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肖像画の視線

蔵の中は、思っていたよりも乾いていた。

ホコリの匂いはするが、湿り気はなく、古い木が時間を忘れたまま立っているような空間だった。

小金井の旧家で、取り壊し前の整理に立ち会うのはこれが三度目になる。

文化財を専攻している、という理由で声をかけられただけのアルバイトだ。

特別な発見など、期待していなかった。


その絵は、納戸なんどの奥、使われていない長持ながもちの底にあった。

風呂敷ふろしきに包まれ、段ボールで雑に補強されている。

保存状態は良いとは言えない。

わたしは手袋をしたまま、慎重に包みを解いた。


最初に見えたのは、目だった。

着物姿の若い男が、こちらを見ている。

背景はなく、構図も単純だ。

油絵だが、筆致はぎこちない。

洋画を学び始めたばかりの人間が、手探りで描いたのだとすぐに分かる。

顔立ちは端正だが、英雄的の面影おもかげはない。

新選組一番隊組長――沖田総司。

なんとなく、そんな妄想が浮かんだが、

そう言われれば、そう見えなくもない、という程度。


なのに、目だけが異様に生々しかった。

視線が合った、というより、見返された、と感じた。

こちらを値踏みするでもなく、訴えかけるでもない。

ただ、そこにいる誰かを、ずっと待っていたような目だった。

わたしは一歩、無意識に後ずさっていた。

何をした人かではなく、 何を成し遂げた人かでもなく、 何を――失った人かを、問われている気がした。


裏返すと、キャンバスの裏に走り書きがあった。

「酒井雪」

それだけの署名サインと、明治二十五年の日付。


同じ長持ながもちの中に、小さな木箱があった。

中には古文書こもんじょが数点。

素人目にも、医家の記録だと分かる。

紙質は粗く、実務的な筆跡だった。


そこに、断片的な文字が見えた。

 ――壬生村みぶむら

 ――医師。

 ――沖田。


その束の間に、一枚だけ、折りたたまれた手記が紛れ込んでいた。

和紙に筆で走り書きされ、わずかに封がされている。

開くと、冒頭にこうあった――

「母の沈黙しじまを慮りて」

長持ながもちの中に、偶然紛れ込んでいたとは思えない。

これは、誰かに読ませることを意図して書かれたものだろうか。


けれど、写真が残らなかった男を、なぜ油絵で描こうとしたのだろう。

わたしは、まだ名前も知らないその視線から、目を逸らせずにいた。


絵をもういちど風呂敷ふろしきに包み、長持ながもちに戻すまで、わたしは何度も深呼吸をした。

古いものに触れて動揺すること自体は、珍しくない。

だが、さっき感じたのは保存状態や希少性に対する興奮とは、明らかに質が違っていた。

蔵を出ると、外はもう夕方で、敷地の向こうに住宅街の電線が見えた。

現代の音が戻ってきても、視線の感触だけが、うまく剥がれてくれない。


 「どうでした?」

家主にそう聞かれて、わたしは一瞬、言葉に詰まった。

“何が描かれていたか”は説明できる。

“誰が描いたか”も、推測はできる。

けれど、“どう見られたか”は、報告事項ではなかった。

「無名の肖像画が一枚あります。保存状態は……あまり良くありません」

自分でも驚くほど、無機質な答えが口から出た。

帰りの電車で、わたしはノートを開いた。

文化財調査用の、いつものくせだ。

年代、画材、署名、同封資料。

淡々と箇条書きにしていく。

そうしていれば、対象は「物」になるはずだった。


 ――和装の男性像

 ――油彩

 ――作者名:酒井 雪

 ――明治二十年代

 ――浜崎家関係文書あり


そこまで書いて、ペンが止まった。

視線、という言葉を書きかけて、やめた。

代わりに、括弧カッコをつけてこう記した。

(モデル、特定不能)

それがウソだと、自分が一番よく分かっていた。


頭の中に、あの目が浮かぶ。

英雄でも、病人でもない。

ただ、誰かを待ち続けたまま、時間から取り残されたような目。

わたしの恋も、終わったわけではない。

ノートを閉じたとき、無意識にスマートフォンの画面を指でなぞっていた。

画面には、一週間も前に打ち込んだままの一行が、送信ボタンを押されないまま光っている。

そのとき、ふと思った。

この肖像画は、描かれた瞬間から誰かに“見つけられる”のを待っていたのではないか、と。

それがわたしである理由は、まだ分からない。

ただ、あの視線から目を逸らすことは、もう出来そうになかった。


翌日、わたしは古美術商の店に、例のメモを持ち込んだ。

裏書きの署名サイン――「酒井 雪」。

それが本名か雅号がごうかも分からない。


けれど、明治二十年代という年号は、洋画史の上では微妙に居心地の悪い時代だった。

「女流画家、ですか」

店主は、老眼鏡をずらしながらそう言った。

声に、少しだけ引っかかりがある。

 「いないわけじゃない。でも、残らない人の方が多い。特にこの頃はね」

わたしはうなずいた。


明治二十年代。

洋画はまだ「新しいもの」で、学ぶにも描くにも、女性であることは理由にならないほど、理由になった時代だ。

名を残すには、技術か、後ろ盾か、あるいは幸運が必要だった。

 「酒井雪、という名前は?」

 「ありふれてる。雅号がごうとしても、戸籍名としても」

その言葉を聞いたとき、なぜか少し安心している自分に気づいた。


特別ではない名前。

記録に埋もれやすい名前。

あの視線の生々しさと、釣り合う気がしなかったからだ。


大学の資料室で、わたしは明治期の洋画塾の名簿を洗った。

断片的な記録の中に、確かに「酒井 雪」という名があった。

短期間、東京で洋画を学び、その後の足取りは不明。

展覧会歴も、受賞歴もない。

代表作は――記載なし。

わたしは、ノートに小さく丸をつけた。

技術的に未熟。

活動期間は短い。

評価も残らない。

それでも、あの一枚は描かれている。


次に当たったのは、同封されていた古文書こもんじょだった。

浜崎家、と記された医家の記録。

診療控え、投薬の覚え書き、往診の記録。

実務的で、感情の入り込む余地がない。

その中に、養女の名があった。

石井秩いしいいち

医師助手として、診療を補助していたこと。

夜番を担っていたこと。

そして、連れ子がいたこと。


 ――雪。


わたしは、ページをめくる手を止めた。

不思議な感覚だった。

点だった名前が、線になりかけている。

けれど、その線は、あの肖像画に向かって伸びてはいない。

描いたのは、雪。

けれど、見ていたのは――誰だったのか。

母か。

それとも、描かれた男自身か。

わたしは、ノートに書きつけた。

「作者:酒井 雪」

その下に、小さく付け足す。

(ただし、視線の記憶は別人のもの)


調査を進めれば進めるほど、確証からは遠ざかっていく。

けれど、あの視線だけが、わたしを離さなかった。

あれは、歴史の中に置かれることをこばんでいる目だ。

資料として整理されることを、どこかで嫌がっているような。

わたしは、思ってしまったのだ。

この肖像画は、残されるために描かれたのではない。

――忘れられなかったために、描かれたのではないか、と。


わたしはまだ知らなかった。

その「忘れられなかった理由」が、炎の夜に結びついていることを。


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