初夢
―――初夢をみた。
浴衣を着た沖田総司、そして白衣の女性。
わたしの視点は、小さな和室の中で向き合う二人を俯瞰している。
なのに、わたしの心情、そしてわたしの五感は彼女に寄り添っていた。
石井秩
彼女の記憶。
夜更けの診療所は、昼とは別の顔をしていた。
薬草と酒精の匂いが混じり、灯心の火が低く揺れている。
秩は、沖田の前に座っていた。
向かい合っているのに、視線は合っていない。
沖田総司は、刀を持っていなかった。
代わりに、薄い布団に半身を預け、息を整えている。咳は出ていない。た
だ、胸の奥に何かが引っかかっているような、浅い呼吸だった。
「今夜は、少し静かですね」
沖田が言った。
独り言のようで、返事を期待していない声。
秩は、薬椀を置き、脈を取る。
規則的。けれど、強くはない。
「静かな方が、よろしいでしょう」
それだけ答えた。
名前は呼ばない。
患者と医者の助手として、それ以上の言葉は必要なかった。
沖田は、天井を見つめたまま、ふっと笑った。
「壬生は、冬になると冷えますね」
「ええ」
「江戸とは違う」
秩は、その違いを知っていた。
だから、うなずかなかった。
幾許かの沈黙。
遠くで犬の鳴く声。薪のはぜる音。
沖田が、ふと問いを投げる。
「……もし」
言葉は途切れた。
続かなかったのではない。
続けなかったのだと、秩は察した。
彼は、何かを聞こうとした。
未来のことかもしれないし、ただの世間話だったかもしれない。
秩は、脈をとる指を離した。
「ご無理は、なさらないように」
それは指示でも忠告でもなく、祈りに近い言葉だった。
沖田は、何も言わなかった。
ただ、わずかに首を傾けて、こちらを見る。
その視線を、秩は受け止められなかった。
受け止めてしまえば、何かが壊れてしまう。
そんな気がしたから。
代わりに、灯りを少し落とす。
「お休みください」
この夜、ふたりが交わしたやりとりはそれだけだった。
軽く触れた手首と、ほとんど事務的な言葉。
秩は、それすら記録には残さなかった。
残せなかったのではない。
残さなかった。
なぜならこれは、医療ではなく、別の何かになりかけた時間だったから。
――――目が覚めて、我ながらセンチメンタルな夢に、ひとり苦笑いした。
なぜ、あんな夢を見てしまったんだろう。
わたしは、あの油彩画に入れ込み過ぎなんだろうか。
それともあれは、本当に顔も知らない女性の遠い記憶?
時計は午前2時。
まともにものを考えられる時間じゃない。
時計は午前2時。
まともにものを考えられる時間じゃない。
冷蔵庫を開けて缶ビールを手に取ると、わたしはこっそり持ち帰ったあの手記を鞄から引っ張り出した。
「母の沈黙を慮りて」
か細い、女性の筆致。
母は、ついに何事も語らざりき。
ゆゑに私は、かの夜のありさまを知るよしもなし。
されど、筆を執る時に限りては、持ち得ぬはずの夜の景色が、おのづから目前に立ち現るる心地ぞする。
油絵具はいかへにも重く、乾きがたきものなれば、指先にて引き延ばすたび、時そのものまでもが粘りを帯び、引き留めらるるに似たり。
私はあのお方を座らせじ、剣も持たせず、ゑがほをも与へず。
ただ、いづこか遠き空を凝視むる顔のみを、一点に写し取るなり。
母が何ひとつ言はぬまま、灯火を消したる夜。
私は隣の間にて、眠りにおちてゐたることになり侍れど、実に、まどろみてなどゐたるものか。
今にして思へば、薄き蒲団越しに伝はりくる、咳のかすかなる気配、小さく息を整うる音、誰が名をも呼ばぬままに続く、底知れぬ沈黙。
それは音にあらねど、空気の重みとして、たしかにそこに留まりてありき。
母は、いみじく強き人なりき。
ゆゑに、泣かず。
ゆゑに、語らず。
されど、語らざりしといふその一事のみが、私に、埋めがたき余白を残したるなり。
あのお方は母に何を告げんとしたりし。
母は何を聞かずに過ごしたる。
私はそれを知らず。
ゆゑにこそ、描くなり。
記憶としてならず、確信としてでもなく、ただ、忘れ得ざりしであらう視線を。
似てゐなくとも、よし。
正確ならずとも、よし。
母が生涯、言葉にせざりし夜のしじまが、この人の眼の奥にのみ、残りてくれなば、それでよし。
私は母の沈黙を描きをるなり。
そのために、あのお方を借りをるなり。
なればこそ、あのお方は、いかやうにも私を見返してくるならん。
責むるでもなく、訴うるでもなく。
ただ、いまだ終わらぬものとして、そこに。
きっと、ベッドに入るまえに、こんなものを読んだせいだ。
雪をこれほど駆り立てたのは、
――郷愁?
――慕情?
それとも、彼女も二人の関係を自分の恋と重ねたのだろうか。
―――その日は、結局朝まで眠れなかった。
正月の朝は、音が少ない。
都内の住宅地でも、どんど焼けのある神社の境内だけは、少しだけ時間が遅れている気がする。
現代の「どんど焼き」は、「役目を終えたもの」を燃やして空へ送る神事だ。
けれど、かつて幕末の京を焼き尽くした火もまた、同じ音で「どんどん焼け」と呼ばれた。
あちらは、どんどん火が広がる様を揶揄した、絶望の擬音だ。
片方は役目を終えたものを燃やし、片方はまだ終わっていない日常を奪い去った。
わたしは火を見つめながら、あの肖像画がどちらの火にふさわしいのかを考えていた。
門松と注連縄を抱えた人たちが、無言に近い列を作り、順番に火にくべていく。
ぱち、と乾いた音がした。
竹が爆ぜる音に、子どもが小さく笑う。
そのすぐ横で、去年の願い事が、煙になっていく。
わたしは、手袋の中で指を握りしめた。
本当は、持ってきてはいけないものを、持ってきている気がしたからだ。
あの絵は——
役目を終えているのだろうか。
火の向こう側で、白い煙が立ち上る。
一瞬、煙の隙間に、あの視線を探してしまう。
あの人は、燃えない。
紙でも、布でも、祈願でもない。
わたしの中で、勝手に居座っている。
去年の終わり、あの肖像画を見つけてから、わたしは、何度も思った。
忘れてしまえばいい。
研究対象として整理すればいい。
けれど、目が合うたびに、「それは違う」と言われている気がした。
描かれた人物は、歴史のなかで、すでに燃え尽きている。
新選組一番隊組長、沖田総司。
写真は残らず、死因も、最期も、資料の中で固定されている。
それなのに。
この肖像の中の彼だけが、「まだ、どこにも行っていない」顔をしている。
どんど焼けの火は、勢いを増す。
去年の札が、勢いよく崩れ落ちる。
わたしは、ようやく気づいた。
この絵は、過去を終わらせるためのものじゃない。
終わらなかった感情が、どこに行けばいいのか分からずに、たまたま、ここに残っているだけだ。
火を見つめながら、思った。
燃えなかったものの方が、ずっと、人を縛る。
だからわたしは、もう一度、あの人の名前を辿ることにした。
沖田総司が、誰の記憶として生き残ってしまったのかを。
立ち上る白い煙がとけてゆく空はやけに高くて、新選組の羽織と同じ色をしていた。




