体が揺れるたび、エプロンが縦横無尽に振り回って、ブラシに集中できない。脇で挟んでみたりするが、余計に磨きにくくなるだけだ。
体が揺れる度に、タイルに汗がポタポタと落ちていく。しかし、それは落ちると同時にブラシに巻き込まれていく。
汚れが落ちているのかどうか、湯気でかすんであまり見えない。しかし、とにかく早く、早く、磨いた。
エプロンの下の服は、びっしょりと濡れている。何のために”これ”を首にかけているのだろう。
上がる息と、疲労していく腕と、背骨と、腰と、足。いっその事、己の胸ぐらをつかんで、投げ捨ててやりたい気分だった。
ようやく、入り口側まで磨き終える。即座に、疲労に痺れた両手を首の後ろに持っていく。
「終わったか?じゃあちょっとこっち来い。」
が、待ち構えていたように山崎さんから声をかけられた。
息をつく暇もないまま彼のほうへ駆け寄ると、洗剤のついたタイルに足をとられて、少しよろけてしまう。その様子を「こいつ、大丈夫か?」、という視線で山崎さんが見ている。
「側溝の蓋な。こうやって全部ひっくり返して、裏側も磨いてくれ。」
排水用の小さな穴が開いたステンレスの板をめくっていく。重たいので、両手で一枚ずつ。そうして一列に並べた鉄板を、ブラシでこすっていく。
「水で洗い流して、最後に金網のとこに溜まった毛を手で取る。」
排水孔の上には、業務用の揚げ物のバスケットかごのような、大きな金網が被さっていた。銭湯の側溝の中に、こんなものがあることを初めて知った。
金網には短い髪の毛や、皮脂などが固まった黒い汚れがこびりついていて、それを手でこそげ取る。年季のある赤く錆び付いた金網は一部が破けていたり、とげとげしていた。ビニール手袋越しに、ちくちくと刺される。
集めた髪の毛や汚れを握って入り口に向かい、脱衣所の田中さんに「すみません、ゴミ袋をお願いします。」、と声をかける。
袋を持ってきてくれる彼女に、汗でペタッとしている前髪や、びしょ濡れのマスク姿を見られるのが恥ずかしくて、うつむき気味に「ありがとうございます。」と告げた。
「流れはわかったか?じゃあ俺はちょっとソープの詰め替えとか持ってくるから、少し離れるけど。」
そういうと、山崎さんが浴場から出ていく。
今だ!と、手に持っていたブラシをおいて、首の蝶々結びをほどく。先ほど見た、"バッテン"の背中を思い出しながら、右の紐を左の金具に、左の紐を右の金具に通す。
クロスした二つの紐をグイッと引っ張ると、胴体とエプロンがぴったりと密着する。
エプロンを、着た。
だらんと垂れて振りまわっていた時との差なのか、あまりにも自分の身体にフィットしていた。ぎゅーっと抱きしめられているかのような、そんな安心感まで覚えている。
頼りないよだれ掛けが、清掃員の制服になった瞬間だった。
心機一転、先ほどと同じように奥側から入り口側に向かってブラシでシャカシャカと磨く。エプロンが邪魔をしてこないだけで、精神的な疲労は天地の差であった。しかし、
「まだ終わってないのか。もっとテキパキやらんと。あと、もっと力をいれないと汚れが取れないぞ。」
いつの間にか背後にいた山崎さんに苦言を呈される。
一人前の清掃員になったとばかりに錯覚したが、マイナスから0になっただけだ。エプロンの紐を結べた感動は、あっけなく目の前の労働に塗りつぶされる。
ゴシゴシ!と力強くこするのはかなり腕に負担がかかった。疲労から手に力が入らなくなるとシャカシャカ..と、か弱い音になる。しかし、山崎さんにとがめられるのを恐れて、気合でゴシゴシ!とこすり続けた。
背骨がじんじんとして手足が棒のようになると、ようやく浴場を洗い終わる。
しかし、終わるや否や女風呂へと移動する二人に置いていかれないように、ついていく。
休憩がないことに愕然としながら、ブラシとバスマットを両手に抱えて、ズンズンと先に行く彼らの背を追って、急ぐ。
一口だけでも水を飲ませてほしい。
カラカラの喉に、口の中の唾を集めて、こくりと流し込んだ。
田中さんが先に入って、お客さんがいないことを確認すると、先ほどと同じように清掃を始める。
女風呂は予想以上に過酷だった。長い髪の毛がいたるところに絡まっていて、ブラシだとなかなか取れない。しゃがみこんで手作業で取り除いていくたびに、腰が疲弊していく。
これなら、男風呂のほうがマシだ…。側溝の蓋にぺったりと張り付いて排水穴に絡みつく毛と格闘しながら、そう思った。
そして僕は、シャワー台の上にありえないものを発見する。髪の毛を丸めた"毛玉"のようなものが置いてあったのだ。
それを見た瞬間にゾワっと鳥肌が立ち、流石に手袋越しでも触るのがはばかられた。得体の知れなさと、人の手が加わったものであることに、なんとも言い難い気持ち悪さを感じた。
もちろん、嫌でも触らなきゃいけない仕事だ。毛玉を指でつまんで、入り口までもっていく。
「ゴミ袋、おねがいします。」と田中さんを呼ぶと、彼女はそれを見て一瞬顔をひそめ、「お疲れさまです。」と袋を持ってきてくれた。
ノンストップの清掃で、僕はもうフラフラだった。
喉は焼けるように乾いているのに、マスクの中や口内は蒸気でビシャビシャで。
ブラシを前後に動かすたびにずり落ちてくる袖を、洗剤や汚れでぬるぬるになった手でまくって。
途中からまくるのが面倒くさくなって、濡れるのもお構いなしになって。
必死で、ブラシを動かした。
ーーーーーーーー
そんな全身びちょびちょの僕を見かねたのか、女風呂の清掃が終わると、山崎さんが休憩時間を設けてくれた。
彼が、三人分のペットボトルのお茶を持ってきてくれる。待ちに待ったそれを手渡されると、僕はすぐさまふたを開けて、お茶をがぶ飲みした。一気に半分を飲み干した。水を飲んで生き返った経験は、学生時代以来だった。
脱衣所の電灯の光は少し黄ばんでいて、本館から少し離れたところにあるからか、人のしゃべり声なども聞こえない。
三人で円を組むように床に腰を下ろす。「公共の場で地べたに座るなんて...。」と、普段なら見とがめられる行為。でもこれは、清掃員の特権なのだ。しばらくの静寂の中で、お茶をちょびちょびと飲む。
山崎さんは胡坐をかいて、お酒をあおるように豪快にお茶を飲んでいる。
マスクをつけている田中さんはペットボトルを両手で持って、正座で座っている。まだ、口をつけていない。
「疲れたか?」
山崎さんがぽつりとやわらかいトーンで、顔に笑みを浮かべて尋ねてくる。
先ほどまでの印象とのギャップに、「はぃ。」と間の抜けた声で返事をしてしまう。それをごまかすために、お茶を飲んで顔をのけぞらせた。
「二人は、どこから来たの?」
山崎さんが尋ねる。
そうだ。思えば僕たちは初対面で、ちゃんとした自己紹介もまだしていなかった。知っているのは、お互いの名字くらいだ。
「私はA市から車で来ました。」
田中さんがそういうと、僕は途端に親近感がわいた。
「僕もA市から来ました!バスでなんですけど。」
A市は県内の中では栄えているから、別に珍しいことでもない。しかし、同じ市からこのホテルに働きに来ていることに、言い知れぬ感動を覚えた。田中さんと目が合うと、にこりと笑ってくれた。
「バス通勤なんてあるんだな...。交通費は出してくれるのか?」
山崎さんの質問に、「全額支給です!」と答えると、車通勤であるらしい二人ともが、口をそろえて「いいなー。」と言った。
「これ終わったら、滑ってくの?リフト券、タダだぞ。」
山崎さんは、この後滑る予定らしい。
スキーの一日リフト券といえば五、六千円ぐらいはするはずだ。今日の僕の日給よりも高い。
残念ながら自分はスキーがからっきしなのでその予定はないが、ウィンタースポーツ好きからしたら夢のような職場だろう。
「川崎君は、大学生?」
ドキリ、とする。
しかし次には、原稿でも読んでいるかのように、饒舌に返答していた。
「はい、今冬休みで帰省してきてるんです!」
”中退して、ニートしてます!”
「社会経験も兼ねて…」
"社会復帰して更生するために"
「なんとなく、時間もあったし遠出したい気分だったので!」
"何もしてない時間の焦燥感に耐えかねて!"
驚くほどスルスルと、でまかせを口にしていた。一通り答えると、自分から話題をそらすために、二人に話を振る。こういうときだけ、僕は口が回った。
二人の話を聞いて、少しだけだが彼らのことを知ることができた。
山崎さんは、若いころにスキーのインストラクターをしていたらしい。
年を取って今はやめてしまったが、ここの勤務が終わった後にいつも滑りに行っているのだそう。
それから、90歳の奥さんがいて、彼が介護をしているそうだ。
「ここで働いてるおばちゃんの中には90近くの人もいるんだが、元気だよなあ。何が違うんだろうなあ。」と、ぼやいていた。
田中さんは普段は介護士として、施設に勤務しているらしい。
今日も夜勤があるらしいのだが、ここにタイミーで働きに来たそうだ。「隙間バイト」の名の通りに、空いた時間を副業に充てているという。それを聞いて、僕は驚いてしまった。
今日の3時間半の労働は、僕にとっては一世一代の挑戦だった。しかし、世間一般的にはタイミーは「隙間バイト」である。そんなのは当たり前に知っていたことなのに、目の前に「隙間バイト」をして、そのあと夜勤に行く人がいるということに狼狽えた。
彼女にとっての隙間で、僕はこんなにもくちゃくちゃになっている。山崎さんも高齢なのに、息一つ荒げていなかった。
山崎さんが、「あんたみたいな人に、俺たちは助けられてるよ。本当に立派な仕事だよ。」と言う。彼女は目を細めて「いえいえ。」と謙遜をしていた。
僕の中に、「彼女はマスクの下に”疲れ”を隠しているのではないか」という、無礼な妄想が浮かぶ。本当は無理をしてこの隙間バイトに臨んでいるのだと。そうであれば、僕と彼女の間にある差が少しは縮むんじゃないか、と。
醜いエゴが混入したその同情で、「大変ですね..。」という言葉を吐き出そうとする。
しかし、口をつぐむ。僕のそれはあまりに薄っぺらいものだと、"自分の疲労"した背骨や手足の痛みによってこそ、思い至ったからだ。
肌寒さを感じて、ぶるりと震える。館内の暖房も、ここには効いていない。身体の熱がクールダウンして、濡れた身体が今頃冷えてきたみたいだ。山崎さんが、時計を確認する。
「そろそろ再開するか。」
彼が腰を上げると、僕も田中さんも立ち上がる。けれど、一向に山崎さんが動き始めず、鏡のほうをジッと凝視して止まっていた。なんだろう、と僕も彼の視線の先に目を向ける。
「なんか曇ってる。」
山崎さんが言うように、確かにきれいに磨かれた鏡の中で、一か所だけ白いもやがのびている。
田中さんが、乾いたタオルでそこを拭いてみるが、のびるばかりで消えない。山崎さんも拭いてみるが、同じ。
「川崎くん、ちょっと拭いてみ。」
山崎さんにタオルを手渡される。二人が見守る中、僕も拭いてみる。S字を書くようにフキフキ...。けれど、やはり消えない。
三人で、角度を変えて鏡を斜めから見ながら、拭き方をかえてみるなどする。交代ばんこに、試行錯誤した。
僕は身体を傾けて、”曇りをつぶさに見ている感”を出して、二人の背後に位置取る。
鏡に映る山崎さんの顔はいたって真剣な真顔。田中さんの眉間には、へにょっとしわが寄っている。
大人三人が鏡に向かって悪戦苦闘している…。しかも、まったくもって解決しない..。
フフッと笑いがこぼれる。
いくらやっても消えない曇りに観念したのか、山崎さんは悪戯気に笑って「まあ、いいか!」と切り出す。三人で顔を合わせて、曖昧に笑いながらうなづきあう。それがなんだか、楽しかった。
ーーーーー
身体が微睡んでいる。しかし、妙に頭はさえている。全身がぬるま湯に浸かっているみたいだ。
僕は一番前の一人席で、背もたれにぐでっと身体を預けて、座っていた。
後方を見ると、吊革につかまって立っている人が数人いる。しかし、今もしご老人が僕の真横に立っていたとしても、決して席を譲らないだろう。自分の棒のようになっている足と老人の足なら、今の僕の足のほうがよほどひ弱であるという自信があった。
窓の外の景色は、行きのバスの時と比べるとひどく凡庸だった。朝だから綺麗に見えただけだったのだろうか。それとも疲れ切っているせいなのか。数秒眺めると飽きてしまって、視線を外した。
暖房が暑苦しくて、ジャンバーを脱ぐ。席に座ったまま脱ぐのはなかなかに骨が折れて、疲労した肩や腕がじんじんとする。
その時ふわっと、塩素の匂いが鼻をかすめる。袖を鼻に近づけてすんすんと嗅ぐと、においのもとはそこであった。
…帰ったらまず、シャワーを浴びよう。汗と蒸気でびしょびしょになった身体を、あたたかいお湯で洗い流すのだ。
思えば、お風呂は汗を洗い流すための場所なのに、僕は先ほどまで尋常じゃないほどの汗を浴場でかいていた。きっとサウナ客よりも汗をかいていた。だって、本当に尋常じゃないほどだったのだから。
きっと僕は、もうあのホテルには働きに行かないだろう…。こんなに汗だくになって、3850円。割に合わなすぎる。いや、どんな労働もこんなものなのか?だとすれば、労働って…。
清掃にやりがいを見出したとか、このホテルでまた働きたい!とか、そんな風にはならなかった。片道一時間もネックだし、何より景色にも見飽きてしまった。
山崎さんとも田中さんとも、もう顔を合わせることはないのだろう。基本的にマスク姿であったし、すでに頭の中の彼らの顔は、わずかにぼやけ始めている。
もし一週間後、偶然居合わせたとしてもその人物が本当に山崎さん・田中さんなのか、確証は取れないだろう。
そもそも、一日一緒に働いただけの間柄だ。わかったところで、話しかけることはない。きっとこのまま、どんどん風化していってしまうのだ。
「まもなく、A駅。」
感慨のようなものにふけっていると、いつの間にか目的地に到着しようとしていた。
ブブッとスマホが揺れる。LINEを開くと、母から「駅ついてるよー!」とメッセージが入っていた。窓の外は、駅前の見慣れた風景になっている。
ビルや居酒屋、昔からあるが何を売っているのかわからない地元のお店、学生のころ通っていた塾。ごった返すそれらを見て、”帰ってきた”と思った。
ーーーーーーーー
「おかえり。」
駅の駐車場で待っていた、母の車の助手席に乗り込む。顔に笑みを浮かべながら、彼女はエンジンをかけて発車した。
普通車とバスではやはり違う。間近にある窓の外は、「景色」という感じではない。
手が届くほど近くにある街並み。車が走る音や、うっすらと聞こえる雑踏の音。
母が聞いてくる。
「今日はどうだった?楽しかった?大変だった?」
運転中の横顔からでも、そわそわとしているのが見て取れる。
「疲れた...腰痛い。」
短くそう答えると、彼女はどこか嬉しそうに笑う。
それから、どんな仕事内容だったのか・どんな人と働いたのかと、質問攻めが始まった。
倦怠感から、あれこれ聞かれることに子供っぽい億劫さを感じる。しかし同時に、今日のことを誰かに共有したい、という思いも強かった。
"ずっと同じ姿勢でブラシ掃除をして、どっと疲れて全身が痛いこと。汗と蒸気でビチャビチャになったこと。シャワー台の上に不気味な毛玉があったこと。休憩時間に山崎さんと田中さんという人と、雑談をしたこと…"。
いつもは聞き手に回ることが多い自分であったが、口数が多くなっていた。母は、微笑みながら相槌を打ってくれる。
エプロンの紐事件について話すと、母はツボに入ったようにくつくつと笑う。
その時の僕は本当に必死だったのだが、今思い返してその状況を客観視してみると、僕自身もくすりと笑ってしまう。普通に聞けばいいのにそうできない、自分の不器用さに。
「でも自分で結んで、どうにかできたんだ。すごいじゃん!」
赤信号で、停車する。走行音が静まって、アイドリングの音が車内に響く。
目の前の横断歩道を、母親であろう若い女性と小さな子供が渡る。その子は、白線の上から落ちまいとぴょんぴょんと飛んで渡っている。お母さんはとうに渡り切っていて、その様子を呆れたように笑いながら、待っている。
そんな微笑ましい光景を眺めていると、母が改まってこちらに顔を向けてくる。そして、優しいまなざしを僕に向けながら、やわらかいトーンで言った。
「今日、がんばったんだね。お疲れ様。」
気恥ずかしさから、「んー。」と気のないような返事をする。なんとなく目を合わせるのが気まずくて、手元のスマホに視線を落とした。
母子の組み合わせの光景を見てから、顔をジッと見つめられて、そんなことを改まって言われて。なんだか”クサい”この状況が、僕には似つかわしくないように思えて、恥ずかしかった。
こういう時に素直に、「うん、がんばった!」とおちゃらけて見せられれば、かわいげがあるのだろうか。でも、そうできない自分を卑下する気持ちは、不思議と湧いてこない。
胸中に浮かぶポリポリと掻きたくなるような、唇をやさしく食みたくなるような、やわらかい気持ち。頬が上がりそうになるのを、表情筋で必死に抑える。
でも、確かに、今日の僕は頑張った。
手を抜かずにブラシ掃除をしたし(山崎さんに注意されるのが怖かったのもあるけど…)、鉄板に絡まった毛を一本一本拾い集めたし、気持ち悪い毛玉をゴミ箱に捨ててやったし…。
今日の一世一代の挑戦に何か劇的なものがあると、行く前までは少し期待していた。けれど、想像していたような大きな失敗も、成長できたという達成感もなかった。
でも、たった三時間半ではあったけれど、確かに僕はその間、清掃員だった。その実感が疲労とともに、身体の中を巡っている。
そのぽわんとした感覚の中では、焦りや不安は他人事になって、ただ心地よくボーッとできて...。
青信号になって、車が進み始める。"あたたかい視線"が外れたことにホッと息をついて、しばらく瞼を閉じ、その疲れに感じ入った。
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こたつで寝ころんでいる。目にかかる湿ったタオルが鬱陶しくて、頭のそれを首にかける。普段なら髪を乾かすのだが、今日は面倒くさかった。
お風呂上りは、汗を流してサッパリするのと同時に、眠気もひとしおだ。
身体が沈み込む、ふかふかの座布団の感触と、こたつのあたたかさに微睡む。
液晶の光でかかる目の負荷が心地よい。疲れや眠気の中で、目を閉じずにスマホの文字を追うと、はざまの気持ちよさに浸れるのだ。この感覚は、嫌いじゃなかった。
スマホのバイトアプリを開き、求人を眺めてみる。清掃・倉庫・配達・飲食…。どれもピンと来ない。それも当然だ。そもそも、働きたいと思えていないのだから。
今の僕に、やりたいことや進みたい道なんてない。ただ漠然とした将来への不安に苛まれているだけで、前に進みたいなんて思っていない。
前に進まないと・進もうとしないと自罰と不安に押しつぶされてしまうから、その消極的動機で強引に前に進もうとしているだけなのかもしれない。
あるいは周りが言うように、今日みたいに単発バイトをして、経験を積んでいけば、やりたいことや道が見つかるのだろうか。僕は、”まだ見つけていないだけ”なのだろうか。
スマホのスリープボタンをカチッと押して、閉じる。
波立つ心を誤魔化すために、ぐーっと伸びをする。こたつから、身体がほとんどはみ出す。
腕・肩・背骨・腰・足に、ジーンとした痛気持ちよさが通う。特に背骨と腰は、気持ちよさよりも痛みが勝るぐらいだ。ぐいっと反り返ると、「いたた...。」と漏らしてしまう。しかしその鈍痛がなんだか癖になってしまって、ぐいっ...ぐいっ...と何度も反り返り、そのたびに呻った。
ググーッ…パッ!と、伸びを緩めて脱力すると心地よさが広がる。また、ぽわんとした感覚に包まれていく。
…まあとりあえず今日は、ごろごろして動画を見たり、本を読んだりしよう。
なんたって、今日の僕は、頑張ったのだから。
嫌なこと・難しいことは、また明日考えればいい。
そうしてまたスマホに手を伸ばす。すると頭上から、母に声をかけられた。視線の先には、車中の時と同じ、ゆるんだ笑顔。
気を緩めたままに、「んー?」と画面をスクロールしながら、返事をする。
「そういえば、"次"いつ行くのか決まってるの?」
ひくり、と頬が引き攣りそうになるのを抑える。
母のほうを見ると、そわそわとした期待の眼差しをこちらに向けていた。それに居心地の悪さを感じながら、応える。
「んー、まだ。」
極めて自然体というように、間延びしたトーンで、言う。
「そっか。でも良かったね、今日行けて。案外何とかなるものでしょ?行ってみれば、どうってことなかったりするものなのよね。」
ニコニコとしながら言われる、その言葉に引っかかる。
どうってことない。
今日は、「どうってことない」だったわけじゃない。僕は今日、汗だくになりながら、フラフラになりながら、ブラシをかけていたのに...。
しかし、母が僕のことを思ってそう言ってくれたことは、わかっていた。何事にも悲観的で、足踏みしてしまう僕に、「一歩踏み出せば、案外怖くなかったでしょ?」と勇気づけてくれていることが、わかっていた。
「うん...。」
曖昧に笑って返事をする。
その言葉をまだ飲み込めていないことを、今の僕はまだ、その言葉を飲み込めないことを、暗に示したかった。母から、心配なり怪訝なりを引き出せるのではないかと、期待した。
僕のぎこちない反応を見て、母は一瞬きょとんとした顔をして、それからまたこちらを安心させるように、やわらかい笑顔で言った。
「まあ、大丈夫だよ。いろいろ経験していくうちにやりたいこととかも見つかるかもだし。それに今日が初めてだったんだから、くたくたになるのも当然だよ。そこは慣れだよね。」
僕は、不自然にならないように微笑みながら頷いて、どこか遠のいて聞こえ始めたその声に、懸命に耳を傾けた。
違うんだ。これからを見ているわけじゃなくて、そうじゃなくて。
でも、もしかしたら、今日のことをまだ話してもらえるんじゃないか。今日の僕をまだ、見てくれるんじゃないかと、一縷の望みのようなものを頼りにして、遠のく声に必死で耳を傾ける。
「また、今日のところ行ってみたら?ママも温泉でバイトしたことあるのよ!最初は全身筋肉痛になるんだけど、慣れてくると痛くなくなってきて...」
「それか、お兄ちゃんのところで色々体験してきてもいいかもね。東京ならたくさんお仕事あるだろうし...]
「専門とかに入ってもいいし!お金は全然出すし、応援するから...」
「―の人生だからね。好きなように生きて...」
声は、どんどんと遠のいていく。
「うん、うん。」
不自然にならないように、何の気もないように、相槌を打つ。
スマホの画面に視線を集中させる。頭の中に内容は1ミリも入ってはいないのに、文字列を忙しなくスクロールする。
スマホに夢中で忙しい風を装って、母が早く会話を切り上げるのを期待した。
ゆるんだ気持ちが強張って、冷たくなっていく。
しかし最後にもう一度、期待の残り滓によってか、画面から視線を外して母の顔を覗き込んだ。そこに、僕を信じ切っていない顔があるのではないか、と。
だが、そこには依然として、優しい笑顔とあたたかい眼差しがあった。母親が息子に対して安堵と期待を抱いて、「この子は大丈夫だ。」と信頼する目。
その眼差しを、いっそ睨みつけたくなっている自分がいた。口の中がカラカラになっていた。
動揺が加速していく。
点滅をするように瞬きをしたい、その身体の欲求をなんとか抑えて、不自然にならないペースでパチ...パチ...と目を瞑る。
自意識が過剰になっていく。
荒くなってしまっているかもしれない呼吸音を気取られないために、息を止める。
呼吸なんて誰も気にしない。むしろ息を止めて限界を迎えた時、それこそ不自然さが露呈する。そんなことはわかっている。しかし、追い詰められたときには、隠さずにはいられなかった。それは癖のようなものだった。
少しの間のあと(僕にとっては長い長い間)、母はにこりと笑った。
「そっか、まあゆっくりやっていけばいいよ。」
母はそういうと立ち上がって、台所のほうへと歩いて行く。
まだ、警戒を解かず、息を止め続ける。身体の中で、拍動が響いている。
ゆっくり。
今日僕はゆっくりだったわけじゃない。本当に、汗だくになりながらフラフラになりながらブラシをかけて、そうやって、全力で食らいついていたのに。
息苦しくて、頭に酸素が回ってこない。出鱈目な憤りが頭を占拠していく。
何がゆっくりだ。
ただ止まりたいのを許さないくせに。また歩くために止まることしか、ゆっくり前に進むことしか、許さないくせに。
充分に時間が経ってから、こたつのなかにもぐりこむ。そして止めていた息を解放する。中は当然、熱くて、酸素が薄くて、苦しかった。
荒い息が外に漏れないように息をひそめながら、息を吸う。血が上った頭に熱気を吸い込んで、必死に酸素を送り込む。ゆるく首を絞められながら、浅い呼吸をしている。
…いや、母さんはそんな意味で言っていない。そんなこと考えるまでもなく、わかることなはずなのに。
ジワリ、と瞳が滲んでしまう。
まずいと察知して、すぐさまこたつから抜け出す。キッチンの方を窺うと、母はこちらに背を向けて洗い物をしていた。
その横を通らないように、和室を経由して廊下に出る。そして、ダッと階段を駆け上る。自室に飛び込み扉を閉めると、すぐさまベッドの中にもぐりこんだ。
堰を切ったように涙が出た。ぽたぽたとシーツに滴っていった。
涙と鼻水で、顔と襟がびしょびしょになっていく。水のような鼻汁は、すすっても垂れていくばかり。袖でぐしゅぐしゅと顔を拭う。
僕を思って、心配してくれていたのに。期待してくれていたのに。
けれど、どうしようもなく、傷つけられた気持ちになっている。
しゃくりあげるように嗚咽まで出てくる。
グッ、グッとかわいげのない、醜い音。それが外に漏れないように、かぶっている毛布で口元をおさえる。
顔を包み込むふわふわであたたかい肌ざわりは、涙と鼻水でだんだんと冷たくて、不快なものになっていく。
平静を保とうと深呼吸をしようとしても、嗚咽が邪魔をしてへたくそな呼吸しかできない。布団の中で、溺れてしまう。
不快に耐えきれなくなると、被っている毛布をバッと脱ぎ去った。しかしどうしても顔は何かで覆っていたくて、うつぶせで枕に顔を埋めた。
鼻がつぶれて痛い。空気がすごく薄い。グッ、グッとしゃくりあげる声が、枕の中にこもって耳の中で反響する。
…ああ、こんなになって台無しだ。今日はこのあと、この疲労を携えて、存分にだらだらするはずだったのに。それから、そうしているうちに、いつの間にか意識を手放して眠ってしまうはずだったのに。
…いいや違う。まともになるために、前を向くために、次に行くために、今日があったのだ。他ならぬ僕自身が、そんな動機で今日、働きに行ったのだ。何が台無しだ。そもそも初めから僕にとって”今日”は、そんなものなんだ!
身体の内側がぐわっと持ち上がるように震えあがる。瞳の膜が一層分厚くなって、カッと熱を持つ。
そうだ。次に向かっている時の僕は、いつも足りていない。けれど、足りていない自分はいつものことだった。そう評価してきたのは、他ならぬ僕自身だった。
そんな僕がいまさら、何を嘯くのだ。
涙が、瞼の裏側に流れ込んで、染み込む。全てが霞んで、何もまともには見えなくなる。
けれど、蕩けた瞳の滲みの中で、なんとなくだが、思い至ってしまった。
もしかしたら、僕が思っているよりもずっと、今日の自分が大切だったのか。
仰向けになって、脱ぎ去った毛布を手繰り寄せ身体に掛ける。そして、瞼を力強く瞑る。
早く、眠ってしまおう。これ以上無駄なことを考えても、意味がない。
次に目を開けたら、もう今日のことなんて忘れてしまっている。明日になれば、今のこの感情など薄まっている。
毛布の暑苦しさも、濡れて不快な肌触りも、とても寝心地のいい物ではない。
けれど、皮肉なことに、今日の疲労が眠気を誘う。寝たいと意識してすぐさま眠りにつけるのは、ほとんど初めてのことだった。
夕方の薄明が、瞼をうっすらと透かしている。その裏側の仄暗さの中で、意識が融解していく。泣き疲れた瞳の熱さも、身体のジンジンとした痛みも、溶けて、ほどけていく。
とろりとした微睡の中で、今日の僕が遠ざかっていく。でも僕は、手を伸ばさなかった。




