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好きになった女

「ごめんなさい。その箱、棚の上に乗せてくれない?お願い」

 香奈恵が、書類の束を抱えたまま、僕に言った。箱かよ?と思いながら抱えたが、そんなに重くない。よしと力もなく抱え上げて乗せた。

「ありがとう。助かったわ」

 と、香奈恵が嬉しそうに言った。ここは、都内にある二流の製紙会社だ。おもに、企業向けに種々の用紙を製造している。紙といっても、色々あるのだ。新聞用紙、情報用紙、包装用紙、衛生用紙、段ボール紙のような板紙、工業用紙である。これらを受注して工場で製造させている。その中枢部のような部門だ。僕の仕事は、おもにデスクワークでのパソコン業務だが、先刻のように、何の仕事をさせられるか分からない。そこが零細企業の辛いところだ。

 僕は、河野澄夫、26歳、独身のひとり暮らし。実に平凡至極な男である。今日も一日の平凡極まりない仕事を終えて、いつもの時刻の電車に乗り、自宅へと帰る。勿論、一人暮らしであるから、ニコニコと待っている愛妻がいるわけでもない。ひとり寂しく帰りに、ほかほか弁当を買って帰宅するわけだ。辛い。仕方なく、溜息をついて、トボトボと家路を行く。

 情けない顔つきだろうな、と自分でも思いながら、マンションの鍵を開ける。玄関を入ると、すぐ台所があり、その奥に居間がある。特大焼き肉弁当と、麦茶のボトルの入ったポリ袋を食卓に置き、とりあえず、趣味のステレオプレーヤーで、お気に入りのロックミュージックをガンガンとした音量で掛けておく。気晴らしである。隣には聞こえないらしい。よっぽど、壁が分厚いか、防音機能があるのだろう。よく知らないが、今のところ近所の苦情はないようだ。

 飯を喰う。まずまずの味であるが、それも仕方ない。麦茶で弁当の中身を流し込み、腹を膨らせる。とりあえず、満腹だ。壁の掛け時計を見る。そろそろ、午後7時だ。例の香奈恵から電話のかかってくる時間だ。それにしても、律儀な女性である。この時間になると、かかってくるようだ。悪くないが、よくやるよなって感じである。そんなことを、あれこれと考えていると、やはり電話がかかってきた。スマホを取る。画面に「網島香奈恵」と大きく表示されている。彼女だ。

「もしもし」

「ああ、澄夫さん、お疲れさまでした。香奈恵です」

「ああ、香奈恵さん、電話ありがとう。今日もクタクタだよ、こき使われて」

「ふふふっ、澄夫さん、案外とすぐ根を上げちゃうんだね。でさ、例のCNFの企画書、作成できたの?今、環境問題うるさいもんね?」

「うん、一応書いたけどさ、今度会議に掛けないと。今、何でもペーパーレスの時代じゃん。うちはこれから氷河期だよ、本当。それよりさ、あのプレゼントありがとう。でも、チェック柄のネクタイが好きって、よく分かったね、すごい」

「ちょっと、京都まで旅行行ったからさ、お土産と思って。でも澄夫さん、気に入ってくれて嬉しい。でも、毎日、電話ごめんね、あたし、何だか、澄夫さんの声、聞くと落ち着くものだから」

「こっちこそ、ありがとう。今日はお疲れさま。じゃあ、また明日ね」

「ゆっくり、寛いでね。じゃあね、澄夫さん」

「バイバイ」

と、電話を切る。最近どうも彼女が気になる。何気ない電話なのだが、毎日かかると、妙に親しみを覚える。何か、心理学で、そんな心理作用があったっけ。でも、本当だから不思議だ。まあ、僕も若い男だから仕方ないし、少し風呂でも浴びるか、と浴室へ向かう。

 風呂のあとは、趣味のパズル収集の世界にはまる。世界のパズルといったら、きりがない。世間でも有名なルービックキューブだけでも、縦横のコマ数や、長さや幅、色や柄が様々で、集め出すと収拾がつかない。他にも、タングラムやペグパズル、プラパズルの類いを、山ほど収集しているから、何箱もの段ボール箱にギュウギュウ詰めである。しかし、よくも集めたな、と我ながら思う。眺めていると、おやっと気づいた。

 前に、香奈恵から貰ったルービックキューブが出て来たからだ。赤とピンク、オレンジや青が使われた可愛いデザインで、実に女の子らしい。可愛いな、と思っているとつい彼女が気になる。僕、彼女に気があるのかな、なんて思ってしまう。香奈恵ちゃんかあ、今度、ネクタイのお礼に、食事でも誘ってみようかな?なんて、あれこれと夢想していると、もう眠る時間だ。寝室へ向かう。布団をかぶっていると、すぐに寝入ってしまったようだ。

 

 翌日は、土曜日で休日だ。暇で仕方ない。何とかするか?何だかんだと案じながら、朝食を取る。それにしても、香奈恵が気になる。あの昨日の何気ない仕草だ。彼女、コピー機の前に座り込んで、何気なくショートカットの髪を耳の上にかき上げた。可愛いな、彼女。もともと美人だが、改めて認識しているようだ。僕って鈍いのかな?彼女、僕に気があるのかな、悪い気はしないけど。

 食後の紅茶を飲んで、朝は、散歩に出る。僕の休日の飽きもしない習慣だ。近くの児童公園まで、片道20分の運動である。しかしである。せっかく、そこまでして有酸素運動で散歩して公園の青色ベンチまで行くのに、そこで煙草を吸うのだから意味がない。止めようと思うのだが、これといって打つ手がないのだ。意志が弱い方だから、どうしようもない。とか何とか思いながらも、手はもう煙草のメビウスを一本抜き出している。吸う。旨い。食後の至福の一服である。これだから、ニコチン中毒は重症である。肺癌にでもなってから、青い顔をすることになるのかな、と思いながら、紫煙を吹く。午前中、どうしよう?どこか、ショッピングにでも出るか?何て思ってると、ポケットのスマホが鳴った。誰だろう?

 香奈恵ちゃんだった。何だろう?

「もしもし、おはよう。どうしたの?」

「ううん、たぶん、澄夫さん、暇してるな、って思ってさ、じゃない?」

「図星だよ。今、公園で煙草してる。香奈恵ちゃんは?」

「趣味のカメラ撮ってる。あたしも暇だから、「街と空」って感じで、あちこちバチバチ撮ってるよ。ねえ、澄夫さん、お互い暇なら、午後でもどこか行く?」

 ネクタイのお礼がある。是非、デートにでも誘おう。

「ドライブでも行く?レンタカー借りてさ?」

「それよりお昼ご飯どう?澄夫さん、食べるなら中華と和風、どっちする?」

「僕は、中華だな。酢豚とかマーボー飯とか好きだし」

「じゃあ、あたし、スマホでいい店探しとくから、午後の1時に代々木駅の西口で。楽しみに待ってるわ」

 電話が切れた。でも楽しみだな、香奈恵ちゃんと中華料理か?

そう考えると、ウキウキしてきて煙草を靴でもみ消すと、ゴミ箱に捨て、浮き足立って帰宅する。昼までは、気楽にテレビ鑑賞して暇を潰したが、あまり面白くもない。報道番組は、やけに深刻だし、バラエティー番組は、軽薄に見えて仕方ない。何だかんだとテレビに愚痴をこぼしているうちに、お昼ご飯の時間になる。

 冷蔵庫に何か、あったっけと、探りを入れたが、出て来たのは、冷凍食品と、昨日買っておいたポテトサラダと惣菜類だ。適当に混ぜ合わせて、昼ご飯にする。また麦茶で流し込んで、腹を満たす。

 待ち合わせは、確か代々木駅の西口だよな。えっと、午後の1時か。そろそろ出るか?

 適当に外出着に着替えて、部屋を出たのが約束の30分前。たぶん間に合うだろう。

 駅に着いたのが、2分過ぎ、代々木駅西口は、そんなに大きくない、改札を出ると、左にコインロッカーがあり、駅のすぐそばが高架のガード下になっている。

 香奈恵は、笑顔で待っていた。    待たせたか、悪いな。

「ごめんね、待った?」

「ううん、大丈夫。それより行こ?」

「どこの店にするの?」

「少し歩いてみましょ?」

 連れだって歩く。駅前の飲食店は多いが、お目当ての店があるかどうかである。

 少し行くと、小さな店構えで、「海底飯店」とある。薄暗くて、手狭の穴蔵的な店である。

「ここにしましょ。ムードあるし、何か隠れ家的で素敵ね」

ということで、御入店。石の階段を降りる。地下に扉があるらしい。店内は、それぞれ個室になっており、海底のような暗い店づくりがコンセプトらしい。個室の一室に着き、さっそく注文する。僕は、お気に入りの酢豚と八宝菜の定食にする。香奈恵も同じものでいいという。

 待っている間が暇だ。隣の香奈恵ちゃんとの間が狭い。何だか妙な気分になってくる。香奈恵ちゃんは、ジッと僕の目を見つめて、

「澄夫さんとこんな店来るの、初めてだね、何だか緊張しちゃうわ、あたし」

「香奈恵ちゃん、うぶなんだね」

「やだ、もう、澄夫さんたら」

 恥ずかしげに下を向く。可愛いな。あのえくぼだ。えくぼがある。

 注文が来る。卓上に、様々な料理が所狭しと並ぶ。腹も減ってきた。喰うか。

 パクつく。餃子も二人前だ。タレをつけてパクリ。エビ焼売もなかなかにいける。けっこう良い味の店だなと感心していると、香奈恵も僕と同じように頷いて、感心している。同じ感想らしい。何だか嬉しくなってくる。僕だけか。

何だかんだで、腹は満腹したようだ。やおら、香奈恵の方を見ると、もう彼女も食事を終えて、不思議そうにこちらを見ている。

「どうしたの、香奈恵ちゃん」

「ううん、何でもない。何だか...................」

 香奈恵ちゃんが、僕の顔をチラチラと見て、何やら言いたげだ。そのうちに、僕まで妙に香奈恵ちゃんが魅力的に見えてきて、ムラムラとキスまでしたくなってくる。これはいかん、最初のデートで、こんなことでは。

 でも、それだけ香奈恵ちゃんが可愛くて愛らしいということか、何とも言えない気分である。

 食事を終えて、世間話に花を咲かせて、とりあえず店を出る。

 それから、ペチャクチャとおしゃべりをしながら、香奈恵の趣味とかいうアロマオイルの店で、妙なオイルの匂いを嗅いで、怪しい気分になってしまって、香奈恵ちゃんに笑われたり、街外れの公園で雑談したあとで、和風レストランで夕食をともにした。よく僕の目を見てくる人懐っこい香奈恵ちゃんであった。良い感じ。

 窓の外に夜景の見えるレストランで竹の箸を卓上に置いて、香奈恵が言った。

「今日は、たくさんお話したわね。楽しかったわ。このあと、何か飲む?」

「そうだね、どこかいい店知ってるの?香奈恵ちゃん」

「うん、あたしについてきて」

 紹介されたのは、地下のカクテルバーであった。客も少なく、暗く静かな店内である。カウンター席に並んで座り、眠そうな顔をしたバーテンに向かって、香奈恵は、僕のためにエスプレッソマティーニと、自分のためにブラッディーマリーを頼んだ。それから話題は自然と僕の私生活や香奈恵の私生活のこととなった。カクテルはなかなかにいける。香里奈は、細い指でグラスをなぞりながら、

「あたしの私生活のこと、知りたい?」

と尋ねてきた。僕は、興味津々だった。何だかドキドキしてきた。これが恋心というのだろうか?

「でも、.................、今は飲みましょ?どう?カクテルは?」

「旨いよ、とっても。もう一杯いくよ、いいかい?」

「どうぞ、あたしもまだまだよ、いきましょ?」

 ふたりで何杯飲んだろうか、僕は覚えていない。それから、夜風の吹きつける街に出た。闇夜だ。

 香奈恵が、少し恥じらいげに、僕の太もものあたりに触れながら、少し紅潮した顔で、

「ねえ、遅くなったわね。あたし、帰るの恐くなっちゃった。良かったら、どこかのホテルで飲み直す?それとも、部屋で、ゆっくりと映画でも見る?どう?」

 チャンスだ。香奈恵ちゃん、かなり酔ってるな?誘ってみるか?

「部屋でゆっくりしたいな、飲み過ぎたよ」

 

 ふたりは、ベッドをともにした後で、僕は、煙草を吹かしていた。香奈恵ちゃんは、女のすべてを僕に預けた高揚感と、酔いから来る興奮を隠しきれずに、胸もとまでシーツをたくし上げた。

「後悔してない?澄夫さん」

「正直、嬉しいよ。君と親密になれたんだから」

「ふふっ、あたしも」

 と、香奈恵は、謎めいた微笑を漏らした。


 ついに落としたわ、と香奈恵はしみじみと思った。

 そもそも、入社当時から、香奈恵にとって澄夫は憧れであったのだ。タイプの男性である。好き。大好きなの。何とかあたしのものにする。香奈恵は考えた。どうしよう?彼女は、大学時代に文学部の心理学科に在籍していた。だから、人の心理には熟知していたし、そのテクニックにも精通していた。その知識を活用しない手はなかった。

 荷物を持ち上げてもらい、礼を言う。男にとっては、誇らしいところだ。次に、こまめに電話する。「親近化効果」というところだ。徐々に相手は、親近感を抱くようになる。ここでは、相手の名前を多用する。これで、心理的距離はグッと縮まる。相手が好きなプレゼントをしておくのもいい。好きなネクタイの柄には苦労したが、彼の性格をよく推測して何とかした。中華か和風の選択をさせて、食事に誘えたのは、「誤前提暗示効果」を使った。中華料理店を暗くて狭い店にしたのも、ムードを高めたかったからだ。海底飯店での、キスのトライアングル効果はイマイチだったか。アロマオイルで性的興奮させたのも、勿論、意識的だったし、カクテルバーで、エスプレッソマティーニを選んだのも、カフェインとアルコールの相乗効果を狙った。指でグラスをなぞったのも、性的にアピール出来た。そして、澄夫は、どんどんと香奈恵の術策にはまっていった。最後のホテルの言葉は、「ダブルバインド」を用いた。これで、香奈恵の狙いどおり、澄夫とラブホテルにゴールインしたわけだ。

 これからは、結婚と旦那のマインドコントロールよね。楽しみだわ。でも、あたし、うまく心理学専攻の秘密守れるかしら?大丈夫よね。ここまで来れたんだし。

 そんな香奈恵の考えも知らずに、呑気に澄夫は、ホテルのベッドで、楽しげにテレビを眺めているのであった...................。


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