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石井秩いしいいちという名前は、資料の中では驚くほど控えめだった。

何かを語るための名前ではなく、ただ事務的に必要な分だけ、そこに置かれている。

浜崎家の診療記録の余白に、養女、とだけ書かれている。

年齢も、出自も、理由もない。

医師助手として投薬や夜番を担っていた事実だけが、淡々と残されていた。

記録は正確だった。

むしろ、正確すぎると思った。

往診の時間、体温、脈拍、症状の推移。

どの紙にも感情は入り込んでいない。けれど、書き手が患者の身体を深く理解していたことだけは、否応なく伝わってくる。

わたしは、ノートの端に、石井秩いしいいちの名を書き留めた。

その横に、小さく「看護」と添える。


医療者としての距離。

患者としての沖田総司。


この二つの立場は、本来なら重なりすぎてはいけない。

だからこそ、ここまで几帳面きちょうめんに線を引いているのだと、わたしは思った。

新選組の隊士名簿と治療記録を照らし合わせると、ひとつの事実が浮かび上がる。

沖田総司は、ある時期を境に、浜崎家の記録から消えている。

元治元年の夏。

その理由は、史実として説明がつく。

池田屋事件。禁門の変。激化する市中戦。

そして、喀血かっけつ


公式の記録では、彼の本格的な発病と松本良順による治療は慶応年間まで下る。

けれど、浜崎家の記録に残る元治元年の「発熱」と「咳嗽がいそう」は、幕府医師に委ねるほどではない、隊内でも伏せられた個人的な通院だったのだろうか。

その密やかな接点が断たれたのは、病状のせいだけではない。

元治二年の屯所の西本願寺移転。

隊の規模拡大。

一介の町医者が、新選組という巨大な政治組織の深部に関わり続けるには、京の街はあまりに不穏ふおんになりすぎていた。 


それでもわたしは、記録の途切れ方に、妙な引っかかりを覚えた。

まるで、ここから先を書かないことが、誰かの意志で決められたかのような。

石井秩いしいいちの名も、ここで急に姿を消す。

医師助手としての記録は続くのに、沖田に関する記述だけが、ない。

わたしは、ページを閉じた。

恋をしていた人の沈黙ではない。

これは、恋をしていたことを、なかったことにしようとする沈黙だ。

その沈黙の上に、あの肖像画の視線は、置かれている。


いちという名前を追っていくと、必ず「雪」という名前にぶつかる。

それは系譜というより、付箋のような形で記録に貼り付いていた。

浜崎家の戸籍こせき控え。

石井秩いしいいち、養女。


戸籍の控えには同じく、雪もまた「養女」と記されていた。  

いちとの血縁を示す直接の記述はない。

けれど、いちの歩む道筋には、常に雪の名が影のように寄り添っていた。

米の配給、寺子屋の就学、そして大坂への転出。

二人の生活の線は、誰の目にも明らかなほど深く重なっていた。


明治二十年代を通して、雪は東京にいた。  


いちの死後、彼女が身を寄せたのは、禁裏(きんり)守衛兵として京都に駐留していた酒井意章さかいもとあきという元幕臣だった。

酒井家の邸宅は大阪にあって、

のちに意章もとあきは、雪の婿むことして意誠おきのぶという若者を迎え入れている。

酒井家と雪のつながり、そして若い夫婦がどういった経緯で東京に移り住むことになったのかは定かでない。


ただ、その奇妙な宿縁しゅくえんが、名もなき医者の娘に、当時としては分不相応ぶんふそうおうなほど贅沢ぜいたくな油絵具と、洋画塾への門戸を開かせたのである。


明治二十年、彼女は洋画塾・予備教育機関にその名を残している。

正式な入学記録も、華々しい展覧会の出品歴もない。

師事した画家の名前すら断片的だ。

女性が独学で油絵を修めることが困難を極めた時代にあって、彼女の足跡はあまりにひっそりとしている。


それでも、彼女は筆を執り続けた。  

それは、画家としての名声を求めたからではない。  

母が飲み込み、沈黙のなかに沈めた記憶の重層を――あの油彩でしか表現し得ない、圧倒的な「厚み」を定着させるためだけに、彼女はカンバスに向かい続けたのだ。


筆致は未整理で、人体の構造も甘い。

けれど、あの肖像の「顔」だけは、別の力で描かれている。

見たことのない人間を、こんな目で描けるだろうか。

わたしは、例の肖像画を再び思い出す。

英雄的ではない。誇張もない。

ただ、こちらを見ている。

雪が沖田総司を見たのは、まだ幼いころのはずだ。

ならば、幼少期のおぼろげな記憶を頼りにあの絵を描いたのだろうか。


そして、石井秩いしいいち


医者の養女として働き、患者の身体に触れ、夜を看取みとる側にいた女性。

剣客として名を馳せる男を、病人として知ってしまった女性。

記録は、語らない。

けれど、語らなさが示す距離がある。

わたしは、あることに気づいた。

いちには、日記がない。

だが、医療記録の筆跡は、途中から変わっている。

震えが出るのは、沖田の症状が悪化した時期と一致していた。

文字が、わずかに細くなる。

行間が詰まる。

訂正が増える。

これは、業務の手ではない。

感情を抑え込もうとする手だ。

それでもいちは、書き続けた。

剣の話にも、隊の話にも、未来の話にも、一切触れることなく。

その代わりに残したのは、正確すぎる身体の記録。


わたしは、ノートを閉じた。

この女性は、自らの恋を綴らなかった。

だからこそ、他の誰かが描いてしまったのだ。

雪は、母が見続けた顔を、母の言葉にならなかった部分を、油絵にしてしまった。

あの視線は、沖田のものではない。

沖田を見続けた女性の、最後まで消せなかった記憶。

わたしはそう結論づけた。


描いたのは雪。

けれど、恋をしたのは、名も残らなかった女性だった。


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