3
記憶を失って10年、へレナが私に自分の意思を初めて伝えてきた。
私は胸の鼓動が高鳴るのを感じた。慎重に彼女の作業場を出て、一階のアリスさんたちのいる部屋に向かう。
コンコン……。
深く息を吸う。期待しすぎるな、落ち着けと自分に呼びかける。
彼女が私のジャケットの裾をひっぱり、純真な瞳で見てきた。
抱きしめてしまいたいという衝動を必死に抑え、なんとか大人として接することができたと思う。
ガチャッと扉が開き、アリスさんが帰られますか?と聞いてきた。
「いえ、実はへレナさんを少しお連れしてもよろしいでしょうか?」
アリスさんは大きな瞳をさらに大きく見開き、パチパチと瞬きした。
今まで、へレナが外出する時は行きつけの手芸屋か本屋、病院だけであり、それも日の高い時間に数時間だけだ。
「へレナさんがミモザ商会に行って、自分の作品が完成するところを見届けたいと……」
その言葉で、アリスはパッと表情を明るくし「承知しました!」と一礼し、また中に入って行き「あなた~」とご主人を呼ぶ声が聞こえた。
もう時間的に夕食の準備をしていたのだろう。かすかに野菜スープの良い香りが鼻孔をくすぐった。
アリスがバタバタと戻って来て、「お供いたします」と薄いコートを持ってきた。
私と二人だけで行っても構わないが、未婚同士だと何かよからぬ噂をされてヘレナに迷惑をかけてもいけない。
アリスに「頼む」と伝えた。
もう一度狭い階段を登り、ヘレナの部屋に向かった。
もう支度は済んだかと思い彼女を探すと、まだ作業机に向かって何やら作業をしていた。
何か気になることでもあったのだろうか?
私が部屋に入り、彼女を後ろから覗き込んだ。
ヘレナは次の指示書を見ながら、刺繍を始めていた。スズランの刺繍のハンカチだ。
ヘレナはスズランが昔から好きで、よく刺繍していた。だから、図案も早く描くし、刺繍も良く出来ている。
……しかし、なぜ今なんだろうか……。確かに、商会に行きたいと私を呼び止めるくらい意欲的だったのに……。
「ヘレナさん……?」
彼女はビクっとして振り向いた。私は少しかがんでいたため、鼻が触れそうな距離だった。
「きゃっ!」
彼女はそう声をあげて、刺繍枠で顔を隠してしまった。
「驚かせてすまない! アリスさんに言ってきたから、私の商会に行きましょう。アリスさんも一緒に来てくれるそうです」
彼女は刺繍枠から、片目だけ出してじっと私を観察するように見た。その透き通った青い瞳は揺れていた。
彼女は28歳の淑女だが、今目の前にいるのは15歳で時が止まった少女のヘレナなのだ。
「あの……、どちら様ですか……?」
「……っ!」
もう何度この言葉を投げかけられたのか分からない。10年の間に、もう数えきれないほど言われたその言葉は、未だに私の心を抉り続けている。
私は鼻先に集まる切なさを押し殺して、また自己紹介をして事の経緯を説明した。
彼女は天井を見ながら、何か考え、「分かりました」と小さく返答した。
その後、アリスが来てくれてヘレナは心底安心した表情をした。
私は胸が苦しくなり、胸元をドンと叩いた。




